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ブログ-施設長の部屋

2012/8/31
ファン心理

巨人に村田とエドガーはいらない! 巨人を応援するファンの一人として(と言うと大げさだが)本当に、この二人、ええ加減にせいよ!って叫びたい。本来なら、巨人の優勝にもっと貢献できる予定で迎え入れたはずだろうに、今シーズは最初から絶不調の連続。打率も伸び悩み、ここぞというところの一発が出ない。昨日までの中日との三連戦、中日の外国人助っ人ピッチャの球を打ちあぐねて、三連戦の二試合を落とす不始末。ファンってのは、いくら勝ちが続いていようと、容赦ない。そう!常にチームは勝利を収めないといけないのである。

 本来なら、巨人の独走態勢ってのは、野球自体をつまらなくしてしまうわけで、もっともっと接戦の方がゲーム観戦としては面白いし、それなりに応援に醍醐味を感じるのである。だから、状態としては、二位、中日がもう少し頑張ってゲーム差をなくすほうが面白い。しかしファン心理としては、野球のだいご味より、優勝へのステップアップを切に望んでしまうところが矛盾しているのである。

 しかし、100歩譲ったとしても村田とエドガーには、なんとか踏ん張って結果を残してほしい。高給で雇われている選手であり、それなりに期待されている以上、見せ場に感動を与えることができるよう、頑張ってほしいものである。

2012/8/24
予想以上の増加が見込まれる将来の認知症高齢者

今日のニュースで取り上げられていた認知症高齢者の数についてであるが、以前の厚生労働省の読みは団塊の世代が高齢となり1号保険じゃとなる2025年ころは、認知症の高齢者は全国で350万人程度を予測していたが、今回、その予想をはるかに上回る430万人規模の認知症高齢者数が発表されたのである。

先日、私の所属する認知症高齢者の協議会で、認知症高齢者をもっと理解しようとパネルディスカッションが行われたばかりである。認知症は2004年までは痴呆やボケ老人と呼ばれていた老人特有の病気で、なんとも対処の方法がない、困った状態として恐れられてきた。それこそ、対応できる病院は精神病院といった、どちらかかと言えば精神に異常をきたした困った存在として扱われてきた病気である。

それから数十年が経過し、いろいろな研究が行われ認知症と名称変換も実施され、ノーマライゼーションの理念のもと、今では「その人なりの生き方支援」「自立支援」「見守り」「バリデーション」など沢山の援助方法があみ出され、支援方法によっては認知症の諸症状に沿った支援が可能となってきた。言ってみれば「適切な支援」を実施することで、認知症を患っていても「普通」の生活を継続できるところまで変わってきた。

人間が認知症を患うことを予防したり、それらの諸症状を遅らせたりという面でも先進医療との連携で少なからず可能となってきたのであるが、それでも、いろいろな生活環境やその人の性格もあって認知症を患う人は、どんどんと増加しているのである。

これも医療の進歩が大きく関与しているともいえるが、要するに人が長生きするようになってきた。つまり、人間として年齢の積み重ねに応じて、多かれ少なかれ体のあらゆる部位に支障をきたすわけだが、言ってみれば「故障」の始まる年齢まで生きることが出来る時代となったといえるのではないか。昔の日本は栄養状態も良くなく、生きる環境は劣悪で、おまけに医療技術も進んでいない中では、人の命は短命であった。しかし、定年60歳と言いながらも、今の60歳は若い。まだまだ働ける情痴あの人が多い。かく言う自分自身もあと一年で還暦という年代でありながら、今なお真っ赤のフェラーリに憧れ、短パンに柄シャツきて今風のブレスレットをつけて「ちょい悪オヤジ」を気取っている。癌だ、結核だ!ヘルニアだ!等と言いつつ、病院へ行けば、痛い思いはすれど、ちょこっと我慢すれば勝てない病気はないほどの時代である。当然、このまま年齢を重ねていけば、それなりの健康意識の高まりの中で患うところと言えば、「脳」に限定されてしまうのも理解できる。

さて、そんなわけで、この僕も恐らく認知症の爺さんとなってしまのだろうが、そこで問題となるのが、今のような自制心(持ってないかもしれないけど・・・)でブレーキをかけている、とんでもない行動が表面化することである。ファッションが大好きで、派手なスポーツカーに憧れる自分は、ひょっとすると年齢を無視した無茶苦茶なファッションで、如何にも格好良いつもりで街の中をフラフラするかもしれない。世間では、この行為を「徘徊」と呼び、担当のケアマネには、叱られ、家族には迷子防止のために「GPS」を縫い付けた服を着せられ、あまりにひどい徘徊には拘束服を着せられ、ベッドに縛り付けられるかもしれない。

