一頃、食中毒事件で大きな事件を引き起こした焼肉屋チェーンの会社が事業を清算する手続きにはいったそうである。死者まで出した取り返しのつかない食中毒事件の結末は、会社の滅亡というエンディングで終了と言う。被害者家族としても、なんだかスッキリしない、突然降って湧いた悪夢のようで気持ちの整理がつきにくい事件ではなかったのか?確かに今回の事件(事故?)の経過を見ていると、肉を卸販売する業者と一般消費者の口に直接入るレストラン側の二社では、やはり直接消費者の口に入るレストラン側に責任の全てが偏っているように思える。いずれにせよ、食品を扱う業者として、食品の安心、安全を確実に担保して商売を継続しなければ、ただの一回でも失敗すれば、その責任は業者自身が負わなければいけないのは当然である。
今回の事件の社会的責任は大きく、事業の存続なんて考えることは出来ないほど重大な結果をひきおこしていた。もちろん現場の従業員の中に、食中毒を軽視し重大な事件への可能性までは考えていなかっただろう。しかし、悪いことは重なり合って、より事態を重篤な方向へと発展させた。その昔、伊勢の赤福が製造日を改ざんして、本来なら廃棄処分にすべき商品を再販していた事件も、とても大きな失態であり、その社会的責任の大きさから赤福の存続も危ぶまれたほど。同じ頃、有名老舗割烹が同じようにコンプライアンス違反を重ね、最終的に店を清算した。
社会でサービスを提供し、その代価として代金を徴収する以上、何がしかの社会的責任がついてまわる。高齢者福祉にしても同じである。相手は生きている。命を預かる重要な仕事をさせてもらっている。そんな重大なことを日常的に行っている事の重大さを経営者は理解しなければいけない。同時に職員の全員が同じ気持ちを共有して、遊び半分な軽率な気持ちで介護することの無い様に努めなければならない。
今日機会あって、損保会社のコーディネーターの話を聞いた。損害保険として起こりえる事故に対する保障は当然ながら、不慮の事故ではあるものの、ちょっとした気持ちの緩みから発生した前述の焼肉店での食中毒事故が元で会社自体の存続が難しくなるような、そんな事故に対応する損害保険は無いのか聞いてみた。当然ながら、答えは無いですね!と一言で終わってしまった。損保の場合、特に高齢者介護に関する賠償責任保険の中に俗に言う営業保証を扱う商品が無いということである。つまり、介護保険の事業の中でこうむる可能性のある営業損益を保証する保険は無いということである。
僕は常にうちの職員さんに言うが、業務中に起こりえる事故や事件などの全ての責任は経営者である自分が負う!と。しかし、これも通常の業務を通常の精神状態で行ってもらう中での事故、事件を想定した場合を言うのであって、故意にまたは意図的に事業所に汚名を着せるような行為をした場合には、この限りではないのである。つまり、僕が背負うリスクと同じように、職員の皆さんには、それぞれにリスクは背負ってもらった上で、責任は経営者が取る。事業活動ってのは、金銭的な目的をもって行われる以上、それに見合った結果や成果が求められる。私達は、それらの結果や成果を提供する立場である以上、確実に目に見える何かを提示できるよう、常に自分自身に言い聞かせながら仕事に励まねばならない。それが、企業活動におけるリスクマネージメントではないかと考える。
世の中いろいろと恥ずかしい思いってのを、嫌でも経験するもんだ!言い出したらきりが無い程、恥ずかしい思いをしてきたが、このケース、結構誰もが体験してることかも知れないっす!
まあ、僕は着道楽と言われるくらいお洒落が好きで、自分のお小遣いの大半をファッションにつぎ込みます。そんな自分のストレス解消方法の一つにブティックめぐりがあります。名古屋が多いのですが、デパートを中心に色々なブティックを覗いては、お気に入りの一品を探して歩くのです。本当、お金さえあれば、もっと色々とお洒落が楽しめるのに・・・・と思えるほどお店には沢山の素晴らしい洋服が陳列されています。洋服の魅力ってのは今更、皆さんに説明する必要も無いと思うのですが不思議なものです。ぼくの体型と顔立ちで、いくら頑張ってもファッション雑誌の中のモデルのように着こなせるはずが無い。それでも、同じような格好をしたくなる。これは羨望なのか、単なる物欲なのか?いずれにせよ、ファッションに興味ない人に言わせれば、無駄なお金を使ってると批判されそうですが。
さて、それで、何が恥ずかしいかと言えば、そんなファッションにうるさい。また自分では似合っているつもりの人間が、ある日、行きつけのブティックの店員さんに、着ていったジャケットの首元から値札がのぞいてるのを教えられたとき。これは、とても恥ずかしいでしょう! その店員さんに指摘されたことはまだしも、襟元から商品タグや値札をみせたままデパートのエスカレータにのり、通路を歩き・・・と一般の沢山のお客さんお前を歩いてきたのですよ。他の人には見えてても、自分には見えない背中の商品タグ。ファッションを気取る分、恥ずかしさも倍増します。 この商品タグと同様のケースで、コートやジャケットの裾のベンツにバッテン印の糸留をそのままで着てる場合。ぼくはサイドベンツが好みなので、ジャケットの両端にスリットが入っていることが多いのですが、この両方のスリットが白い糸で×印にとめてあって、それに気づかず着てる場合。これも恥ずかしいですね。
まあ、こんなたわいの無いことを考えてブログにしてみました。日本は平和です。 え~っ、ぼくだけですか?平和なのは・・・・・?
出来る限り財布の中には10万円ほどを入れて持ち歩きたいのだが、そんな余裕が無い。(いや!金銭的な余裕が無いのですよ)それでは、余裕さえあれば10万円を入れて持ち歩くのか?と言うと、それもまた持ち歩かないように思う。大体、この地方に生活していて、普段、自分が購入するモノって何だろう・・・・?
