昨日今日と、非常に温かな日が続いている。我が家のペット君達を裏庭に放ちながら、自分もベランダに大の字になって寝っ転がってみた。まばゆい陽の光に照らされて、目を覆わなければ空を向いて寝っ転がる事も辛い。そんな日差しを全身に浴びながら、久しくこんな解放感を味わったことの無かった自分に気付いた。実際、昨年末より、なんだかんだと病院通いを余儀なくされ、いっぱしの病人さんだった自分は、こうやって何の苦もなく日光浴出来る状態に、とっても感激してしまった。
特に病人さんだったからと言うだけの理由だけでなく、ここのところ紫外線による顔面のシミや花粉を避けるように、屋外に無防備で寝っ転がる感覚を忘れさせられていた。以前は、河原の土手に土筆を探しに行っては、そのまま枯れ草の上に寝っ転がっていた時もあったのに、そんな自然に回帰しようとする行為自体、危険きわまりないと言う意識が働く時代になってしまったのかと嘆くばかり。 事も東北の福島県界隈では飛散する放射性物質の驚異から、屋外で思いっきり太陽の光を浴びる幸せなんて味わえない環境となっている。僕たちは、文明社会の便利さを得るために、大切な物を変わりに捨てているのかもしれない。
そんな大そうな話ではないが、実際、何も恐れることなく自然の風、光、熱に身体をさらけだし、心身ともにリフレッシュできた時代は、この日本には存在しないのかなぁ~????
桜の開花予報にかこつけて、自粛ムードに異論を唱えたが、この近辺のスーパーマーケットに行っても、全体的に照明を落として省エネモードの陳列棚が多い。商品が新鮮に見えないのもあるが、全体的に薄暗い店内は陰気なイメージである。関西地区の電力消費が多いから、東北に回す分が不足してるのではなく、電力の周波数の問題から送電するにも限界があると聞いている。関西地区の小電力運動が、そのまま東北の被災者に大いに有効な手立てとして役に立つなら意味があるが、何の意味もなさないこの自粛ムードは、市民の復興に向けての精神力の低下にしか結び付かないのではないか・・・?と思う。
いろいろなイベントが中止になって、最近では結婚式さえも延期になる傾向があるらしい。多くの親戚が東北で被災者となってしまった家族にとっては、結婚式への参列がままならない状況であり式自体を延期せざるを得ない事は理解できる。しかし、ただ単に、こんな時に不謹慎な・・・・とでも言うように結婚式を延期する。なんだかな・・・・震災にすでに負けてしまっている。全てを認めて「降参!!!」って、うちのペット君達がちょっとでも恐ろしさを感じると、自身の腹を見せて「降参!降参!」と言うのと同じ気がする。
皆さんが控えめ、自粛ムードと裏腹に、市内のお店からはペットボトルのミネラルウオーターが買い占められてなくなり、乾電池や懐中電灯の類が一斉に売り切れてしまい、携帯の簡易充電器や防災関連のグッズが売り切れてしまう。この矛盾はどこから来るのでしょうか? そろそろ、私達のような被災地とは無関係な地方に暮らす者は、楽しめる時に楽しみ、笑える時に笑うように、全ての制限を取っ払ってしまう事はいけないのか?僕は、そんな考え方よりも、楽しめるひとは楽しむことで、地方経済を含め社会全体に活気が戻って来るような気がする。
もっともっと、楽しもう! 今の時間もデイサービスに通う高齢者にとっては自分に残された貴重な時間である。そうであれば、大切な時間を笑いでいっぱいにしてあげたい。余分な心労を味あわせたくは無い。
社会全体が過剰な自粛ムードの中、そろそろ桜の花が彩りを増す時期が近づいてきた。桜の花には、今の日本の社会、特に東北地方を中心にした関東以北の状況に関係なく、気候に連動するように桜の花は花を咲かせようとしている。僕は、自然の流れのなかで、桜の花が社会要請に関係なくいつもと同じような花を咲かせる力に、逆に人間さんもあやかりたいと思っている。今回の自然災害の打撃は大きすぎる程大きい被害をこうむった。日本全体が喪に服すべき規模である。しかし、この悲しみに抑え込まれて、何もできない人間は、自然の驚異の元に完全に敗北をきたした結果となってしまうではないか。
