ぼくのブログにも何度もアメリカの名前が出てきます。特にカリフォルニア、そしてサンフランシスコは、住み慣れた自分の故郷のようなところです。長年、其の地で暮らす中でアメリカ開拓民のものの考えかたを学びました。第一に自由思想です。何をするにも自由です。それこそピストル持ち出して街中で空き缶に向け発砲することも自由です。(逮捕はされますよ!当然、街中ですから・・・でも日本のように厳しくは無いです)とにかく極端な言い方をすれば近隣社会に迷惑さえ掛けなければ大概のことは許されるのです。自由の国、アメリカですから! アメリカ人がアメリカを表現するとき「 The Big Oppotunity Country 」 と言います。オポチュニティーはチャンスと同じニュアンスの意味を持っていますが、決定的な違いはオポチュニティーには、意味も無く降って沸く幸運のような機会という意味を含まない点がチャンスとはちがいます。だからこの英語を翻訳すればアメリカは大きな機会を有する国となるのですが、もっと的確なニュアンスで伝えるならば「 とても大きな可能性と機会に恵まれた国・アメリカ 」と訳したほうが適切かもしれません。
兎に角、アメリカは自由で、何でも可能性を秘め、アメリカンドリームも夢ではなく努力次第によっては誰にでも平等に機会が与えられている国なんです。そのような素晴らしい国でも殺人事件や事故、戦争やテロなど、人間の持てる全ての悩みを同じように抱えている国でもあります。この原因として僕が考えるに(あくまでも僕の主観ですから・・・)現代アメリカ社会が自由を求める反面、自己責任を果たせなくなっている点が一番の問題点だと思うのです。これは、日本でも同じ現象で、自由と権利をことさら強く欲求こそすれ、自分自身の果たすべき責任と義務を身勝手にも放棄している国民が多すぎると思うのです。
広島で原爆被爆者への不適切な発言が話題になっていますが、似たような話はそこらじゅうに転がっています。生活保護受給者が戦後の混乱期の数を超えている現状に、震災の義援金からみで生保を支給しないなど、権利と義務や責任が果たされて居ない現実に、トラブルは減っていきません。僕ははっきり言って自分の憂さ晴らしに爆音を撒き散らし何度も何度も一般道を走り回る暴走族が嫌いです。彼らはとても卑怯だと思うし、その一方的な単純思考回路には哀れみを感じますが、それでも、社会に、自分の人生に甘えた行為は許されるべきではないと思います。私達は辛く苦しい毎日の仕事を行うことで生活を維持してます。そこには責任が発生しますし、同時に守るべきルールと義務があります。全てを自分の自由意志のまま行うことは「自由」とは呼ばないのです。
日本に住む若者たちが、将来に期待できるような国を作ってもらいたいと願っています。日本には、無限の可能性とチャンスに恵まれた社会があり、自由な発想と夢に溢れる暮らしが保証されている。そんな社会だとすれば、暴走族は居なくなるのでしょうか?
写真は今朝の様子を撮影したものです。朝の4時30分、雨、若干の霧もしくはモヤがあり、遠くの建物が霞みます。薄暗がりと言うよりは、明るいと表現できるほどではないでしょうか?でも、普通の人は、この時間に行動している人は少ないはずです。大半はまだ布団の中でまどろんでいる状態でしょう! 道路を走る車も少なく、歩道を歩く人の姿はなく、でも鳥だけは活発に飛び回っているのです。
昔、何かの映画の中で東京早朝の映像がありました。主人公が夜を徹して派手にアクションを行い、疲れた体を引きずるように寝静まって誰も居ない早朝の都心の映像です。カラスが残飯を食い散らし、猫がのんびりと車道を闊歩している様な図です。とっても怠惰な重い空気を感じ、ど派手なイルミネーションや人の賑わいや活気に溢れる夜から一転して誰も生活していないような死の街のイメージさえ漂うな朝の情景を思い出しました。
しかし、一昨日より降り続く雨の影響で空には厚い雨雲が居座ってるので薄暗いのですが、天気さえ良ければ朝陽がまぶしく、街中の街路樹の緑も輝いていることでしょう。この明るさ、ただ単に布団中で固く目を閉じて惰眠をむさぼるだけでなく、もうすこし有効に使えないものでしょうか?今の時間が4時30分。これがサマータイム導入となれば、朝の5時半。それでもまだ早朝です。6時半ですよ!と時間を矯正しなければいけなくなったとしても、この明るさは朝の6時半と指定されるほうが相応しいような気がするのですが。僕が暮らしていたカリフォルニアの朝の5時や6時って、夏でも冬でも暗かったですよ! 朝、暗がりの中をベッドから這い出して顔を洗い、電気をつけた食卓テーブルでコーンミールに牛乳をかけた朝食をたべて、ヘッドライトをつけた車に乗って学校に通ったことを思い出します。そう考えると、日本では2時間の日の光を無駄に使っていると言えませんか?
