認知症指導者となって、最近地域ケアという言葉を多く使うようになった。その大きな切っ掛けというのが、大府市の地域包括支援センターにおける実習で体験した地域ケア会議である。総勢14名の関係者が一堂に会し、地域に暮らす一人暮らしの老女の問題について地域支援の在り方を話し合った。医療現場、介護の現場、行政、民生委員、福祉用具の事業所、認知症専門指導者、地域の自治会などが色々な角度から話し合った。
一人の高齢者の生活。できる限り在宅で生活を維持するために、今後どのように支援を継続していくのか?である。地域支援とは、地域の関係者の誰かが交代で見張っている支援ではない。基本は、その人が中心であり、その人の自立を見守るためにどうするのか?が争点となる。認知症を患っていながらも一人で生活するために、どうするのか。これは、大府という地域がらがあってこそ出来得る技と僕は思った。今の一般的な認知症介護では、このようなケースには話し合う前に、即施設入所!という結論ありきで話し合いがスタートする。施設入所で24時間の見守りがあれば、当然のごとく認知症でなくとも生きていくことは可能である。しかし、施設に閉じ込めることは、果たしてこの人の生活権を尊重できているのか?という疑問がわいてくる。施設には施設の良い点も多いのは事実である。しかし、何が何でも施設に閉じ込めて問題の解決を図る手法は、あまりにも安直で横暴ではないか。と考えている。ただ、地域の力が育っていないところでは、この理屈も通らない。
地域の力を結集するにあたり、そこに誰でも簡単にできるボランティアとしての支援を見出してやる必要がある。時は金なりといった時勢である。報酬もなく人に奉仕する精神は、そうたやすく根ずくわけもない。それでは、どのように支援の輪を広げるのか?それには、まず地域の人々に「認知症の人」を理解してもらうことから始める必要がある。そして、誰でも年老いるころには認知症となる可能性があるという点に気づいてほしい。認知症となって困ること。それは、社会から拒絶され隔離されることではないか。家族にも跳ねだされ、常に置いてけぼりの生活を強制される。言ってみれば「厄介者」扱いされるようでは、認知症となってしまったことを恨んでしかたない。
認知症であることを公開し、自分の失っていくものや気持ちを説いて世界の人々に認知症を知らしめてくれたオーストラリア人女性。クリスティーン・ブライデンさんは、政府の高官として働いていたキャリアを持つ人である。頭もよく真のしっかりした人物である。そして、そんな彼女には、常に付き添ってくれる伴侶がいた。記憶の障害を穴埋めしてくれて、生活に欠ける点を補ってくれる人がいた。とてもラッキーな人物と言えるかもしれない。しかし、この日本においても、認知症をしっかりと理解し、必要な場面にそっと手を差し伸べる社会となれば、一人ででも認知症の人は生活を継続することができる。もちろん、インフォーマルだけではなくフォーマルなサービスも加えながらである。
とうとう60歳にもあと少しという年齢となって、次第に物忘れが散見されるようになってきた。昨日は自分のスケジュール帳に予定を書き込もうとしていたとき「研修」の文字が書けなくなった。たった研修の二文字。というより研修の研が思い出せない。「見」だったけか?いや、違うだろ「検」か・・・?とほかの漢字は出てくるには出てくるが、どうもしっくりとこない。こんな嫌な気持ち、若い人には経験することもないだろう。実際、僕自身、あまり頭は良くないので漢字検定を受けるほどの漢字は知らない。しかし、いつも行っている研修の字が出てこないのは辛い。
知っているはずの漢字を思い出せない時の気分は、自分自身の朽ちていく姿を客観的に見せつけられたような気分になり、大げさに言えば「恐怖」に似たものを感じる。認知症の人が不穏な状態となるのも、こういった恐怖観念をもとに、その恐怖を払拭する能力や方法がわからなくなるから、更なる不安を駆りたてるのである。若い介護職員さんには、こんな不安な気持ちは本の上では理解しているだろうが、実際に自分が経験したことのない不安な気持ちを理解することは難しい。認知症を講義する中で僕が使うたとえ話として、海外旅行にパッケージツアーから外れて単独で旅行するときの気分と似ていると説明しているが、まさしく言葉は通じない、見たこともない人たちに囲まれて、この先どうなるのか?と不安に思う時がある。その不安な気持ちに似ている。
このような不安な気持ちになったとき、自分ならどうしてもらえれば安心する?と考えるべきなのが介護職員の業務である。特に認知症介護の現場では、その人の気持ちを想像し、その人が不安に思う点を一つ一つ確認しながら、安心できる環境に支援してあげることが求められている。見ず知らずの人に声をかけられても、その人の声のトーン、口調、スピードによっては、安心するどころか、更なる不安な気持ちになってしまう。しかし、逆に危害を加えられることもない、優しそう・・・というイメージが伝わってくれば、少しばかりは安心する。だから、介護職員にとって話しかける時の声のトーン、口調には十分に神経を使うように指導するのである。そして、同時に人の気持ちを伝えるに言葉が占める割合は思いのほか低いことを知ってほしい。バーバルコミュニケーションの効力とは、ほんの数パーセントであって、多くの感情の伝達は見た目、素振り、表情で伝わることの方が多いのである。だから、僕は口先だけで利用者を「ご利用者様」と呼ぶことが気嫌いである。馬鹿丁寧に敬称をつけるだけで、そこに気持ちが伴わない限り、どのような呼び方をしてもまったく無意味ではないか!最近のテレビのCMで「ほ~っ!」って安心を表現するものがある。言葉だけでなく、表情からもちょっとでも安心できる姿勢をもって、真の信頼関係の構築に努力するべきである。
