高齢者にまつわる症状の一つに記憶障害があるが、特に著しい記憶の障害を今どきは「認知症」と言っている。その昔には「痴呆」または「ボケ」とも表現されており、それなりに人の尊厳を守る意味からも認知症と総称している。そんな、認知症という言葉のイメージを高齢者に聞いてみた。アンケート調査としてではなく、デイサービス利用者の一部に聞いた程度なので、何の意味も無いが、一様に「ボケ」と言われると腹が立つということであった。 利用者はボケと言われることで「馬鹿にされている」と感じると言う。それに比べて「認知症」の方が受け入れしやすいと言う。 私は「認知症」という言葉は「病名」のようなニュアンスを含んでいて、その言葉自体の重みが「ボケ」よりも重いという解釈を説明したのだが、それに対して利用者は、その道に活きる者として認知症を病名的イメージでとらえてしまうからではないか・・・と解釈された。
認知症は病名ではなく、その状態を指す言葉なのであって胃潰瘍や癌とは違う。しかし、私自身、認知症という診断がなされたとしたら、それこそ受け入れに時間がかかりそうな気がする。まあ、認知症だけに限らず、高齢者に、特にデイサービス利用者を表現する言葉についても話を聞いてみたが、あまりにも馬鹿丁寧な言葉、例えば「ご利用者様」などには、歯の浮くような白々しさを感じると意見が圧倒的多数であった点も面白い結果であった。
高齢者福祉施設として、利用者とどのように接して行くのか?これは永遠の課題で有る。馴染みの関係は、互いの言葉を乱雑にしがちであり、その乱雑さがいい加減な介護に結び付きやすくなるだろうし、逆に馬鹿丁寧な対応では介護者の方から利用者との間に高くそびえる壁を作ってしまう事となり他人行儀な冷たい介護になりがちではある。介護保険を利用して利益を追求するビジネス的介護も、ある一定水準の介護の質を維持するには適しているかもしれないが、それ以上もそれ以下も無い。安定的福祉サービスの提供としては十分な役割を全うしているが、果たしてそれで人間は満足するのか?という疑問がわいてくる。
いずれにせよ、濃厚な人間関係の中には、感情のもつれやトラブルが発生しやすいデメリットを抱える事となり、逆に平均的安定した質の介護の場合は、希薄な人間関係の中で生活しなければいけないデメリットが存在する。高齢者介護はヒューマンサービスである。適度な人間模様を維持しながら、虐待も拘束も人権の尊重も守りながらサービスの提供を維持して行く事は、非常に難しい作業である。
うちのペットは、人間様と同じ生活をしている。食事こそペット専用の食事ながら、それ以外は私がくつろぐソファーの上で、私のパジャマを引きづり下ろして、そのうえで丸まっていたり、時々洗濯物を取り込んでたたんで置いておくと、それをひきづり下ろして咥えて遊んでいる。いくつソックスを台無しにすれば気が済むのか・・・・ヨダレと歯で汚して、噛みちぎって、それはもう・・・・大変な事をしでかす。
そんなペット達も一日の終わりころには、酔っぱらってソファーで寝そべる私の傍らに飛び乗ってきて一緒に居眠りをする。安心するのかイビキまでかいて、おまけに不用心にも腹を上に両足は力なくダラリと広げて寝ている。そんな彼らも時としてオナラする。
「ぷ~っ」・・・・・そんな自分のオナラの音に驚いて彼らは飛び起きる。平和な連中や!
