今日、ガソリンを給油したんだけど1リットルが現金価格166円(レギュラーガソリン)だった。
5~6年前にも一度、ガソリン価格が急騰して、ハイオクガソリンがリッター、198円の時があったが、その当時に匹敵する価格に近くなってきた。太陽の家には、居宅の車を含めて9台の車が動いているが、これら全体のガソリン代が1か月平均10万円程度だったのが、今では、12万円ほどの経費が掛かるようになった。2割アップは大きい。ガソリン代の高騰はデイサービスなどの送迎の経費増として事業所には厳しい面がある。
急激な価格変動に対しては敏感だが、毎週1円や2円の値上がりには鈍感になってしまう。しかし、職員さんの交通費に際しても、想定していた価格を超えてしまいそうで、これ以上の価格高騰に対しては交通費のリッター単価の調整が必要となってくる。
いずれにしてもガソリン代の高騰は、これだけでなくガス代にも影響し、そのほかの物品の運送費の高騰から物価上昇に確実に結びついていくのが恐ろしい。この4月から消費税が上がり面喰っていた消費者心理が、このガソリン代の高騰で更なる購買意欲の停滞につながり、消費の低迷を招くのではたまったものではない。
今日はいつもよりも体調が悪いようで、亀山市の井田川近辺ですでに息が上がって、とても苦しくって座り込んでしまった。暫く様子見ながら休憩を取ってみたものの、苦しさは変わらず、おまけに立ち上がると貧血気味の眼前が真っ白になる。ちょっとヤバいな~と思いながら、水筒のお茶を飲みながら考えていた。レスキューを呼ぶべきか?と迷いながらも、ゆっくりと自転車をづ図化方向に戻して走り始めると、ようやく気持ちが落ち着いてき始めた。このまま、帰宅するのももったいない!と考え、次に椿方面に進路を変えて坂道意を登り始めた。
途中、鈴鹿インターの近所はサツキやツツジの栽培が盛んで、小さなツツジがびっしりと植えつけられている畑の前で記念写真。
鈴鹿の椿地区から四日市の水沢方面ではお茶の生産が盛んで、写真のようにお茶の木が沢山植えられている。今まで見たことがなかったけど、最近のお茶の刈り取りって便利になっているのに驚いた。機械で刈り取ったお茶葉は、専用のトラックが待ち受けていて、かごの中にたまった葉をトラックの荷台に空けていた。何とも簡単な・・・
もちろん、この刈り取った後、蒸したりしてから揉み解し、乾燥させたりとたくさんの工程を経て製品となるんだろうが、それでも、歌にあるように、今どきは手でお茶を摘むことはなくなったようだ。
今日は、距離こそ走れなかったものの(37Km)社会見学をさせてもらったような気がする。
写真はJR名古屋駅を岐阜大垣方面を望んだスナップ写真です。写真の日付で分かるように、先週末土曜日の画像です。
JR高島屋の52階の展望部屋より一時間、ぼんやりと西濃方面、大垣方面を見ながら羽を伸ばしていました。時折通過していく新幹線をみていると白蛇が這っているようにうねりながら大阪方向へ走り去っていきます。新幹線と言うと、僕が向かう方向は東京方面が多く、京都、大阪方面に向かって新幹線を使うことがありません。上空高くからみる市街地は、実際に車で移動したり歩いたりする距離よりも実際の距離は、それほど遠くはないような気もします。鳥になった目線で名古屋の都心部を眺めて、いつもとは違った雰囲気で気分転換になりました。
一時的ではあるが理系女子としてもてはやされた科学者も、今では科学分野における疑惑の渦中の人。STAP細胞があるのか?ないのか?は別問題として、科学や医療の分野での未知の分野が解明されてくることは、とても良いことのように評価されている時代であり、正規の新発見は即、ノーベル賞につながる偉大な研究の成果と評価される時代。科学者であれば、誰しもが憧れる対象となる栄誉なんだろうなァ~。凡人の僕にはわからない感覚だけどね。
話は変わるけど、太陽の家設立初期のころの話。利用者の一人が熱っぽい。額に手を当てると、いつもより発熱を感じさせる兆候があった。その状態に当時の看護師が、大騒ぎをしている時に、利用者家族の一人である大手総合病院の看護師長が訪れた。そして、太陽の家の中で一利用者の熱感に右往左往する姿を見て、利用者本人も不安な気持ちとなって大騒ぎとなる状況下で、その看護師長が言った言葉が鮮明によみがえってくる。「熱を測るから・・・!」
この言葉は、熱を測る必要性を言っているのではなく、本人にも分かるような体温計測を行った愚行、その結果を大声で騒ぐ愚行、この二つの愚行に対する叱責だったんです。本人が高熱である事実を事実として受け入れることができる者ならともかく、高熱=重篤な病気と直結してしまう程度の医学的知識しかない者にとって、体温の測定結果を教える必要性はないのですよね。
それでは、難病の告知をどう考えるか?なんですが、これもまた、受け取る側の精神的状況や性格などを考えたうえで行うべきか?それとも、告知後の精神的フォローに重点を置いた告知をすべきか・・・?はたまた、完全に隠し通すのか??この問題は、非常に難しいテーマなんですが、キューブラ・ロスは「告知」する側の「覚悟」って視点を著書に書き加えていた。告知する以上、そこに生じる様々な心理症状に対しても、それ以降の病魔との戦い方に関しても患者と共に生きる覚悟ってものが告知する主治医にとって重要であると書いているのです。
人間、誰しも平等に歳を加えていきますし、それの伴い身体心理の両面の衰えも出てきます。古くなっていく体からは「不具合」が発生し、時には命を奪われる大病にも鉢合わせてしまうこともあります。問題は、その渦中の人にどこまで知らせるのか?どこまでの情報を与えるのか?人間の心理てのは、本当にガラスのごとく弱く、モロイものと考えると「分りすぎる」状況について考え込んでしまうのです。
貴方が難病だとしたら・・・そのすべてを知りたいですか?知ってから、どうしますか?って疑問です。
今日は、職員との昼食懇談会の第二回目を実施。昨日はサンドイッチを昼食に用意したのですが、今日は行きつけの中華料理店にて開催。残念ながら写真を撮ることを忘れてしまい画像はなし。話に夢中になりすぎました。ただ、私なりには職員の気持ちの一部を理解し、職員側にも私という人物の理解は少しは進んだのかな?!と感じることができる良い昼食会でした。
今回の昼食懇談会の中で一つ反省したことは、以前、うちの太陽の家デイサービスセンターのフロアーにて、グループホームの夜勤担当者以外の全職員と家族を交えた食事感を開催したのですが、会の終了を夜勤担当者に一言も告げずに解散したことだった。もう少し二階の夜勤担当者への配慮があってしかり!なのかな!と反省したのでした。
職員とともに食事をすると、なかなか本音までは話をしてくれないのですが、それでも、食事を囲んで藩士をする中にいろいろと気になる点が垣間見えます。この小さな点を拾い出し、また、雰囲気を感じ取り今後に生かすことができれば良いと考えています。次は少し時間が空きますが、第三回目を開催します。また結果をこのブログを使って報告いたします。