アメリカ合衆国の国民の祝日として、11月の第四木曜日がサンクスギブン又は、ターキーデイとも呼ばれる日がある。クリスマスまで一月という時期に、散り散りバラバラとなっている家族も、集まって盛大な食事会をする習わしである。通常は、食卓に七面鳥のローストがあがり、その家の長が、家族全員に公平に七面鳥を切り分けて、個々のお皿に盛り分けるのである。もともと、この風習はアメリカに開拓民としてイギリスから渡米した人が、厳しい環境の中、生きるために得た糧を神や近隣の先住民に感謝の気持ちを込めて、大きな食事会を開いたのが起源である。
七面鳥は、鶏よりも体格が大きく、大食漢のアメリカ人には打ってつけの食材で、一昔前までは、薪をくべるタイプのオーブンで、半日ほどローストして、リンゴで作ったアップルソースと一緒に食べることが多いようだ。丸まると太った脂ののった七面鳥は、ローストする事によって、余分な脂があぶりだされ、元より淡白な肉質は、さらにあっさりとした味わいで、非常に美味しい食べ物である。もちろん、七面鳥の腹の部分が空洞(臓物が取り出されているので)となっているので、その部分にいろいろなハーブやスタッフィングと呼ばれる詰め物をして、肉と一緒に食する。これが各家庭の秘伝の味につながり、その家庭の味は、代々にわたって継承されている。まあ、今でこそ、日本の田舎でも七面鳥をスーパーで見かけることがあるが、僕の子供の頃では、七面鳥なんて手に入らなかった。それで、我が家では代々、チキンのローストを作って食べてきた。もちろん、スタッフィングも入れて、長時間ロースとする。そして、その時に出た脂をもとに、グレイビーソースを作る。
感謝祭の宗教色は年と共に薄くなって、今では国籍、宗教に関係なく、全ての人が感謝祭をお祝いする。そのおかげで、この時期のアメリカは、全ての商店や行楽地などのお土産屋が休業する。だからこの時期にアメリカを旅行しても、精々ホテルくらいしか、営業しているところは無い程で、レストランさえ休業するために、有名レストランで夕食をと計画していても空振りに終わる事が多い。今から十数年前に僕の知り合いが、サンクスギブン ウイークに結婚する事となり招待を受けた事がある。日本から飛行機に乗って夫婦共に渡米したのだが、せっかくのアメリカ西海岸にきたのに、ホテルに缶詰め状態に近い、街に出ても誰もいない。お店は営業していない。とてもつまらない日々を過ごしてしまった事を覚えている。
しかし、このThanks Givenの日本語訳は「サンクス ギビング」と表記されることが多い。まあ、間違ってはいないけど発音は「サンクス・ギブン」の方が正しい。11月、12月とアメリカ合衆国では、一年で最も大きなホリデーが二つ続くのである。この感謝祭、そしてクリスマス。アメリカ東海岸では、めっきりと冷え込む時期に、家族全員が集まって食事会を行う。マンネリとなりつつあるが、少子高齢化社会で核家族化が進み、老人の孤独死が問題となる現代社会。こんな慣例として残された風習は、とても意義ある風習である。チャールズ・ディケンズのクリスマス・キャロルではないが、金儲けに必死になって人間社会が憎悪と猜疑心で蔓延し、他人を信じられない今の殺伐とした社会に、一寸のほんのりと心温まる風習ではないかと思う。
流石にマグニチュード9の巨大地震の後遺症というか、影響が日本全国で起きている毎日です。広島、北海道や福島でも震度4や5の大きな地震が、時折襲ってくるのですが、非常に恐ろしい状況が続いていますね。また、東海沖地震や東南海地震が危惧されながらも、この地方での地震発生回数は極端に少ないのです。嵐の前の静けさか?逆に中規模の地震も起きない、この状況が、大きな地殻エネルギーが蓄積されているようで恐ろしい。年寄りに言わせると伊勢神宮のおひざ元の三重県は、大きな災害には縁遠い!と言う人も多いのですが、このまま縁遠い災害であってほしいものである。
さて、それはさておき、日本の国は小さな島国で、そんな小さな国でも経済力は世界第二位を誇っていた時代もあった。今でこそ、随分と落ちぶれてしまい、世界のトップクラスから脱落してしまい。ある意味、まあ、これが本来の姿か・・・!と夢の世界から覚めて現実を見てしまったような気になる。実際問題、経済大国として君臨していたころにしても、一般庶民の生活は先進国のそれとは、大きく隔たり、国民感情だけが報道に踊らされ、如何にも金持ちのような気分に酔い浸り、心良い優越感に踊らされていたような気分である。妙な優越感とトップクラスのうぬぼれが、バブル以降、リーマンショックで脆くも崩れ去り、今の評価は現実社会をそのまま正直に評価されているような気がする。