きっと僕は大声あげて自己主張することだろう!「やめてくれ!」「俺は正気や!」などと声の限り叫び、通りすがりのすべての人に自分を解放するよう懇願するだろう。すると、この行為を社会は「暴言」と呼び、今度は精神安定剤を盛り込んだ食事を食わされることとなる。過度な薬剤依存は行動を抑制するには効果が期待できる。しかし、そのことで僕の身体機能は、日増しに低下し、暴言や暴行がなくなるころには、体中の筋肉がやせ衰え、それだけではなく、僕の精神状態も気力を喪失し、人間としての人格の崩壊にまで追い込まれていることだろう。

人格の崩壊は、そのまま食べる気力、生きる気力まで奪い去り、廃人となって最終的には、口からの栄養摂取が出来なくなり体中に栄養チューブなるものが入れられ、食欲や思考を無視したドロドロの高カロリー栄養剤なるものを流し込まれるのである。

この認知症の高齢者数もそうであるが、昨夜のNHKでは、人の尊厳死について考えさせられる報道もあった。何のために生き、何のために治療するのか?認知症となっても普通のような生活ができるなら生きていたい。誰でもいいから横に寄り添ってくれて、僕の不足する部分を補ってくれて生活が成り立つならそれでいい。しかし、縛られ、くくられ、無理矢理に栄養補給を実施されながら生きることはしたくない。僕は、認知症高齢者が増える以上、認知症をもっともっと理解して適切な支援を提供できる人を育てていきたい。そう強く感じた朝だった。

2012/8/24
ETCをすり抜ける車両

今日は朝から名古屋に来ている。名古屋インター近所の動物病院へうちのペットちゃんの診察のために、わざわざ鈴鹿から高速にのってやってきた。昔に比べると名古屋、特に東山や星が丘なんて、チョイッと軽い気分で来れるのも高速道路が拡充、整備されてきたからである。

さて、そんな高速道路へのアプローチに、最近ではETCカードを利用する車両のほうが多いくらい、大半の車両はETCを搭載しノンストップで高速道路のゲートをくぐる。そんな今朝、僕の前を走る商用車の一台がカードの挿入忘れか、ゲートでもたついてしまった。次に続く僕も前が止まってしまう以上進めない。仕方なく、その車両の後ろで一旦停車、様子を見てると車両の運転手、鞄の中をまさぐる様子、明らかに慌てふためいて、急いで事の収支をバランスとろうと焦っている様子である。しかし、ゲートは閉じたまま。時間ばかりが経過していく中で、僕自身、前にも後ろにも進めずに焦り始めたころ、彼は何を思ったのか閉じたゲートの間をすり抜けるように前進していった。

ETCのゲートは改良に改良を重ねられ、衝突事故を回避するためにバーとバーの間に若干の隙間が持たれているのだ。僕もじっくりとゲートを見たことがなかったが、軽車両クラスのボディー幅なら、ゲートのバーの隙間を通り抜けることが出来るようだ。でも、高速は入口のゲートを未承認で通過して出口で困らないのかなあ~

2012/8/20
国際社会における日本人

韓国と領有権を争う竹島、中国とは尖閣諸島、ロシアとは北方領土。島国の日本は国としての領域の線引きが非常に難しい地理的要素を抱え苦悩している。オスプレーの配備ではアメリカと安全性の面で不協和音が響いてくる。8月15日、67回目の終戦記念日を迎え、テレビニュースの街頭インタビューに96歳のかくしゃくとした女性が答えていた。「もっともっと、話し合わなければ・・・」

それこそ榎本博明氏の「すみません」の国という本に書かれているとおり、ホンネとタテマエの二重構造の国、日本らしくその場を無難にしのぐために真実の追及や責任の糾弾を良しとしない国民性がそのまま表面化しているようである。日本の外交政策は自民も民主も同じ。主義主張が違っても国民性は同じなのか???と笑えてくる。