我々のような介護保険の事業所は、年間に最低でも一回は行政機関による集団指導を受ける事となる。今日が、その日で、地元の市町の保険者による一連の介護保険にまつわる指導と確認が行われた。昼過ぎの一時半から二時間半。円滑かつ正当な介護が実施されるように、色々な面からの指導、伝達が行われる。
私自身、別の立場では研修を行う者としてスライド資料を基に行われる研修の難しさは十分に承知しているし、その苦労もけ身をもって体験しているが、やはり研修を受ける側って本当に眠くって仕方ないのである。ちょうど昼食も終えて、ノンビリとした午後の時間帯。研修室内も適度な温度も保たれ、とても居心地が良い(????)。しっかりと耳を澄ませて聞かなければいけないと思いつつも、上瞼がさがり始める。必死になって睡魔と闘っている気持ちではあるが、時折、力尽きて頭が落ちる時がある。「ガクッ!」と落ちてしまう。 隣からうちの管理者のいびきが聞こえてくる。 あ~ぁ、寝てしまった!と、再び気持ちを奮い立たせ指導者の声に集中するも、次第しだいに声が遠くの方に遠ざかっていく。
眠い目をこすりながら、自分の下っ腹に力を込めて、ここで居眠りすることへの仕打ちを恐れてしっかりと起きてなければ!と力んで力んで過ごした二時間半だった。
年の暮れは誰にとってもとても忙しい時期。それは、私達のような介護の事業所とて同様、なんだかんだと走り回ることが多い時期である。そのようなあわただしい時期に、年賀状発送という余分な作業を組み込まなくてはならないのが、毎年末の頭痛の種であるのだが、昨年末は、特に郵便局から、元旦配達に向けての期限をクリスマスまでに投かん分。と指定された。何とかクリスマスまでに年賀状を書いて投函しようと焦って、書いて全てを投函し終わったのは24日の夜。地元の本局の建物内の専用ポストに投函を終了。これで、元旦には、皆さんの手元に私の年賀状が届く事と期待しながら、一つ仕事をやり遂げた達成感でいっぱいだった。
話は変わるが、この年賀状だが、毎年、私の名前で太陽の家の入居者の皆さん9名に年賀状をお送りしている。この事業所内の事だから、郵便局を介さず、自分で各入居者さんに手渡しすれば良いようなものの、そこは、やはり配達されると言う点を重視したい気持ちで、毎年年賀はがきをポストに投函している。例年通りだと、元旦の日に束になって年賀状が配達され、それをグループホームの入居者の個々人に「おめでとう!」の言葉を添えて届けていた。
しかし、今年は、9名の入居者全員に発送して、実際に届いたのは1名だけ。残りの8名分の年賀はがきは未だに行方知れず。年賀はがきの配達と同時に、はがきサイズの用紙にトラブルや問題ある場合は、概略を書いて投函してくれと言う用紙が含まれていたので、さっそく、その旨、抗議文をしたためて投函した。
後日、郵便局から若い担当者(?)が当施設を訪れ、何処に行ったかわからない!と告げて、それでこのクレームは終了扱いとなった。
郵便物を紛失させたことは、とても残念な気持ちにはなるし、家族と遠く離れて暮らすグループホームの入居者の皆さんに例え一通の年賀状でも届けてもらえれば、社会から疎外されている感情も緩和されるのではないかと考えての年賀状である。それを、若造の訳のわからない担当者が悪びれることなく、「今更、探すことも出来ない!」と簡単に言われて、それで万事が終了と言う郵便局の姿勢に憤りを感じてしまった。そして、万事がこの調子だと、私の差し出した数百通の年賀はがきって、本当に配達されているの?と不審に思ってしまうのである。
ついでに言わせてもらえば、最近、通常の郵便物の配達がとても遅い時間帯に配達されるようになった。それも夕方の6時ころ、またはそれ以降に配達されるのである。太陽の家は24時間体制で職員が働いているが、夜勤者にポストを確認させるわけにもいかず、時として、配達された郵便物は一晩、郵便受けの中に留まってしまうこともある。書留郵便等の重要な物は、別途配達されるので音大は無いが、それでも、一昼夜、ポストの中に郵便物が滞ることは事業所としては、非常に不安なことである。
そう言えば、いつぞや新聞のコラムに今の郵便会社の実態が書かれていたが、赤字を解消するために人材を大幅にカットして、人件費の節約を目論んでいるそうだ。「無駄を省く」という動きは今の政府が頻りと訴えて、社会全体に無駄の削減が広まりつつある時代。狙いは良く理解できるが、世の中には必要な悪もあると同時に、有る程度の無駄は、円滑な運営に必要不可欠なものかもしれない。と考えてしまう。
上記アドレスをクリックしてください。