しかし、お金は有る所には有る訳で、今では時の人となっているが大企業の会長がマカオのギャンブルで90億円近くを失った人もいる世の中。本当に金持ちは居るのですね!!(ちょっと嫌味・・・?)僕もラスベガスではカジノを楽しんだこともあるが、そこは小市民。せいぜい損しても1万や2万程度。一千万や1億なんて賭けることは出来ません。映画「華麗なる賭け」のスティーブ・マックイーンが好きと言う話を以前したことがあるけど、彼も今噂の大富豪の御曹司と同様、大金持ち。そんな主人公がギャンブルとして銀行強盗をはたらくと言う荒筋。大富豪らしく、マックイーンは、常にクールで堂々として窮地に際しても余裕の冷静さ!そんな彼を羨望の思いで眺めていたものです。カジノでは、大金を賭ける客を特別ゲストとしてもてなします。以前、僕がバイトしていたアメリカの造園屋さんの社長も、定期的にユタ州のリノと言う保養地のカジノに通っていたそうです。かれも大金を賭ける乗客の一人で、彼が訪れる時のカジノの対応が違うそうです。これは、その当時、彼とカジノに同行した友人と言われる人が実際に語っていた事で、VIP扱いってのは、素晴らしい。と言っていた。カジノ店に到着したその時から、雲の上を歩くような(要するに地に足がつかない状態)超スーパー特別なおもてなしは、彼を王様のようにもてなす様だ。痒いところに手が届く。求めるモノは、何でもそろえて準備できる待ち受け状態が帰るまでスタンバイされているそうである。もちろん、ギャンブルはポーカーだが、彼専用の部屋まで用意して、一般客は同じテーブルにつけないそうである。
誰にも気兼ねせず、自由に王様を堪能して、その見返りとして大金を納めてくる。要は、大金で満足を買っているようなものである。そう言えば、最近、僕も介護職員の新人研修の場で、介護の仕事は心をこめておもてなしをすることと講義した。利用者に心をこめて王様気分を味わってもらい、その見返りとしての介護報酬を頂戴する。カジノと違って、サービスの質によって価格が変動することは無く、一定の報酬で良質の介護を提供する。今、時の人となっている御曹司が認知症になった場合、それこそ中途半端な今の介護職員の提供できるサービスの質では満足してもらえないのではないだろうか?世の中、全てが金?!いや、そればかりでは無い。その御曹司には、僕の力で定額で少ない介護報酬だけでも満足出来る介護をして見せるわい!
当太陽の家デイサービスセンターでは、日々の介護業務遂行の中で、職員のモチベーションを高めるために、ある目標を設定しました。この目標を達成したあかつきには、職員全員を東京への一泊旅行と初日の夕食を赤坂の高級レストランにて、プライムリブをプレゼントする事とします。プライムリブとは、アメリカ風ローストビーフの名称ですが、ワインを飲みながらプライムリブを食べて、その後は六本木にてお酒を飲みましょう!と言う企画です。
詳しくはフロアー長に聞いてください。
ブログで発表した以上、約束は守ります。
太陽の家 施設長
PS. グループホームの職員には、同様のプライズを企画いたします。グループホームの場合は、全員が同時に参加するのは困難ですので、その点をクリアー出来るモノを考えます。
うちのデイサービス利用者の皆さんと紅葉狩りに出かけた時、紅葉していないモミジの木の下で過ごす老人たちの姿は、「動く」動作に苦痛が伴うような雰囲気を感じて、加齢による運動機能の喪失の速さに改めて驚きを隠せなかった。普段、デイサービスに通ってもらう場面での歩行に、それ程の変化がみえないのは、移動距離の短さからか、一年の期間の変化は全くと言ってよい程見えない。それが、あのような広場において、老人たちの行動は、まず座れる場所を探す。それも車を降りた場所から近いところに。そして、その場所から動こうとはしない。その理由として、転倒が恐ろしい。動く動作は疲れる。気力が無い。同時に興味もない等、複数の理由をつけて座ったままでいようとする。 介護の基本に、その人を中心に置いた介護が求められる今、私達健常な者にしてみれば、「だから筋力低下がおこって歩けなくなるのだから・・・・」と言う理論が出現する。でも、その人の意思として動きたくは無いのだから、無理に強制しても・・・・と言う心の中で葛藤が始まる者もいる様である。
