


「Wの悲劇」を聴いていると、もう一つ、思い出すことがある。
冬の夕陽の中で、ジグソーパズルのピースを一つ一つ集めていた、若い頃の自分だ。
あの頃、僕はお金を持っていなかった。
食べるものにも、それなりに苦労した。
マクドナルドのビッグマックを、一日一個で過ごしていたこともある。
今なら、「それは食事とは言わんぞ」と自分に言いたくなるけれど(笑)、当時はそれでも何とかなった。
コーヒーは、ファミリーレストランのおかわり自由で、一杯25セント。
何杯飲んだことだろう。
それでも、恥ずかしくなかった。
「若い」ということは、不思議なもので、いろいろなことに使える口実だった。
お金がない。
食べるものが十分にない。
でも、若い。
だから、それでいい。
そんな時代だった。
そして、今になって思う。
あの頃の自分は、お金はなかったけれど、案外、充実していたのではないか。
今のように、いろいろなことを考え、先のことを思い巡らせ、常に何かを追い求めていたわけではなかった。
もっと、おっとりしていた。
もっと、落ち着いていた。
冬の夕方になれば、部屋にオレンジ色の光が入ってくる。
その光の中で、ジグソーパズルのピースを探す。
ただ、それだけ。
今日、何かを成し遂げなければならないわけでもない。
明日のために何かを準備しなければならないわけでもない。
一つのピースを手に取って、違えば戻す。
また一つ拾う。
それだけの時間だった。
今思えば、ずいぶん贅沢な時間だったのかもしれない。
僕は、あの頃の貧しさを懐かしんでいるわけではない。
25セントのコーヒーを懐かしんでいるわけでもない。
懐かしいのは、
何かを持っていなくても、それほど焦らずに生きていた自分。
そして、
何かを追いかけなくても、その時間そのものを楽しんでいた自分。
なのだと思う。
だから「Wの悲劇」を聴くと、女性が浮かんでくるわけではない。
恋愛の記憶でもない。
浮かんでくるのは、冬の夕陽と、オレンジ色の部屋。
そして、その中で黙々とジグソーパズルをしている若い自分だ。
不思議なことに、今の僕は、その若い自分を見ていて、少し羨ましくなる。
「お前、ずいぶんゆっくり生きてたんだな」
そう言ってやりたくなる。
でも、たぶん若い頃の僕は、そんなことを考えていなかった。
ただ、その日を過ごしていた。
それで十分だった。
そして今、歳を重ねた僕は、あの頃の自分に少し似た時間を、もう一度探しているのかもしれない。
朝、コーヒーを淹れる。
好きなイタリアの曲を聴く。
洗濯機に呼ばれれば、仕方なく(笑)洗濯物を干す。
仕事をする。
ジムへ行く。
そして、いつかアマルフィを自分の足で歩く。
昔と同じではない。
でも、
「その時間を、自分のものとして楽しむ」
というところだけは、案外変わっていないのかもしれない。
「Wの悲劇」は恋の歌なのだろう。
でも、僕にとっては違う。
この歌を聴くと、若い頃の自分が帰ってくる。
女性ではなく。
恋でもなく。
冬の夕陽の中にいた、あの頃の僕が。
そして、今の僕は、その若い僕に向かって、心の中でこう言う。
「お前、あの頃、結構幸せだったんだぞ。」
――「認知症道中膝栗毛」
今夜はもう一度、記憶の道を寄り道してみた。