この写真が日曜の朝の6時半だとすれば、今日一日、本当に長く有効に楽しむことが出来るのではないでしょうか?サマータイムが導入されていない今の日の入り予定が7時だとすると、ここから二時間先取りしていけば日の入りは夜の9時。陽のあるうちに思いっきり遊んで体を動かして、それだけでも健康的ではないですか?節電規制ばかり声高にし、エアコンの設定温度にばかり神経を集中させているより、もっともっと有効で幅広く省エネルギー効果の期待できる方策を考えてもらいたいですね。ちなみにサマータイムといわれるこの施策、アメリカではDay Light Saving Time(デイ ライト セイビング タイム)と言って、まさしく言葉の通り日の光を無駄にしない時期。としてアメリカでは広く国民の中に取り込まれている政策なのです。
朝マックを日の光の下で食べるのでは、本当にアメリカのハンバーガー文化に触れたと勘違いしてはいけません。アメリカの朝マックは、外もまだ暗い時間に、湯気のほとばしるコーヒーをすすりながら、眠い目をこすりこすり食べるソーセージエッグマフィンが、本当のアメリカ発祥の朝マックなんですよ!
もともと東京の台場辺りにカジノを造って、広く世界からギャンブル好きな外国人までも巻き込んで観光立国を企んで!という構想からスタートしているカジノ建設構想。それを今回の東日本大震災の被災地復興を兼ねて仙台にカジノを造ろうと考えているらしい。このアイデアを先導してるのが国際観光産業振興議員連盟であり、その会長は自民党の古賀さん。随分と適任者が会長をされていて、そのままカジノのイメージの強い古賀さん。面白いアイデアかもしれないと僕は思います。社会的にはギャンブルを中心に行われるカジノのデメリットとして、犯罪や事件の増加や、勤労意欲の低下、ギャンブル依存症の増加など色々と則犯罪や暗黒の世界に結び付けがち。しかし、アメリカのユタ州では、公的ギャンブルを認めた州であり、日本人観光客も大好きなラスベガスやリノなど、毎日毎日、季節に関係なく世界各国から観光客がどっと押し寄せている。私自身もラスベガスはとても好きな街の一つであり、何度訪れても飽きない。そして、そんなギャンブルの街のラスベガスは、アメリカの他の都市に比べても事件や犯罪は非常に少なく、夜間の街歩きも何処よりも安全な街でもある。私達が日本国内の都市部を深夜に徘徊しても安全である以上にラスベガスでは治安が保たれている。まあ、もっともラスベガスは純然たるギャンブルだけの街では無く、最近の傾向としてはエンターテイメントの街として、あらゆるコンサート、ショウ、国際規模の見本市や国際会議の開催などで注目を受けていることもあり、行政機関が治安維持に力を注いでいる点も重要な素因でもある。
何も東京周辺にカジノを開設して外国人観光客を取り込まなくとも、東京の都心は、その街の魅力だけでも客は呼べる。しかし、仙台等の地方都市に外国人を呼ぼうとすれば、極端だがカジノを中心に世界的なエンターテナーの街として仙台を設計できれば、今までのような単なる田舎の地方都市の仙台ではなくなる。もっともっと、仙台が自発的に世界に向けて情報を発信する事が出来れば、それこそデメリットどころかメリットばかりのアイデアではないか?!もっとも、日本人って結構中途半端が多く、それと利権がらみが多く、いろいろな規制に対して中抜きの意味無い規制も多く、年齢制限や入場制限等の細かな規制が徹底できない弱点もあるにはあるが、そこをしっかりと決めて守らないと、中途半端な悪ガキがはびこって、せっかくのグレートアイデアも陳腐な独り善がりな計画に終わりそうである。
この古賀さん、昨年末に東京に旅した時、麻布のキャンティで飯食ってる最中にデザートの洋菓子を買いに、同じくキャンティを訪れた。食事しながら古賀さんを見てたが、なかなかダンディーな服装で、家族と一緒に高級洋菓子を箱に詰めてもらっていた。やはり自民党の古賀さんらしく、おばちゃん連中にファンが多いのか、店に入ってきて直後から、お店の外には人垣が出来ていた。サインをもらう訳でもないだろうが、それでも一流の映画スター並みの有名人の登場は、ひと時のはじけた明るい雰囲気に辺り一面がなった。
そんな人が中心となって日本にカジノを造ろうとしている。面白いアイデアであり、とても興味深い計画である。地域復興として考えれば、とても有望な計画ではないか?! 堅苦しい理屈だけに振り回され、いたって普通で無難なアイデアに税金投入して被災地復興を計画したところで、そこには過去に展開して散々非難を受けている「箱もの行政」と言われ、無計画でありながら館だけは立派で使い勝手の悪いホールを造るだけに終わってしまうでしょうに!
