太平洋戦争を未体験の自分が昭和の半分を過ごし、平成を終えて
新たな元号を迎えようとしている。
棒の祖父は明治生まれで、父は大正生まれの人だ。
爺さんは親と一緒に三人の兄弟でアメリカに移民した
初期の移民家族である。
同じく移民でアメリカに居た婆さんと結婚し、
生まれたのが僕の父だ。
父が9歳の時に儲けた金をもって家族全員が日本に帰国。
そこで父と母が結婚し、生まれたのが僕である。
父は太平洋戦争前に日本に帰ってきていたので
戦争では日本海軍として徴兵され、広島の方で兵役の予備軍として
訓練を受けている最中に終戦を迎えたそうだ。
おかげで戦死することもなく、鈴鹿に帰って来た。
戦後8年がたって、僕が生まれた。この時にも父は二重国籍で
日本とアメリカの両方の国籍を持っていたが、日本軍として
徴兵されたことで、アメリカの国籍は失った。ちょうど僕が
小学校に入るような頃に、アメリカの国籍を再申請して
アメリカの大使館に行ったりしていたそうだ。
その頃の鈴鹿市は、まだまだ古い日本の田舎町で
僕の通った小学校など木造二階建ての 建物で
先生に言われて、布袋の中に炒った米ぬかを詰めたもので
床板や階段を磨くのが掃除の一つの作業だった。
米ぬかの脂が、床板に適度なワックス効果を与え
磨くと床が光りだす。そんな時代だった。
また、高岡から木田町へ鈴鹿川沿に
関西本線が亀山方向へ蒸気機関車が走っていた。
高岡の山の途中に関西本線の真上を渡る橋があって
そこで記者が通るのを待っていると
真っ黒な煙を吹いてSLが、橋の下を走っていく。
ボンネットバスがところどころ未舗装の国道を
走っていた時代である。
今でこそ、一家に何台も自家用車がある時代だけど
あの当時に、車を持っている家なんて医者か 地元の名士くらいで
大衆の乗り物は、良くってスクーター程度。
うちの家も大衆の一家だったんのでスクーターと自転車。
大きなものを運ぶのは牛車。其のまま字のとおりで
牛が大八車を引いてあるく。だから、のんびりしたものだ!
牛の歩くスピードなんて、人がブラブラ歩く程度のスピード。
移動にかかるスピードは、今からは想像できない速度であるし、
その分、移動できる距離もしれている。
必然的に生活圏と言われるエリアは小さい。
なにせ、そんな頃の三日市や平田町は、
今でいう亀山とか四日市のようなもの。
町と町の間がしっかりと別れている。今は民家が町の境界線まで
びっしりとつながっているが、その当時は在所と言われる集合体が
畑や田んぼで囲まれ、その先に隣町が存在した。
これが昭和の30年代の地元の姿、
そして、この10年後、昭和40年代になると急激に社会が変化し始める。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫などの電化製品が普及し始める。
時代の変化と共に、生活が変化していった。
移動手段がバスや電車、自家用車の普及によって早く、楽にできるようになった。
この頃、親父が東山動物園に家族全員を連れて行ってくれた。
婆さんや爺さんも連れて、子供二人の6人が名古屋まで日帰りで
行って遊んできている写真が残っている。
あの頃は、親父を先頭に家族それぞれの役割が存在していた。
父親が絶対的な権力を握っていた。
僕の父も非常に厳格な人だったし、僕もよく殴られた。
父がNO!と言えば、絶対にNO!だった。
悪いことをして叱られ、そしてパンチを食らう。
その当時も今も、僕は親が子供をしかる時に
拳骨で殴ることをDVとは考えていない。
もちろん、意味もなく感情で殴るのは許せないが
躾の一環として殴ることに否定はしない。
まあ、今回は虐待の定義についてはこれくらいにして
もう一度時代の変化について話をもどそう。
昭和って言うのは、戦争で荒れ果てた日本が
高度経済成長の波に乗って、平成の礎を築いた時代。
何もない時代から、ものすごいスピードで人が豊かになり
モノに溢れた時代。
今や、家庭の中で当然のように蛇口をひねればお湯が出る。
スイッチを押せば、決められた時間にご飯が炊ける。
自分専用の車があり、自分専用の電話を常に持ち歩ける。
好きな時に、好きなものがコンビニで買って食べることができる。
物質的に日本も欧米諸国と同じくらい恵まれている。
お釣りのこない便所。(こんなの今の若い人には理解できないわ!笑)
僕の子供の頃と比べれば、今の社会は超便利だし、清潔!
でも、時々、そんな不便で暗い昔の生活が懐かしく思える時がある。
パイプオルガンの音色が好きで、時々、思い出したようにCDで聴く。
そりゃCDを再生して聞くよりも、コンサートホールで聴く方が音は良い。
しかし、やはりパイプオルガンは教会で聴くのが一番良い。
昔、学生の頃、スタンフォード大学の教会でパイプオルガンを聞いた。
僕が教会を訪れた時、ちょうどパイプオルガンの練習をしていたのか、
だれも居ない教会の中に響くパイプオルガンの音色に
全身鳥肌が立つような気分になった。
僕はクリスチャンでもないし、キリストについてそれ程知っているわけではない。
そんな僕でさえ、パイプオルガンの奏でるミサ曲を全身に浴びた時
天空のさなかに神を感じたことを覚えている。
もちろん、薄暗い教会の中に、幻想的なステンドグラスの文様が
音と混ざって、更に雰囲気を盛り上げているからだと思う。
教会ってのは、本当によく考えられて設計されているものだ。
天井の高さ、石の床、ステンドグラスから注がれる色彩、
その中心に十字架のイエスキリストがいる。
ヨーロッパの生み出した最高級のエンターテイメントだと思った。
日本の神社にも、別の感覚として人を魅了する術がある。
太鼓と鈴の音がそうだ。
人を引き付けるための演出は、ある意味、冷めてないとできない。
客観的に人の心をよんで、そこにベクトルを合わせ
色々な作用を重ねていくことで、最終的に主体を引き立てる
そんな演出を成功させるには、ブレの無い思い。
この思いは熱く、行動は冷静に!
