また新たな政党の発足。それも一晩で結成され、その翌日にはつるむ同志が集まり何だか分けの解らない状況が今の日本で起こっている。長い間の一党支配から民主党が政権を奪い取り、結局破局。期待された未来は泡と化し、古い政治に戻るのか?新たな息吹を育てていくのか?と有権者を試すような開き直り政党。
僕の仕事が仕事だけに、あまり政治のことは言いたくはないが、それでも今の政治家には多少なりとも幻滅を感じてしまい、日本よいう国の将来を危ぶんでしまうのである。大阪発祥の政党にしろ、東京から出てきた政治家も含めて、どうも日本の長になることだけが目的としか感じられない政治家ばかり。または、前回の政権奪取の波に乗って政治家になった者たちの生き残りをかけて、政党を乗り換えながら代議士の椅子を守ろうとする。国民の生活を云々というより、選挙の票集めに必死で、いかにすれば国民にソッポを向かれないか?ばかりを気にする政治家しか目につかない現状。国会議員も安くなった、または重みが無くなったとしか言いようが無い。
政治って、こんなにも軽く政界を渡り歩くことができるのだろうか? 小学校の頃の仲良しグループみたいなもので、昨日まで仲良しグループの仲間だった子が、一夜明けて次の日には敵対していた別のグループに移ってしまう。強烈な意志や並外れた意識の高さを持つリーダーが居ない今、すべての政治家はドングリの背比べ的であり、それだけに日本をみる諸外国の目もB級の演劇を見てるような冷めた状況であるのも仕方ない。
大同団結と言うなら、だれが政権を握ろうとも、日本のためとなる事項を徹底的に話し合って、お互いに協力し合いながらシステムの再構築を目指すべきだろう! 原発ゼロや脱原発も大同の元ならなんだってできるはず。お互いの主張ばかりを相手の主張にかぶせて、声張り上げて言い争うだけでは何も変わらない。
それともう一つ、昔の国会議員に比べ、今のえらいさん達の字の下手くそなこと!頭脳明晰であることは確かだが、字が無茶苦茶で、決して美しい字がかけるわけでもない。幼稚な字しか書けないから人格がないわけではない、しかし国会議員となる人は、ある程度の達筆であってほしいと願うのは古臭いおやじ感情かしら?
柔道>支援組織発足へ 五輪「金」に2000万円、独自の報奨金制度
毎日新聞の記事である。日本柔道の前回オリンピックにおける金メダルの獲得につながらなかった要因を踏まえて、柔道界単独の財団を組織し、今後の柔道金メダリストには2000万円の報奨金をだすらしい。金メダルを獲得して2000万円とは、寂しい金額のように思えるが、少なくとも報奨金が出されるだけ改善されたのではないか?!と思える。
しかし、オリンピック競技自体国を背負って戦う場であり、観戦する側も選手よりも「国」を応援する場面が多いのがオリンピックであろう。オリンピックの時期ともなると、それまで日本国を馬鹿にしていた国民ですら、日本人選手を応援する。それくらい全国の一般市民の関心をひとえに集めるほど、大きな国対抗イベントがオリンピックである。猫も杓子も一挙に国粋主義に変貌し、テレビをつければオリンピック中継や録画番組のオンパレード。それこそ金メダルを獲得すれば、帰国後のモーニングショーでは、各局からの出演オファーが入り、分刻みでテレビ局での収録が始まる。
しかし、世間の熱は冷めやすく、数週間もすればテレビへの出演することもなくなり、人々の関心からは遠のいてしまう。何のために(自分のためではあるが・・・)厳しい練習を繰り返し、大いなる国民の期待を背負って、多くのプレッシャーに打ち勝ち、勝利へと突き進むことは並の人間ではできない。僕なんか、自分自身の健康維持のために太ってはいけないことと理解していながら、間食や大食いを辞めることができない。自分のためでもストイックになりきれない人間が多い中、彼らアスリートは、自分自身に厳しく、その瞬間のために努力を積み重ねているのだ。
そんな彼らの努力に対し、これは一財団の話ではなく、国家プロジェクトとして国が責任もって選手の育成から、その結果までを面倒見れるシステムの構築が求められるところではないか? 社会保障の無い国に国民は安心して生活できない。そんな国で一生懸命働く意欲すらわかない。それと同様、功績を認められる国であることが、若者に大きな夢を与えることができ、如いて言えば生活保護に依存する働ける世代の生活保護受給を減らすことができるのではないか?