僕のお金の使い道は、ベスト5まで書き出してみよう。
1.本、雑誌など
2.音楽CD
3.食材として野菜や生鮮食品類
4.自分の着る服
5.外食
この中で衣料品を除いてみれば、それ程高価なものは少ないほうである。費用も平均すれば2000円から5000円程度であろう。そう考えると、僕は自分のお財布から5000円程度のキャッシュが無くなれば不安になると言えよう。一度、アクシデントとして財布を自宅に置き忘れて買い物に行ったことがある。購入した夕食の材料はレジで合計金額がでるまで財布を忘れたことに気づかなかった。そしていざお金を払おうとして、財布をもっていないことに気づき、あわてて自宅まで取りに帰ったことを思い出す。お金を忘れることって、結構恥ずかしいもの。それと同様に、レジで支払いの段になってお金が不足している場合も恥ずかしい。
最近、うちのデイサービスの午前中の時間の使い方を観察する機会が多く、今日も午前中のデイサービスの状態を見守りながら様子をうかがっていた。午前中という時間は、入浴時間として、利用者の多くは入れ替わり入浴の為に席を離れ、脱衣所、またはその直前のトイレへと移動が頻繁に行われる時間である。うちのデイサービスにしても同じような状況で、デイルームに残された利用者は、入浴の順番が回るまでの時間をつぶす事となる。この「時間をつぶす」という表現が、本当にフィットするような環境が存在する。要するに特に何をやりたいと言う訳でもない。ただ単に、自分の番が来るまで時間をつぶしているだけなのである。当然、気力も意欲も無くなっている状態である。利用者によっては、居眠りをしている人もいる、職員にかまってもらえるチャンスを待ち望んでいる利用者もいる、居眠りもせずにただ単に無表情で過ごす人もいる。この時間の過ごし方は、人によって随分と格差がある。
もちろん、デイサービスにおける時間の使い方は、すべてケア計画に基づいて実施されるはずであり、本来ならばデイサービスに到着した時点から、ケアプランに従い行動の全てが計画されているはずである。しかし、実際は、相手は人間であり生きている以上、その日ごとに体調も気分も異なり、全てを計画通り行え無い場合もあり得る。その体調、気分の変化によって出来た穴を臨機応変に埋めるのが、その日のフロアーリーダーの手腕と言える重要な場面である。相手の様子を観察しながら、適切な目標を提案して行くこととなる。ここに熟練と経験知の性が生まれる。経験の浅い職員では、この時に提案できる「目標」がブレてしまい、利用者のやる気どころか、デイサービスの目的まで見失ってしまう時もある。
僕は何度も職員には言ってきたが、まだまだ、利用者の方々の持てる力を発揮できていない気がする。もちろん、その辺にある同業事業者に比べると、うちのデイサービスは実施してるサービスの質が格段に上である。何よりも利用者の自立を促すと言う点で、ほかの業者の出来ない支援を行っていると自負している。しかし、それでも尚のこと、利用者が受け身でいる。と言う事は、利用者に「してあげてる!行為」が多いと言う証である。主役は利用者であることは当然ながら、主役をあがりたてまつりすぎて、何でもやって差し上げる。そんな機運がデイサービスの利用者の間にはびこっている。
ある車いす利用者が叫んだ。「ちょっと! おしっこ!」 僕は、これはおかしい表現だと思う。 その方は車いす利用者だから自分勝手にトイレに行って、便座に座って用をなすことは出来ない。だから援助が必要である。しかし、おしっこする行為は、職員ではお手伝いできない。援助できるのは、トイレでの移乗、着衣の上げ下ろしを基本とし、それ以上の援助は不要である。職員に言えば、なんでもやってくれる。そんな利用者の意識が蔓延し、知らず知らずのうちに利用者は自分の出来る事をしなくなり、やれる事をやろうとしなくなる。そんな怠慢な雰囲気が利用者の自立心を奪っているように思えてならない。
蛇はだめだけどウナギはだめではない!何故かしらウナギは食べられる。しかし、これが蛇だとすれば、想像するだけでも口に運ぶことは出来なくなる。まあ、そんな蛇とウナギの話ではなく、今の時代のCMの不思議について話しをしてみたい。テレビのCMの中にも、本当に色々と変わったCMがあるもので、このブログの書き出しでも紹介したCM。某有名コンピューター関連のCMを引用したものなんだが、蛇もウナギも関連できない業種のCMなのに・・・これが妙に記憶に残っている。イメージ戦略としてのCM効果を考えると、このCMは成功であると思う。だって、これだけのフレーズで、このCMがインテルのものだと繋がれば、CMの目的は達成されているわけだ。 しかし、このCMを僕が気に入っているか?は別問題であり、CMの好感度と効果は、まったく比例しないものかもしれない。 今、好感度抜群のCMはと言うと、サントリーのCMで、沢山のタレントや俳優による坂本九ちゃんの曲「見上げてごらん・・・・」を収録したものが一番好きなCMだ。もちろん、東日本大震災の被災地復興を願っての公共放送的コマーシャルの色濃い作品だけど、僕は胸にジンとくるものを感じた。
自分が胸にジンとくる何かを感じたとしても、それが多くの人の意見とは違う。今の若者達の感性と僕のそれとは大きな違いがあるようで、まず「笑いの壺」が違う。僕からすれば最近のお笑いネタについていけてない。お笑い番組をみてても笑えない。 いや笑いを理解できていない。同時に、タレント自体、誰が誰か理解していない。相手を理解できていなければ、話が面白いわけが無い。いつの間にか年老いて、若者文化からかけ離れた場所をさまよっている自分だった。