先日、沢山頂いたフルーツを使ってジャムを作った。
沢山のフルーツの種を取り分けながら、実の部分だけを片方のボールへ。
種とジャムに不適切な部分をとり分けて別のボールへ。
こんな単純な作業ってのは、認知症でなくても選り分けるボールを間違えてしまい
実の入るボールに種を入れてしまったりすることが健常者でもある。
認知症の人の実行機能障害ってのは、この状態が頻繁に繰り返される状態をいいます。
自分ではしっかりと分けているつもりでも、次第にどちらが正しいのか…?わからなくなる。
そこで、そんな状態の認知症の人を叱ったりすると、せっかくお手伝いしようとする気持ちも萎えてしまう。
短気な人は起こり始めるかもしれない。そして、怒り始める認知症の人を「介護拒否やら暴言」と言われてしまう。
認知症の人にとって見れば、こんな不条理な話はない!となるよね・・・
認知症の人と共に作業する場合、時間はかかるよ!間違えることもあるよ!そして、周囲は汚れることもあるよ!と
それらを覚悟のうえでお手伝いしてもらうことが、とっても重要なんです。
ここで短気を起こすと、認知症の人の気持ちは折れてしまい、何も行動する気持ちとならないのです。
昨夜は、いつも以上によく眠ったせいか、今日は目を閉じても眠りにつけない。
音楽を聴きながら、いつの間にか闇の世界に吸い込まれていけず、いろいろな過去の思い出が走馬灯のごとくよ
頭の中で回り始めた・・・できればこのブログは、将来的に僕の担当ケアマネジャーに
必要となった時に読んでもらえれば、それでよいと思って書きます。
とてもたわいのないことですが・・・僕の好きなモノ
食べ物ではイタリア料理が好き。特にパスタが好き。
バジリコスパゲティ、スパゲティネロ、カルボナーラが好き。
パンが好き。固いパンが好き。こんがりと焼いてカリカリのトーストにバターとジャムが好き。
僕は日本人好みの白くって柔らかいパンは好きではない。
カリカリに焼いたベーコンも好き。
ソーセージよりベーコンの方が好き。卵はスクランブルが好き。それにハッシュドブラウンポテトがあれば最高!
第47代大統領がぶち壊し始めているアメリカが好き。特にサンフランシスコが好き。
サンフランシスコの町の匂いが好き。そして聞こえてくる人々の会話が好き。
飛行機が好き。出発ロビーで過ごす時間、飛行機の中、到着間際の窓からの景色。
飛行場には、いろいろな人生が凝縮されているように思う。
そんないろいろな人生が集約されている中に自分が居ることが好き。
もう年齢的にも懐メロを愛していると言っても恥ずかしくない年齢となったからでなく
僕はボールモーリアやマントバーニーなどの音楽が好き。
だからJET STREEM が好き。
もちろん、僕の若かりし頃に流行っていた音楽も好き。
例えばロバータ・フラックの「Killing me softly]やカーペンターズの[Close to you]も好き。
映画は「慕情」と「LOVE STORY」が好き。
男らしくないと笑われるけど・・・
僕が一番嫌いなのは、自分から発する汚染臭。汗のにおい、尿臭、便臭・・・
年取って(今すでにとしよりだけど・・・)体が不自由になったら、それこそ匂いが元で死にたくなりそう・・・
好きな臭いはチョコレートとオレンジが混じった匂い。どちらかと言えばムスクに似た匂いだけど
ムスクほど強くなく、もう少し甘い匂いが強く前に出ている匂い。
これは以前にも書いたことがある思いで・・・
僕が社会人となってアメリカの会社で働いていた頃、一時帰国するために乗った飛行機の中で
一人のフライトアテンダントとの出会いがあった。
日本の航空会社のスタッフでロスから羽田までのフライトで知り合った。
彼女から電話番号を書いた紙を渡された。
その頃の僕は、純粋に仕事人間で、彼女を作って遊ぶという意識はない時代だった。
だから、それだけで終わった。
そこで終わってなければ、今の僕はいない。
このような認知症道中膝栗毛なんてブログは書いていないと思う。
人の人生って、本当に微妙な心の揺れ動きで変わってしまうものなんだと今は思えるようになった。
たくさんの出来事、思い出が積み重なって歳をとっていく。
僕自身の気持ちは当時の自分と何一つ変わっていない。成長すらしていないのではないかと思う、
ただ、経験を積んだおかげで、いろいろな角度から物事を考え、失敗しないように注意深くなった。
そして、それなりに責任を感じるようになった。と同時に若かりし頃の罪を恥ずかしく思うこともある。
僕は仏教徒でもクリスチャンでもなく、ただの人。
たとえ死んだとしても天国には行けそうにない。それほど宗教を大切にはしていない。
先に亡くなった父母の弔いも満足にせずに墓じまい等をしようとしている。
非常識と言えば本当に常識のかけらもない大人になってしまったかもしれない。
でも、僕は今でも父と母のことは大好きであり、また会って話をしたいと思っている。
其れよりも会って叱られたいのかもしれない・・・・
父母を亡くし自分が一家の主となると言うことは、非常に大きな重荷を背負うことのように感じる。
跡取りのいない僕には、殊更重い。
認知症道中膝栗毛第100話は、認知症とは関係ないことを書いてしまいました。
自分も、そのうち、歳を増せば認知症となる日が来る。
そんな時に、このブログを読み返すことが可能であるならば
その時に何を思い、どのように認知症の自分を感じることができるのだろうか・・・と興味がわいてきます。