民主党政権となって3年半、社会がどのように変わったかと項目別に指数で先日の中日新聞が報道していた。改善された点、悪化した点などさまざまであった。この国に生まれ育って、ここにしか暮らすことができない国民に、将来的な夢を抱かせてくれる政治がほしい。衆議院選挙をにらみながら、いろいろな政党、派閥が出来上がり、それぞれに好き勝手なことを言っている。すべてそれらしく聞こえる点では、さすがに手慣れた政治家の皆さん。もっともらしく発言するし、納得させられる。しかし、毎日毎日の報道・・・・聞いてても記憶に残らないのだけど・・・・どうなん???
先日のブログでも少し書いたと思うが、最近の爺さん婆さんは孫を叱ることができない。叱るってのは、人前で孫の人格を無視して、叱りつけるという意味ではない。先日、近場のスーパーで買い物中の出来事を紹介しておこう。スーパーという場所には、幼子を連れて買い物に来る母親のために、子供が喜ぶようなショッピングカートを用意しているが、このスーパーも同様、子供を乗せて買い物するに都合よくあつらえられたモノがあって、その子もベビーカート様モノに座り、爺さん婆さんに押されてお買い物を楽しんでいたはずである。が・・・何を血迷ったのか、突然カートの中で暴れだすわ、奇声を上げるは、それはそれは流石の僕も耳を覆いたくなるほどの金切り声で泣き叫び始めたのです。普通、こんな子供の興奮状態に家族はどのように対応するんだろう・・・
まあ、先日の女流漫画家の飛行機の中で泣き叫ぶ乳児に対し怒りのブログが物議を読んでいると言う話もあるくらいだから、乳児、幼児の「ぐずり」ってのは、ある意味自然の摂理みたいなもので、子供は泣き叫ぶものと思えばそれだけの問題である。しかし、僕が問題だと感じるのは、そんなときの爺さん婆さんの対応の仕方である。
またある時は、孫を連れて買い物に来ている爺さん婆さんも同様、奇声をあげて走り回る子供を尻目に、子供を規制するでもなく、しつけるわけでもなく、自由奔放に野放し状態で見てるだけであった。電車にのっても同様の話は多くある。子供が靴を履いたまま、座席に立ち上がり窓から外を眺める、座面のクッションで飛び跳ねる(それも靴履いたまま)等の我々の常識は、すでに過去の遺物となってきたように、何も注意すら与えようとしない。
爺さん婆さんは若嫁に気を遣い、孫の心情を傷つけまいと苦労する。どうせ歳とりゃ捨てられる身にも関わらず次世代にへつらう爺さん婆さん。日本人の老後が長くなるにつれ、歳を取るにつれ世の中にへつらい、人生を悟ったように大人しく自分を殺して生きていかなければいけない年寄たち。
この世の中、本当におかしい! 弱者救済どころか、一昔前の封建制度のもとで権力者に搾取されて生きてきた時代と何ら変わらないではないか!!少子高齢社会となって、大人よりも権力を握った子供たち! 恐ろしい世の中になりました。
いじめ問題を精査していくと、全国で144000件のいじめ予知が明るみに出たという報道である。テレビのニュースでその実態を知って愕然としたが、同時にその検証のために実施されたアンケートの設問をみて更に驚いてしまった。アンケートの設問には、周りの者から無視されたことがある。意味なく肩をつつかれた、叩かれたことがある。などの内容も含まれており、子供社会で起こりえる悪ふざけの類も含めて「いじめ」の予兆として、取り扱われることに愕然としてしまうのは僕だけだろうか??
