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ブログ-施設長の部屋

2026/9/5
認知症道中膝栗毛 第110話 『Wの悲劇・第二幕』

Wの悲劇――第二幕

25セントのコーヒーと、冬の夕陽

「Wの悲劇」を聴いていると、もう一つ、思い出すことがある。

冬の夕陽の中で、ジグソーパズルのピースを一つ一つ集めていた、若い頃の自分だ。

あの頃、僕はお金を持っていなかった。

食べるものにも、それなりに苦労した。

マクドナルドのビッグマックを、一日一個で過ごしていたこともある。

今なら、「それは食事とは言わんぞ」と自分に言いたくなるけれど(笑)、当時はそれでも何とかなった。

コーヒーは、ファミリーレストランのおかわり自由で、一杯25セント。

何杯飲んだことだろう。

それでも、恥ずかしくなかった。

「若い」ということは、不思議なもので、いろいろなことに使える口実だった。

お金がない。

食べるものが十分にない。

でも、若い。

だから、それでいい。

そんな時代だった。

そして、今になって思う。

あの頃の自分は、お金はなかったけれど、案外、充実していたのではないか。

今のように、いろいろなことを考え、先のことを思い巡らせ、常に何かを追い求めていたわけではなかった。

もっと、おっとりしていた。

もっと、落ち着いていた。

冬の夕方になれば、部屋にオレンジ色の光が入ってくる。

その光の中で、ジグソーパズルのピースを探す。

ただ、それだけ。

今日、何かを成し遂げなければならないわけでもない。

明日のために何かを準備しなければならないわけでもない。

一つのピースを手に取って、違えば戻す。

また一つ拾う。

それだけの時間だった。

今思えば、ずいぶん贅沢な時間だったのかもしれない。

僕は、あの頃の貧しさを懐かしんでいるわけではない。

25セントのコーヒーを懐かしんでいるわけでもない。

懐かしいのは、

何かを持っていなくても、それほど焦らずに生きていた自分。

そして、

何かを追いかけなくても、その時間そのものを楽しんでいた自分。

なのだと思う。

だから「Wの悲劇」を聴くと、女性が浮かんでくるわけではない。

恋愛の記憶でもない。

浮かんでくるのは、冬の夕陽と、オレンジ色の部屋。

そして、その中で黙々とジグソーパズルをしている若い自分だ。

不思議なことに、今の僕は、その若い自分を見ていて、少し羨ましくなる。

「お前、ずいぶんゆっくり生きてたんだな」

そう言ってやりたくなる。

でも、たぶん若い頃の僕は、そんなことを考えていなかった。

ただ、その日を過ごしていた。

それで十分だった。

そして今、歳を重ねた僕は、あの頃の自分に少し似た時間を、もう一度探しているのかもしれない。

朝、コーヒーを淹れる。

好きなイタリアの曲を聴く。

洗濯機に呼ばれれば、仕方なく(笑)洗濯物を干す。

仕事をする。

ジムへ行く。

そして、いつかアマルフィを自分の足で歩く。

昔と同じではない。

でも、

「その時間を、自分のものとして楽しむ」

というところだけは、案外変わっていないのかもしれない。

「Wの悲劇」は恋の歌なのだろう。

でも、僕にとっては違う。

この歌を聴くと、若い頃の自分が帰ってくる。

女性ではなく。

恋でもなく。

冬の夕陽の中にいた、あの頃の僕が。

そして、今の僕は、その若い僕に向かって、心の中でこう言う。

「お前、あの頃、結構幸せだったんだぞ。」

――「認知症道中膝栗毛」
今夜はもう一度、記憶の道を寄り道してみた。

2026/9/5
認知症道中膝栗毛 第109話 『Wの悲劇――恋の歌が、僕を冬の夕陽へ連れていった』

Wの悲劇――恋の歌が、僕を冬の夕陽へ連れていった

最近、なぜか薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」をよく聴く。

と言っても、僕は若い頃から薬師丸ひろ子という女優さんに、とりたてて興味があったわけではない。むしろ、彼女の映画、特に松田優作との映画などは、当時の僕には少しガキっぽく感じられて、あまり見る気になれなかった。