私たちが関係する認知症の人たちは、廃人ではない。この点を十分に理解すること。いたって普通の人と同じ感情を持ち、同じように感性をもって生活を継続している。これを理解できない鈍感な介護職員が多く、やたら幼児言葉、指導的言葉かけや無視が横行しているのは反省すべきである。もちろん、誤解のないように言っておくが、太陽の家の職員さんには、そんな鈍感でトンチンカンな者はいない。
春先恒例のモクレンの花。春雨にぬれて、しずくを花びらいっぱいに貯めて、カメラのフラッシュに光り輝く。
モクレンの花の寿命は短く、一週間程度で色が変わり、枝から落ちる。花は純白できれいで、若干甘いにおいをあたり一面に漂わすのですが、地面に落ちた古い花弁の掃除が大変。まず花が咲き、次に大きな葉っぱが生い茂る。いよいよ春から夏に向け、枝一面を覆い隠すように緑でいっぱいになるのです。春は短く、すぐに厳しい夏がやってきます。人間の一生も同じように、何度も何度も咲いたり、散ったりしながら大きく成長を遂げるのです。人生ははかないようですが、枯れることも次につなぐ貴重なステップの一つなんでしょうね。
眠気が吹っ飛んだ!と、テレビをつけてみてまたまた眠気がどこかに行ってしまった。今日はサッカーのワールドカップのアジア予選の日。ヨルダンに苦戦する日本。加点できない焦りと苛立ちが、さらに眠気を奪っていく。
思わず叫んでしまう自分。「へたくそ!」・・・って自分はボールすらまともに蹴れないのに・・・・なんと身勝手な!一生懸命頑張っている選手を食入るようにテレビ画面にへばりつき、1点差を覆すことのできない日本チームのゴールを期待している自分。と言ってる間に負けが決定。最終予選を失ってしまった日本。
いやあ、非常に残念な結果であった。悔しいねえ。
しかし、なんで国際試合となると、こうまで日本を応援してしまうのか・・・?一気に国粋主義に傾いてしまう。なんとも恥ずかしい単純発想。
理学療法士とは、Physical TherapistまたはPhysio Therapist)は、医療従事者(コ・メディカルスタッフ)の一員であり、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)、視能訓練士(ORT)と共に、リハビリテーション専門職と称されるうちの一つである。施設によっては、これらの専門職を先生と呼ぶ事業所がある。
なぜ医療従事者は先生と呼ばれるのか?それでは看護師も医療従事者の一部であるにもかかわらず先生とは呼ばれない。同じ業務独占の名称であり、ましてや看護師の場合は医師と同じ「師」である。その反面、理学療法士は名称独占の社会福祉士や介護福祉士同様「士」である。漢字ひとつみても、僕には理学療法士を先生と呼ぶ理由が理解できない。
理学療法士の皆さんを馬鹿にして言っているわけではない。リハビリテーションの分野においては、とても重要な役割を担っており、高齢者に限らず障碍者にとっては神のような存在であることは認めている。しかし、それとこれは少しばかり意味が違うような気がするのだが・・・
社会福祉に医療と介護が含まれることは、当然の事実であり、我々介護職もソーシャルワーカーもその分野の一部を担う専門職の一つでもある。地域ケアが叫ばれる中、医療、特に医師も一つの社会資源の一部であり、古い昔のように医師を頂点としたヒエラルキーの元、頂点に立つ医師がすべての意思決定を行い、縦の関係性を駆使していた時代と同じように、医療従事者としてヒエラルキー上部に位置するという昔風の慣習的敬称なのか?
地域で高齢者を支えるシステムとなり、高齢者介護を施設入所だけでまかなうことが実際に困難な状況となるほど高齢要介護者の増加が想定される今、地域における医療、介護、インフォーマル社会資源など関係する専門職と地域資源が同じ立場で情報を共有し、協働することで要介護者を支えていこうという時代において、理学療法士や社会福祉士などの特定の専門職を先生と呼ぶ時代ではないと思っている。医療や介護の目的でもある弱者救済の場に「先生」ばかり増え、救済される側との関係性において主従関係が存在すること自体おかしな話である。立場を超えて、専門性を生かし、伴に支える意識が無くってどうする?!認知症指導者となって修了証書授与式の時に言われた言葉、「認知症指導者となることは、偉い人となったわけではない。」この言葉が心に響く。
そう言う僕も、医師に対しては先生をつけて呼ぶ。同じ立場で要介護者を支えると言いつつも、医師だけは違う。その理由は僕自身の理屈が矛盾しているということなのだろうか・・・?
こんな事に拘っているうちに眠気が飛んでしまって、また今夜も一人紋々としてデスクのパソコンに向かってつぶやいている・・・