確かに「いじめ」は、当事者にとって非常に深刻な問題であり、況してや自殺にまで発展してしまいかねないケースは考えなければいけない問題であると思う。しかし、すべてに際し子供たちの交わり方に深く大人や司法が介入していくことは、子供の自主性はもちろん成長指定行く中の経験から学ぶ場面を取り上げていくことにならないのだろうか?僕は以前から、いじめに対してはいじめに合う当事者の受け止め方にも課題はあると考えている。いじめを受ける精神的なストレスを如何に取り入れ、如何に対処していくかを学ぶ必要性もあると思っている。人間社会に生きる事って、とても厳しい。子供時代に全ての危害から保護し、大人が先に先にと擁護するなかで育った子供が、成人して以降に一人で力強く生きていけるのかが疑問である。
いじめを行うも、受けるも同様、人間が生きていくうえで通り過ぎなければいけない儀式であるかもしれない。たくましく生き残るのは、どうすれば良いのか?それを学ぶことが優先され、子供たちを必要以上に守るだけの法則は不要ではないかと考えている。傷ついた我が子をダシに学校や社会を相手に苦情を申し立てるクレイマーの増加する中、社会全体が保身に回ってしまうことは、さらなる人間関係の希薄につながり、相互理解や協力のもとで生活を継続することは出来なくなってしまう。
高齢者介護の実践現場では、年老いて不要となった者に対する社会は、昔に比べると扶養の意識も変わり、地域密着と叫ばれながらも地域社会とのかかわりは更に疎遠となり、昔のような社会資源を利用して生活を維持することが困難な時代。僕は、今政府の目標とする社会保障の充実には、日本人の社会に対する考え方の根本を改めることも必要であると思っている。社会を混乱させ、自分勝手な理論がまかり通る間違った権利意識を何とかせにゃならんのではないか?!
京都大霊長類研究所の松沢哲郎教授らのグループは19日、「類人猿にも中年の危機」とする論文を米国科学アカデミー紀要に発表した。日本を始めとする各国のチンパンジーなどの類人猿を調べた結果、「中年」にあたる年齢で最も幸福度が下がっているとするデータが得られたといい、グループは「中年で幸福度が下がるのはヒト科共通なのではないか」としている。(産経新聞)
この記事は今日の産経新聞に掲載されたニュースということでネットで紹介されている。チンパンジーも中年ともなると薄幸になるという説である。人間同様ということは、今まで意識したことはないが、中年のおやじってのは、幸せからどんどんと遠のいていく存在なんだ!と改めて認識してしまった。まあ、僕の場合、中年と言うよりは初老に近くなってきているので、薄幸もさらに薄く、細くなりつつあるんだろう・・・このような言葉を聞くと、本当に心さびしい、わびしい気持ちになるもんだ!
さてさて、中年となると何が薄幸か?自分自身に照らして解説してみようと思う。まず、肉体がたれる。下っ腹に脂肪がまき、ぽっちゃりとしたお腹が目立つようになる。これがなかなか改善されない。燃焼効率が低下するからか知らないが、ちょっとやそっとの運動では脂肪が念そうされない。だから下半身デブとなりやすい。下半身同様、顔の皮膚にもたるみが出る。この現象を如実に物語るのが毎朝行う髭剃りのときに、つくづく実感として感じる。昔は髭剃りのレザーも数回往復するだけで、とても滑らかな剃り具合が感じられた。それが、年齢と共に何度も何度も剃っても滑らか肌が戻ってこないのである。
加齢臭の問題。夏場は特に厳しい!自分でも綺麗に念を入れて洗っているつもりでも時間の経過とともに何処からともなくにおい始める。あゝ、それと風呂の湯船に浸かって感じる皮膚の水キレの悪さ・・・・とかなんとか、全体的に肌の衰えは信じがたいほど如実に加齢を物語る。
見た目の衰えは、そのまま社会的にも見劣りがする。若いピチピチボーイと比較すると、それはそれは、大そうな見劣り度合。若い女性だけでなく、すべての女性には見向きもされなくなる。これは、はっきり言って寂しい。寂しいから自分から中に入っていこうと努力する。(この図々しさも加齢のなせる業とは自分は気づいていない。そこが問題だ!)努力すれども、総スカンを食らう。そりゃ、誰だって若い子の方がいいに決まってる。
会社に行けば、中年特有の豊富な経験と慣れが仕事の行方を阻む。豊富な経験は貴重である。しかし、若者からすれば、ちょっとくらいの経験値で大きな面するなと敬遠され、慣れは意外なところに落とし穴が沢山あいているのである。時には地雷として、ついつい自分で踏んでしまって大失敗と言う場面も存在する。中年となってトップには届かない中間管理職。上からは押さえつけられ、下からは煽られ・・・やれやれ、俺はいったいどうすれば・・・・
恋愛からも遠ざかり、人生も半分以上を通り越し折り返し点を通過した者、残っているのはシガナイ老後の生活??これでは、チンパンジーにも負けてしまう人間の中年。薄幸の論証にまけず、これから一花、二花と言わず、若者に負けないカッコいいおっさんを目指そうではないか! しかし、ねえ・・・・つらいね!