 そんな二重構造の社会が、ファッション、食品や生活文化の欧米化に伴い、日本古来の文化が崩壊しかけている。中国の活動家の尖閣諸島への上陸に次いで、今度は日本の地方議員達の上陸騒動。中国の反日感情に油を注ぐ形となった一部の日本人の行動ではあるが、このまま直接戦争に発展する危険性は少ないというものの、このまま感情のもつれを放置したままの国際関係に、海外旅行、特にアジア圏への旅行に多少の不安が伴うよね。韓国歴史ドラマにはまり狂って、一度は韓国の文化財を訪問してみたいと願っている僕には、とっても不安な要素ではある。

 過去に起こった不幸な出来事。人間生きる上でいろいろな場面、状況に遭遇し、それらのすべてにベストを尽くし、つくし切れない不幸に対する決算と言うか、清算を如何につけるか・・・その点が思いの外難しいのが人間であるようだ。

2012/8/16
高齢者の自立支援

介護保険財政が破綻しかかる状況が近くなると、と言うわけでもないだろうが近頃は「自立支援」を大きく叫ぶようになった。その人が在宅で、それまでのように普通に暮らせるように支援するのが自立支援の一つの目標でもある。財政事情が潤沢(潤うまで行かなくとも)でサービス量が乏しい場面では、施設入所で介護負担の軽減を目指していたが、これだけサービス量が増加することで、それらすべてのサービス量を補えるほどの財政力がなければ、当然のごとく事業所への給付額を減額するか、サービス利用を控えさすか、いずれかの選択肢を考えるのは安直ではあるが理解できるステップであろう。

先ごろの情報では、福祉関連事業の中でも通所介護事業所がダントツでサービス供給量を増加させているらしい。次いで訪問介護事業所が抜きんでているようであり、この状況にはその内に行政サイドから何らかの変更や改善のメスがはいるだろう!と情報筋は説いている。

 まあ、そんなキナ臭い話題ではなく、純粋に自立支援にむけて、我々介護を担う者たちが何ができるかを考えてみたい。

 自立支援と言えども、自立を促す前に本人並びに家族の要望も精査しなければ、やすやすと自立支援の掛け声に乗せられる訳ではない。そして、それに合わせて直接処遇者である介護職員の質的要素も考慮しなければいけない。つまりは、そう簡単に号令に従い右から左にと方向転換は出来ないというわけである。もちろん、現実問題として、我々事業者としての「できません」は、そのまま事業継続を認めません!になるだけで、何としても資質の向上とスキルアップは達成せねばならない。従って、いつの日にか、我々通所介護事業所向け行政の指針が入り込むときには、悪戦苦闘と介護職員への過剰な指示と教育を已む無くされてしまうわけである。

 さて、それでは在宅生活を可能とする自立支援とは、どのようなことを必要とするのか?そこには、第一回の介護保険制度の見直しの時に慌てふためき、事業所の頭を悩ました「筋トレ」のように、冗談抜きで死に際に花を咲かそうとする爺さん、婆さん相手に筋力アップのトレーニングを検討しなければいけなくなるのかもしれない。そろそろ老人の域に入ろうかとする自分自身でさえ、健康管理のためにジムに通うことを真剣に考えながらも、未だに達成できていないのに、この僕をはるかに上回る年齢の人々に、さっさと筋トレを施して大丈夫か?と問いたくなる。

 それでは、筋トレに楽しみを加えて、参加することに意義があるオリンピック理念を採用して、やったふりして時間だけ費やすことで何の自立支援ができよう・・・。音楽を採用して、口腔体操を兼ねて、ついでに生活不活発病とストレス発散をもくろんで、毎回のデイサービス利用時にはカラオケを施す。ついでに何をすればよいのか分からないので、レクリエーションを採用。レクに機能訓練を併せ持たせれば一挙両得!とばかりにレクを始める。介護を受けに来ているのか?暇な時間をつぶしに来てるのか?自立した生活のためにトレーニングに来てるのか?どんな目的を持って通所介護を利用しているのかも分からない。そんな通所介護事業所は、どんどん勝手に潰れていきなさい・・・とばかりに面倒は見てくれない社会。

さあ、私たち太陽の家が、個の事業所を選んでくれている要介護者のために何をしてあげることができるのか?これを機会にもう一度本人の希望、家族の希望を確認しながら可能なサービスを検討することから始めてみたらどうか?!

 レクの幅が狭いやら道具を持ち合わせていないやら、出来ない理由づけばかりに目を向けず出来ることを考えることをはじめないと、いよいよ行政の施策が変更されてからでは遅すぎる。


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