確かに、本人の意思で座っていたい。のは事実だが、紅葉狩りに出向いた目的を利用者には説明しているはずだ。紅葉狩りは、単なる見物だけの目的ではなく、そこの現場で足腰を鍛えることも二次的目的として含ませている。それを理解したうえでの外出行事ならば、本人の意思もへったくれもない。空気の澄んだ、心持肌寒い屋外で、それも紅葉までもうしばらく時間を要するモミジの木の下で、動いて、歩いて、活動して、普段、手すりにつかまりながら、辛うじて歩ける程度の距離しか移動しない生活から抜け出して、ここの足場の不安定な公園で、思いっきり足腰を伸ばしてもらえるよう支援すべきである。
リハビリテーションの意義は、その人の在宅生活を健康に出来る限り長く継続できるよう機能を訓練することである。個人の気持ちの中では、年老いてまで筋トレ何ぞしたくは無い。それよりはテレビをみてノンビリと暮らしたい。と言う意識が働くわけだが、その希望を丸のみして、好きなように暮らしてもらっては、最終的に本人の生活に大きな支障をきたすこと。それにより、将来的には自分の思い通りの活動が出来なくなること。その辛さを考えてもらえれば、リハビリへの参加意欲も増すのではないか?!と考えている。介護職員の多くは、研修等で教えられたとおりの支援を行おうとする。しかし、それも、時と場合によっては、無視して、もっと広い視点で対象者を見ていく必要性があると思う。
デイサービスにおける外出行事は、単なる気分転換を唯一の目標としている訳ではない。と言うことさ!
我が家のミニチュア・ダックスフンド達は、結構な年齢になってきた。知らず知らずのうちに年を重ね、一番上のお姉ちゃんは11歳となる。人間で言えば妙齢のお婆さんである。その下の二女は、上の姉ちゃんから半年遅れで生まれてきた。同じ母親を持つ実の兄弟である。それぞれ個別のキャラクターを持ち、それなりに自分自身をもっている。若干、妹の方が気が強いのか、今でもお姉ちゃんのオシッコした場所に、必ず上乗せするように自分のオシッコをかける。相手の匂いにかぶせて、自分の臭いを付けるわけだから、「自分の方が力強いよ!」と言う自己表示なんだろう。
そんな二女が最近視力障害が出始めている。家の中や屋外でも、自分の顔をモノにぶつけることが頻繁に起こっており、最近になってアニマル病院を受診した。結果、ダックスフンド特有の目の病気で、次第と視力を失っていく病気だそうだ。特効薬らしきものもなく、手術をしても回復の可能性は低いらしい。しかし、只指を加えて視力喪失を待つだけも嫌なので、獣医師に対策を聞いた。先生曰く、サプリメントを与えて失明までの時間を暮らせる程度しか残っていないと言う。一日二食の食事のたびに錠剤を二錠与えているが、今も状態は欲はなっていない。犬は人間と違って痛みの訴えが少ない。また、諸症状の変化に対しての訴え自体が少なく、飼い主が状況をみて判断してあげなくてはならない。普段からの様子を観察する中で些細な変化をくみ取り、対応を決めてあげなければいけない。
これは、認知症の爺さん、婆さんに接する時と同じで、相手の訴えを待っていては、何事も手遅れになってしまう。認知症の方々も痛みを訴えない方が多い。特に認知症症状の悪化と比例して、言葉を発することが減少していく。こんなケースでは、そばに居る者が、その人の様子観察をするどく実施(要するにアンテナを高く上げるとい言うこと)しなければいけない。普段の様子との比較が重要であり、その人の元気な姿、健康時の様子を知る事から始まる。最善の時の様子と比較すると、何かが違う。その気付きが重要なんである。
うちのペット達も食事摂取量や便の量や質、色、回数、水分の摂取などを総体的にみて、いつもと違う点を察知すると、その都度、詳しく様子を記録して、その様子を専門医に伝えて原因を追及している。人間は健康な時ほど、「ゆるぎ」が多く、一定の決められた動きを行わないと言う。逆に病気や機能が低下したときこそ、同じ線上を通りぶれが少なくなる。簡単に言えば、死ぬ時期が近くなるにつれ、生命維持活動の振幅が小さくなっていく。と言う訳である。
私達の健康は、非常に微妙なバランスを保ちながらキープされている。特に高齢者ともなると、それは繊細なガラス細工のようなもんで、それこそ簡単な衝撃で壊れてしまうほどか弱きものである。そんな超、超フレキシブルな人間。どう言う風に支援して行くのか、声がけ一つにおいても、非常にきめ細やかな神経を要求される。相手の様子を観察し、その変化を組みとる。これが、我々高齢者を介護するスタッフには求められているのである。