今日の三重県での新型コロナウイルス感染者は14名だった。
感染者数の規模ではなく、重症者の数が重要だと今の時点で政府は考えている。
毎日、夕方になると全国の新規感染者数が発表される。
3月4月の感染者数の波より、今の波の方が3倍ほど大きい。
三重県にしても同様で、緊急事態宣言の時からみてみると
やはり3倍の人々が罹患している。
また、以前に比べると入院期間も、以前に比べると極端に短くなっている。
ある説によると、退院の条件であるPCR検査陰生を二回もって退院という基準は削除されたようだ。
無症状患者が増えたせいか、
新型コロナウイルスの実態も研究され、以前よりその特徴や治療のめどがたってきたからか
とにかく新規患者数は増えるが、退院する人の数もかなり急ピッチで進んでいる。
ただ、市中感染状態と言えるほど、ありとあらゆる場所で簡単に感染してしまうように感じる。
人の集まる大規模商業施設や、飲食店、訪問などでも感染してしまう。
僕は、高齢者の一人とカウントされる年齢になり
ある程度危険な病歴を持ち、感染すれば重度化する可能性は大きい。
この8月の感染拡大が、日本におけるコロナウイルスの第二波とするなら
この冬におきそうな第三波が襲い、さらに多くの人が感染して
医療崩壊が起きたとき。私たちがケアする認知症の人は充分な治療をうけることが出来るだろうか??
限られた医療設備、治療薬なども不足する時、社会的弱者がトリアージされてしまわないだろうか・・・?
僕は、今の政府の考え方には賛成できない。
感染者の多くが若年層であり、無症状の人が多く
感染者数こそ多いが、適切な対策をとりながら経済を動かすことに主力を投じる現状を
基礎疾患を持ち、認知症を持つ高齢者が、姥捨て山に捨てられる無用の人たちとして
私を含む高齢者が選択されてしまうことが恐ろしい!
介護業界に海外からの技能実習生が多く入植し始めている。
うちの太陽の家デイサービスにおいても、技能実習生ではないが
外国で生まれ、長年、日本で暮らしてきた者が働いている。
介護は初めての経験。
言葉は結構流ちょうに話せるものの,漢字は苦手なようだ。
人間はお国柄は違っても、同じ感情の持ち主であり
喜びも、悲しみも、苦しみも感じる。
嬉しいこと楽しいことも、同じようなメカニズムで感じる。
苦しみも悲しみも同じ。
でも、言葉が自由に、自分が思うように操れないことは非常につらいのです。
人は人との関わりの中で摩擦が起き、いろいろな感情に結び付いていきます。
これが対人関係といえるものなのですが
言葉が十分でないと、この関係性の構築が難しい。
相手がいて、その人を理解する上で、言葉抜きで相互理解はできにくくなります。
そして、 人間は時として非常に手間のかかる案件には前向きでなくなることもあります。
言葉での説明が難しくなり、手間取る場合は
理解する前に諦めてしまうことが増えます。
要するに放置される。結果となり、本人としては捨てられた気がするものです。
もちろん、じっくりと説明し、教えることの手間をとれないほど
業務が煩雑になっているからかもしれません。
それだけ、介護の世界ってのは瞬時に、
あうんの呼吸で支援の手を出さなければならないことも影響していそうです。
しかし、ここで、みんなに知ってもらいたいのは、
外国人で育った文化、歴史、環境の違うところで積み上げた経験を発揮するには
言葉が大きな壁になります。
どこまで私たちが、手間暇惜しまず接することが出来るか・・・?
僕は、この気持ちが外国人と相互理解に向けて一番重要だと思っています。
相手を分かろうとする思い、相手に伝えたい気持ち。それぞれが
同じ感情で前に進もうと努力しています。
相手を思う気持ち。これから少しでも日本人スタッフが
外国人スタッフに対してやさしく、根気強く付き合ってくれることを望みます。
太平洋戦争を僕は知らない世代である。
終戦から八年後に生まれているからだが
それでも、今のように贅沢な時代ではなかった。
戦後の復興最中であり、まだまだ日本国民は裕福な生活とは言えない時代でもあった。
繁華街では白装束で軍帽をかぶり、松葉杖で支えた身体で募金を募る人もいた。
母が、そんな人たちを『傷痍軍人』と呼び、戦争で怪我をして生活苦のために
街頭で 金銭の施しを求めていた。
戦時中ほどではなかったものの、田舎の百姓の子供のおやつといえば
サツマイモや米菓子やトウモロコシ等の畑でとれるものだけ。
生クリームたっぷりのクリームパフなんて食べたことはなかった。
チョコレートだって、上等な砂糖菓子なんて口には入らなかった。
子供たちは、多かれ少なかれ皆、継ぎはぎのあたった服を着ていた。
毎日、同じ服を着て、袖のところで鼻をぬぐうから、袖口が光っていた。
ゲーム機もないから、遊び道具は自分たち手作り。
木を削ってピストルに似たおもちゃを作り、戦争ごっこをやった。
そのころ流行っていた漫画の主人公の絵が入ったメンコは
田舎では高級な遊び道具で、僕たちは牛乳の厚紙の蓋をつかって
メンコ遊びをしていた。
戦後八年も、まだまだ日本の社会は発展途上国の様相であり
急激に社会が発展し始めるには、終戦から二〇年の年月がかかった。
本当に貧乏で、何もない不便な時代だったが
それでも、子供時代は楽しかった。
皆が共に貧乏だから、貧乏でも何もなくても恥ずかしくなかった。
テレビも、冷蔵庫も、車なんてめっそうもない。
そんな時代を過ごして、六〇数年がたって
自分の生活も随分と近代的になり、裕福になった。
でも、まだ何かを今でも求め、探して生きている。
人間てのは、どこまで行っても欲深いものだ。
この欲深さと併せて、生きることへの執着も果てしなく続く。
残念ながら、国を挙げて新型コロナウイルス感染拡大に対し
非常事態宣言が発出されたころ
僕の感覚としては、まだまだ遠い別次元の出来事のような感覚が強かった。
実際に三重県での感染者数も少なく
其れこそ、住んでいる社会が違う!くらいの思いでもあった。
ところが、7月に入って、鈴鹿市から一人の感染者が出て
8月に入ると、三重県の全地域に感染が拡大し始め
今日もまた、鈴鹿市から感染者が数名でた。
政府は今の現状を第二波と位置付けていないが
現状は、当初の山より大きく、広範囲に広がっている。
感染情報として入手できる内容は、それほど多くはないものの
直感的に自分たちのエリアに近く、ゆっくりと忍び寄ってきているように感じる。
発熱や咳の症状もなく、無表情で近くまで。
また、いたる所で保菌者が存z内しているようだ。
どこの誰にでも、COVID-19感染者の可能性があり、
ちょっとした油断が、即感染に結び付いてしまいそうである。
神経質すぎるほどの手洗いと消毒を意識しながらも
趣旨の洗浄と消毒なくモノを食べたりして
この油断が、コロナ感染のキーワードであり
もうしばらくは神経質すぎるくらい用心して生活を継続する必要があると考えている。
我々が感染することで、施設利用者 を巻き込んでしまう。
常に神経を張り巡らせ、要人に用心を重ねることが
唯一、コロナ感染症から自分を守ることが出来ると考えている。
大阪イソジンの会が、またアホーな騒動を起こした。
市町の薬局からうがい薬が消えた。
今日のネットニュースでは、上記の内容の記事が出てたので読んでみたら
非常に面白い。皆さん、ちょっと読んでくださいな!!
腹を抱えて笑えますよ!