人間は誰しもが死ぬ。かく言う自分自身も「死」を覚悟する時期が来る。高齢者介護の現場は常に、利用者の死と向かい合う業務である事が多い。事業所によっては、利用者の最後を病院にお任せする所も存在するようではあるが、大半の事業所では、如何にして利用者自身の死への恐怖を和らげ、可能であるなら苦痛の無い最期を迎えることができるように常に話し合っている。そのために常に家族、現場と医療が連動しながら見守りを行うことが求められている。グループホームにおけるターミナル期には、この三者の何れが欠けても理想とする死を迎えることは出来ない!とは言い過ぎだろうか?
少なくとも一人として、野垂れ死にする現場を素通りできる精神の持ち主は居ないように、大半の人々、特に医療の現場、介護の現場で働く者にすれば、その人の身になって死を考えてあげたい。そんな暖かな気持ちでいるはずであるし、そうであることを期待したいところである。
されど、実際の現場では、個々の職域が連動しない。連動しないどころか、お互いの責任の所在が優先されるようである。責任逃れまでは言わないにしても、自分を責任ある位置に置きたがらない。入所系高齢者施設で看護も介護も、こと入居者の死に対しては、それ相応の責任は否が応でも存在する。人ひとりの命を預かるということは、それだけ重要かつ重大な責任を担うということであり、普通でない死に方に対しては、厳密な調査が行われることは当然である。人が自然に一生を全うしようとするとき、そこにどう疑っても違法性や犯罪性ってのは考えにくい。ここで問題となるのは、人の死ではなく、死に方の問題であろう。
最初にも書いたように「死」は、誰にも必ずやってくる。この問題から逃れることは出来ないのが生きているモノの宿命であり、僕はお預かりしている利用者の死そのものに責任は問われないと考えている。我々の責任は、その人の死に至るまでの過程に存在するわけで、当然、死に責任を負わせるつもりもない。そこに利用者の身体的な衰弱や障害を抱え、必死の見守りにも関わらず、些細な事がきっかけとなって死に至る場合もある。人間は思いの外頑丈にできている。と言う理論は健康な者に対して言われる理論であって、年齢や状態によっては、本当にもろく、極、些細な事でも命取りとなる場面は多い。それ程、高齢者、だけではなくターミナル期に居る人間の脆さっていうのは言うまでもない。
問題となるのは、死に至る過程において介護や看護にミスがあって死期を早めることに責任は生じる。そして同時に、そこに至る生活の質を保証するうえで介護職に責任があると考えている。私たちは医療従事者ではない以上、何の医療行為もできない。要するに医学的な見地から人の命を左右することはできない立場である。末期の癌患者にもr
死を特別視できるのも人間に限られた行為であり、動物には連れ添いの死を悲しむ種もあるようだが、多くの動物社会は弱肉強食の社会に生き、今を生きることに全精力を費やしている。他者の死を悼む気持ちは、そのまま次の自分の死に直結する危険性をはらんでいるのが野生動物の社会である。その中で、人間だけが他者の死を愛おしみ、悲しみ、嘆くことができる動物である。そこには他の動物にはない文明があり、感情があるからである。「死」をスピリチュアルなものだけでなく、科学的にも理解できるのが人間の特徴であるともいえる。
へ理屈は兎も角として、人ひとりの命の重さは、スケールで計測できるものではない。それほど重要で貴重な場面に沿って業務を行っている以上、死をどのように理解し受け入れていくのか?!を関わる者たちが常に同じ考え方でいなければいけない。そこに報連相が実践されてなければいけない。死を冷静に受け止め、適切なかかわりを持てるよう訓練も必要である。
私たちにとって、高齢者、特に施設利用者の死を如何に自然に迎えさせてあげることが可能か?そこに尽きるのではないか!そのための連携であり協働である。お互いが専門性を駆使し、一人のヒトを看取るためにいろいろな感情の織り成す芸術的ともいえるケア。どのように演出するにしても主人公は、たったひとり。この一人のために皆が同じ方向に努力することが協働と言われることばである。
太陽の家デイサービスを利用される方のご家族から写真の音楽CDをたくさん寄付いただきました。
マーラーあり、ショパンあり、ラフマニノフ等、超有名な指揮者、作曲家のクラシック音楽をいただいたのですが、僕が一番うれしかったのは、個人として欲しかったチョエロ奏者「ヨーヨーマ」の一枚が含まれていたことです。このCDはすでに廃盤となっており、入手困難な一枚。これを見つけたときには、誰にも言わずにコチョッと隠してしまおう・・・って思ったほどです。
太陽の家では、利用者の皆さんに邪魔にならない程度のBGMを流します。これら頂戴したCDも、今後、デイサービスだけではなくグループホームでも癒しの音楽として館内に流させていただきます。
利用者同士の世間話から、ちょっとした誤解が生じいろいろな副作用的弊害がみうけられる!と連絡があった。なんのことは無い、受け手側の誤解、要するにその時の気分によって受け取り方が「逆」に作用してしまった。という事らしい。言った方は、特に悪意もなく意図するものもなく、いたって普通の会話のつもりであったろう。それが、右から左へ、左から右へと話が伝わるにつれて、元々の言葉は自然に歪められ、当初の言葉とは異なる意味合いを持ってしまっている。
さて、介護施設としてこの現象をどのように捉えるか・・・?
皆さんなら、どのように対処するだろうか?勝手に一人歩きする言葉を昆虫ネットを持って追いかけたとしても捕まるわけがない。一度、人の口を出た言葉は、もう何処にも戻らない。覆水盆に戻らず!である。それでは、どうすれば良いのか?