世の若者が「松田優作、かっこいい!」と言っていた時代にも、僕には、あのシニカルな俳優スタイルがどうも好きになれなかった。

だから、「Wの悲劇」が青春時代の思い出の曲だったわけではない。

ところが、数年前のこと。

テレビで、デビューから何十年という節目を迎えた薬師丸ひろ子のコンサート映像を観た。

そこで歌っている彼女を見て、

「あっ、これ、いいな」

と思った。

若い頃の彼女とは違う。

歳月を重ねてきた人の声だった。

声そのものに、彼女が積み重ねてきた人生の重みがある。柔らかさがあり、少しの翳りもある。そして、声だけではなく、その声が醸し出す空気がある。

僕はそのとき、「Wの悲劇」を改めて好きになった。

そしてタワーレコードでCDを買い、携帯に入れた。

その頃は、今通っているジムではなく、チョコザップでトレッドミルを歩いていた。歩きながら「Wの悲劇」を聴くことがあった。

今では、イタリアのラブソングを聴きながら歩いているのだけれど、以前は薬師丸ひろ子だったわけだ。

ところが、不思議なのはここからである。

「Wの悲劇」は、もちろん恋の歌だ。

でも、僕がこの曲を聴いても、女性の姿は浮かんでこない。

昔の恋愛を思い出すわけでもない。

僕の中では、この曲から「女っ気」がすっと抜けてしまっている。

では、何を感じているのか。

あるとき、それに気がついた。

僕はこの曲を聴くと、若い頃の冬のある時間を思い出すのだ。

寒い冬の日。

夕方になると、部屋の中にオレンジ色の夕陽が差し込んでくる。

その光の中で、僕は一人でジグソーパズルをしていた。

ただ、それだけの時間。

何か大きな出来事があったわけでもない。

誰かとの特別な思い出でもない。

でも、「Wの悲劇」を聴くと、その部屋の光景が浮かんでくる。

不思議なものだ。

僕は若い頃、この曲を聴いていたわけではない。

薬師丸ひろ子の歌を聴いていたわけでもない。

それなのに、今の彼女の声を聴くと、なぜか昔の自分が戻ってくる。

考えてみれば、記憶というものは、出来事を順番にしまってある引き出しではないのかもしれない。

音楽を聴いて、曲名を思い出す。

歌手の名前を思い出す。

そういう「知識としての記憶」だけではない。

音や声をきっかけにして、

その頃の空気、
部屋の明るさ、
季節、
匂い、
温度、
そして、そのときの自分の感情まで、

一緒になって蘇ってくることがある。

僕の場合、「Wの悲劇」が呼び戻したのは、恋愛の記憶ではなかった。

冬の夕陽の中で、ジグソーパズルをしていた若い自分だった。

だから、僕がこの曲に感じる「懐かしさ」は、恋の懐かしさではない。

もしかすると、

「自分にも、こんな時間があったんだな」

という懐かしさなのだと思う。

そして、もう一つ大切なことがある。

歌っている薬師丸ひろ子も、僕も、あの頃とは違う。

彼女は歳月を重ねた。

僕も歳月を重ねた。

だから今、彼女の声を聴くと、彼女が歩いてきた時間と、僕自身が歩いてきた時間が、ほんの一瞬だけ重なるような気がする。

若い頃の彼女の声ではなく、人生を積み重ねた今の彼女の声だからこそ、僕の中にある「過ぎてきた時間」に触れるのかもしれない。

そう考えると、「Wの悲劇」は、僕にとって恋の歌でありながら、恋の歌ではない。

むしろ、

「人生を重ねた人の声を通して、自分自身の人生の時間を感じる歌」

なのかもしれない。

そして、このことを考えていたら、認知症の方の記憶についても、少し違った見方ができるのではないかと思った。

認知症の方に、昔の歌を聴いてもらう。

「この歌、知っていますか?」

そう尋ねても、歌手の名前が出てこないかもしれない。

曲名も出てこないかもしれない。

歌詞を最後まで歌えないかもしれない。

でも、それだけで「記憶がない」と考えていいのだろうか。

その歌を聴いたことで、その人の中に何かが動いているかもしれない。

昔の部屋の空気。

家族の気配。

若かった頃の自分。

ある季節の匂い。

誰かと過ごした時間。

あるいは、言葉にはできないけれど、「なんだか懐かしい」という感覚。

それは、本人にも説明できない記憶かもしれない。

僕自身がそうなのだから。

「Wの悲劇」を聴いても、僕は薬師丸ひろ子との思い出があるわけではない。

ましてや、この曲を若い頃に聴いていたわけでもない。

それでも、彼女の今の声を聴いた瞬間に、何十年も前の冬の夕陽が、僕の中にふっと現れた。

だったら、認知症の方の心の中にも、僕たちには見えない形で、そんな「記憶の入口」が存在するのかもしれない。

大切なのは、

「思い出したか、思い出さなかったか」

だけではないのかもしれない。

その人の中で、何かが動いたか。

何かを感じたか。

ほんの一瞬でも、過去の自分とつながったか。

僕たちには、それを確かめることができないことも多い。

だからこそ、音楽を聴いてもらうときには、答えを求めすぎないことも大切なのだと思う。

「この歌、知ってる?」

ではなく、

「この歌、なんだか懐かしいね」

それだけでもいいのかもしれない。

記憶というものは、必ずしも言葉になって帰ってくるとは限らない。

音楽や匂いや光のようなものになって、そっと心の中に戻ってくることもある。

そして僕自身、歳を重ねてから、それを少しずつ分かるようになってきた。

若い頃の僕は、冬の夕陽の中で、ただジグソーパズルをしていた。

今の僕は、その光景を思い出して、

「ああ……あの頃の俺にも、あんな時間があったんだな」

と、少し温かい気持ちになる。

それで十分なのだと思う。

人生の記憶というのは、案外そういうものなのかもしれない。

そして今夜もまた、「Wの悲劇」を聴く。

恋の歌なのに、僕の中に浮かぶのは女性ではない。

冬の夕陽。

オレンジ色の部屋。

そして、若い頃の僕。

不思議な歌である。

でも、だからこそ、好きなのだ。

――「認知症道中膝栗毛」、今夜は少し寄り道。

Wの悲劇という歌に連れられて、何十年も前の冬の夕陽の中まで、歩いてきた。


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