そんなことを夜遅くCDから流れてくるミサ曲を聞きながら
耕うん機、無事に動いてくれました。
すこぶる調子いい。ただ、側面の泥除けがひん曲がって
ローターと干渉してしまうので、今日は片側の泥除けをはずしての作業となった。
畑を耕すことは問題なく、何とか必要なっ部分だけは
耕して畝を作ることができた。
たった3本だけど、これほど畝を真直ぐに作ることの難しさを初めて知った!
高さもそうだが、幅が均一ではないし、
何よりも真直ぐに畝を導くことができない。
クワを使っての作業は非常に難しいし、腰が痛い!!
随分と目につく石は拾い出したつもりが、
耕うん機でかき混ぜ、クワを使って整地していると
まだまだいっぱい出てくる。
今日はこの3本の畝を作るだけでも、写真にある一輪車に
二杯の石を処分した。
開拓農民の苦労がよく分かる。
そして、足元から冷えがくる。長靴履いて完全防備のつもりが
数時間も土いじりをしていると足が冷える。
さて、この畝を使って何を植えるか??
一本はジャガイモを作ろうと考えている。
ここで採れたジャガイモを湯がいて、バターと塩で食べてみたい。
夏に向けて、トウモロコシやトマト、キュウリやナスも植えてみたい。
まだまだ痩せた土地だけど、少しずつでも生物が息づき、
成長していく姿が見たい。
まだ虹の丘は、人が住んでいる空気の漂わない場所だが、
春になって花が咲き、野菜が芽吹き始めると
人が暮らす場所に変わっていけそうな気がする。
うちには、もう一つ世話しなければいけない畑を僕の実家の近所にある。
そこも手入れをしなければいけないが、
まずは、この虹の丘の畑に、もう少し緑を増やして
正月以来、毎日の更新が続いている。
日課?と言えば、日課となりつつあるかもしれないが
まだ、今のところ、7割がた「意地」かな・・・
さて、いつも、年寄りに向かって運動しなさい!と言いながら
今の自分をみても、本当に運動をしない。
平日は、朝起きて、身支度して仕事に出て
一日中デスクに座りっぱなし。
三食、十二分に食べるだけ食べて、特にこれと言った運動すらしない。
たまに畑仕事をするのがせきのやま。
自転車の趣味もさっぱり、ご無沙汰!
筋トレやって、少し筋肉つけなきゃと、
テレビで筋肉体操を観て、それで終わり。
運動するには寒すぎて、脳梗塞を言い訳にして外に出ない。
この調子で歳を重ねていくから、自分が気づいた時には
すでに事は遅し!って具合で歳を重ねつつある。
天候も不順だしね~と、また言い訳を重ねてしまう
甘い自分が居る。
認知症とは、認知症であっても、認知症と共に、
いろいろと認知症の人への理解を求めて啓蒙啓発活動し
色々な場所で研修の講師を務めてきて
どうしても救えない重度認知障害の在宅老人。
僕の父も重度の認知症で、今では昼夜関係なくまどろんでいる。
僕が気にしている認知症の人は、親父のことではなく
もう少し若い年齢の認知症の在宅生活者。
家族の支援と介護保険を使って、かろうじて在宅を維持できている。
そろそろ在宅生活も限界かもしれない・・・と危惧している。
性格が大人しい人だから、他者に迷惑をかけることなく
ただひたすら、内に籠って 自問自答を毎日繰り返している。
極度の見当識障害のために、不安な時を過ごしている。
状況説明をすれば、その時は理解できて安心するも
直ぐに理解は消耗され、同じ不安な感情で満たされてしまうようだ。
最近は、食事の摂り方も忘れてきたのか、食事介助しても
全部食べきることが無い。
一つは咀嚼回数が多く、こんなにも噛んでいると
胃や腸には優しいかもしれないけど、
食事していることも途中で忘れてしまいそうだ!
自宅に居ても同じようで、最近、体重減少が激しい。
頬がこけてきた。
この人は、家族がこけてしまうと生きてくことも困難に
なるケースのように思える。
特養などの大型施設に入所してしまうと
生かすために胃瘻を造設され、チューブから栄養補給させられ
体に取り付けられたチューブの違和感から
自分でチューブを抜去する行動を抑制するために
抗精神薬をのまされ、次第に寝たっきり状態にされてしまう。
そんなパターンの人がいる。
今は、ぶつぶつ言いながらも、自分で歩き回ることができている。
しかし、些細な条件が重なって、人の生き様が変わる。
自然に生きることは非常に難しい。
そこには家族の思い、社会の決め事、介護施設の都合と
介護者の立場によるさまざまな余生が存在する。