このようなケースでは、どのみち当事者に別室に来てもらって事情説明したところで何の解決にもならない。それにも増して、そうすることで両者間の距離を広げ、荒らし、お互いに壁を作ってしまいがちである。もうこうなると、職員は何があろうとも「無視」するのが一番である。ただ単に聞き流すのである。
介護施設にしたって、人間が集まるところであり、そこには種種雑多な考え方が存在し、色々な解釈の仕方が存在する場でもある。言ってみれば、一つの小さな社会が形成されているわけで、そのような社会には規模の大小に関係なく、常に壊れやすい人間関係が存在し、扱いに苦慮する場面は必ず存在する。
人間として生きていく上において、人とのトラブルは避けようがなく、それらのトラブルのすべてに神経を使っていては、解決できるものも余計に傷が深くなろうと言うモノ。この際、「へ~っ、そうなんや!」と聞いてあげるだけにしておけば、そのうちに消えてなくなるだろう!それよりも何よりも、僕たちがその現場に遭遇したら、解決方法を模索するより、このような複雑な人間関係に発展する以前に、利用者自身が楽しんで個人の生活を継続しながら、適度の関わることのできる場の創造に全精力を費やす方が良いのではないか・・・と考えている。
この足元写真は、太陽の家デイサービスセンターを利用される方の写真である。ご本人にホームページ上で掲載する許可をいただいて公開させてもらっている。
以前から、僕は研修のたびに受講者の方々にお話ししていることの一つに、自分自身の着ている服に対して敬意を払うことが「気づき」につながるのです!と説いている。特に履物に関し、毎日、毎日、この僕の全体重を一手に受け止め、衝撃や危険を緩和してくれている履物に対し、愛情をこめお手入れをすることは、自分自身の感性を豊かにすると言う理屈を説明している。毎日の感謝をこめ衣服や靴に行うと、自然とほかの人の身なり、気遣い、心配りなどが気になり始める。その人が「モノ」を大切にしている姿勢や気持ちが、よく伝わってくるのである。
そんな会話をしながら二人でタバコを吸っていた訳だが、この写真の靴の持ち主は、いつもオシャレに気を配っている。この方にもほかの要介護者のように苦悩も苦痛も存在する。体調の維持も日によって困難な時もある。従ってデイサービスの利用に際しても、当日キャンセルってのもある。
この利用者は、歳を重ねたから、病気を患っているからと言った理由で薄汚れた格好に甘んじたくはない!とはっきりと言い切った。僕は、そのような気持ちってとても大切であると思っている。理由に関係なく、僕はファッションの人間に与える影響の大きさを信じている。ファッション、つまりは他人に与える見た目の印象ってのは、年齢に関係なくいくつになっても重要であり、その日の気分を左右するものと思っている。
歳を重ねることは、職業、立場、経歴、資産の額に関係なくすべての人に平等に訪れる。しかし、その人の気持ちの持ちようによって心の年齢は、全ての人によって格差が存在する。心の年齢だけではなく、その人の生きる上の気持ちにも格差が生まれるはずである。
欧米人の高齢者の方々のファッションは、年齢を重ねるにつれ派手になっていく。色使いも派手である。日本人の感性からはちゃらけて写るかもしれないが、そこには海外の気候風土や住民の気質みたいなものが関係して、ド派手なファッションでも堂々と闊歩している社会である。僕も、このデイサービスの利用者の方のように、オシャレは足元からにこだわり、これからの老後を迎えたいと願っている。
先週末は御在所岳の登山。今週は自転車。ともに体力を消耗するはずのエクササイズ。
しかし、その実、自転車をこぎながら10分もすれば、のどが渇く。適当なところに行きつけの喫茶店。まだ、僕の自転車をお披露目してなかったから、ついでだからと理由をつけて立ち寄る。なじみの客が同席してバイク談議に花が咲く。さすがに自転車を炎天下の元、力いっぱい漕いでいると、何か冷たいものでも一杯飲みたい気分である。
アイスコーヒーなら大丈夫!でも、少々疲れた体をいたわる意味でも砂糖シロップを加えて、ミルクも少々!これでコーヒー牛乳のようにまったりと甘く仕上がったアイスコーヒー。やっぱ、旨い!疲れた体には、甘いものが最高に良い。おまけにキリッと冷え冷えの飲み物だから、尚のこと良い。
さあ、ひとしきり休憩を取ったから、自転車を再スタートさせよう!と、潔く自転車のサドルにまたがり、勢いよく漕ぎ出す。結構、この坂って自転車には辛いなあ・・・と息も絶え絶え登り切った先に鈴鹿サーキットのゲート。これさえ越えれば下り坂。人生、やっぱ下り坂は一番!って誰かが言っていたが、何も漕がなくても自転車は爽快に突っ走る。並走して走る一般自動車よりも自転車の方が早い。
この下り坂を利用して、距離だけは伸びた。白子まで下りてきた。それも、大した労力を使わずして・・・・
ここまでくれば、後はチンタラと自宅まで平地走行。大したエネルギーも使わず自宅に帰着。ちょっと自転車こいだだけでも腹は減る。効果覿面。そのまま、夕食となり、いつもの倍のごはんを平らげても。まだ腹が減る。腹が減ることは良いことだ。以前大病を患ったときは、食いたい!気持ちが起きなかった。今日も晩御飯が美味かった!
ってなわけで、結果的に自転車のエクササイズを始める前よりも、終わった後の方が体重が増えている・・・これってどうよ??!!