自然の威力の前には、人間の力は無力に近い。でも、そんな逆境からも人々の努力を結集し這い上がってくるのが人間の強いところ。東北の仲間たちも這い上がってくるに違いない。そう願いながら、桜の花を観賞する余裕も持ちながら、将来に向けて楽天的に考え、ゆっくりゆっくりと復興の道を歩んで行けるのが我々日本人だと思う。
桜の花は、何も遠慮することなく、今年も艶やかな花を満開にし、その下で散りゆく桜吹雪を眺めながら、又一年を過ごすことができたね!と小さな喜びに感動するデイサービスを利用するお年寄りたち。僕たちは、今、日本が逼迫している状況も理解できない高齢者の唯一の楽しみであるお花見を今年も盛大に盛り上げていかなければいけないと思っている。社会が、これだけ低迷している時だけに尚更、明るく元気な今を演出してあげなくてはいけないと考えている。
最近、時々ですが、職員さん達に「今日は何、つくるの・・・・・?」と聞く事がある。 これって主婦の会話であって、男の僕が女性の皆さんに相談する内容じゃあないよねえ・・・? (笑)
しかし今の時代、男と女の役割に、はっきりとした線引きが出来ない時代のようです。男は子供を胎内に宿し出産する事はできないが、子育ては女性に変わって行う事が出る。すると、当然の理屈として、子育てが出来るなら調理も可能であるよねエ!と言うのが女性側の言い分である。そして、挙句の果ては、元来女性は基礎体温に日日の変動が激しい動物であって、その体温の変動は、そのまま料理の安定した味付けには不適格なんだそうだ!つまり、女性の味付けは日によって大きな波があって。マズイ!と言う事らしい・・・・
そして、かくなる僕は体よく女房に踊らされて、毎日、夕食の献立に頭を悩ませ、行きつけのスーパーマーケットに並ぶ生鮮食品の品定めに冷蔵ショーケースから漏れ出てくる冷気に、更に寒さを感じつつも我慢しながら献立を決めているのです。
世の食卓を預かる方々(特に女性とは申しません!)の、日々の苦悩を考えると身につまされる私めでごじゃります。笑
福祉を学ぶ中でユニバーサルデザインなるものを学ぶ機会がある。特に福祉住環境コーディネーター試験では、よく出題される問題としてユニバーサルデザインやらハートビル法やらバリアフリーなどが登場する。かくなる筆者も自慢ではないが(いひひひ・・・秘かに自慢げに・・・)福祉住環境コーディネーターの3級、2級も一発合格している。さて、そんな自慢話ではなく、最近、自分の体調の問題からトイレ問題が大きく一日の自分の活動範囲を左右しているわけだが、今日、必要あって大型の集合店舗を訪ねた。目的は簡易的なソファーを品定めしに行ったわけであるが、案の定、そこでもトイレの必要性に狭まれ、とても緊急的にトイレのお世話になる必要性が出てきた。しかし、建物内部の案内看板からは、トイレの方向は指示されているものの、行けども行けども肝心のトイレはみえてこない。それどころか、最初に見た看板からドンドンと離れていく自分自身に、ひょっとしてお漏らしでもしたらどうする?という不安感も抱きながら歩き続け、やっとの思いでトイレにたどり着いた。非常に近代的ウオシュレット完備のトイレは清潔に維持され、とても居心地の良いトイレではあったが、この距離に一つのトイレは、決して必要とする切迫性のある利用者にとって優しい環境とは言えないと思うのです。
僕の場合は毎食後に下剤を飲んで排便管理をせざるを得ない者の一人となり、一時的ではあるもののトイレの重要性について切実とした感覚をもって実際に体験しているのである。その中で、私達ソーシャルワーカーが、障害に対する参加制限や行動制限などを排除する活動をしていても、実際の所、市町に点在する公衆トイレの実情とは、かなり悲惨な現状がある。
まず不潔である。汚物や吸い殻、ゴミなどで汚染されたトイレでは、ペーパー自体も存在することなく、後処理をどうすれば良いのか困ってしまうような惨状が存在する。公衆マナーの悪さもさることながら、それらのトイレを管理運営する側の怠慢のようなものも感じる。
以前の健康な自分の場合、汚れて気分悪いトイレは使わなくて済んだ。しかし、そんなトイレでさえ頼らざるを得ない人達を考えると、やはり出来る限り清潔に使ってあげてほしいと思う。実際に自分がその立場になるとよくわかる。