写真が、そのフォーチュンクッキーと呼ばれる物で、アメリカ合衆国の中華料理店で食後の支払いを済ませたときにもらえるクッキーなんです。このクッキー、日本で言う「固焼せんべい」みたいなもので、生地を折り曲げて焼かれ、中におみくじが書かれた紙が入っています。だからフォーチュン(将来をみる)クッキーと呼ばれる所以なんです。まあ、食べてみて特に味が旨いと言うわけでもなく、味よりも中に入っているおみくじが楽しいのです。 インターネットを広げて検索窓口で「フォーチュンクッキー」で検索してみてください。ウィッキペディアで詳しく紹介されていますから、このクッキーを考えたのが日本人だったり、中華料理に関係するものの当の中国人には有名でなかったり。それなりに面白いネタが書き込まれてました。
さて、僕がこのフォーチュンクッキーを取り上げた理由は、ウィキペディアとは違った観点で、このクッキーを解説したいと思うのです。
このクッキーがなぜ日本の中華料理屋さんでは出てこなくって、アメリカ合衆国やカナダの中華に限定されるのか?と言う点で考えると、そこには食事に対する考え方の国民的な相違があるからだと思うのです。僕もグルメを自称し、美味しいものには目が無い者ですが、食事という観念が普段の三度の食事に無いのが本音の部分です。意外と言えば意外です。自分で食事を作って食べるにもかかわらず、その食事は欧米人の食事に掛ける時間とは雲泥の違いが有ります。僕は、ただ単に満腹になればよい。また欲を言えば満腹にするのに、美味しいもので満腹になるほうが、尚のこと良い。と言うレベルなのです。しかし、欧米人は、美味しいものは当然、健康的であるのも当然。しかし、さらに食事にかける時間と空間、そして雰囲気までも重視します。この食事にする評価はトータル的に行われ、その評価次第でレストランの繁盛に大きく影響を及ぼします。
クッキー一個がもらえるからサービスが良いと言う判断には直結しませんが、良く考えてみれば、レジでお金を支払って店を出る日本式に比べて、テーブルで清算をして、その場にクッキーが運ばれてくる。食事を終えてお腹は大満足な客も、そこでクッキーを食べながらひと時の会話が、中に入っている「おみくじ」で楽しめるではないですか! ほんの数分の余裕というか、食後のひと時を与えてくれる役目が、このクッキーには存在するのです。日本人の食事の感覚の貧しい点は、まさしく満腹にするための食事である点です。欧米人のように食事の味、時間、空間、や会話を楽しむ、食事=人生を楽しむ。この違いを考えて、日本人には、もっともっと食事を優雅に楽しんで暮らせるようになってもらいたい。このフォーチュンクッキーの写真を見ながら、日本の食の文化を考えていました。
やはり梅雨ですね。雨が降っています。この雨が災いする地域もあったりして、降り方、量によっては恵みの雨であったり、災いの雨であったり複雑です。雨も視点を変えれば、標題のように雨に打たれても歌まで飛び出してきて、それでいてとてもハッピーな気持ちになれるという有名な映画のタイトルのように、要は気持ちの持ちよう!ってわけです。太陽の家の建物横では、毎年の熱い夏を彩る「ノウゼンカズラ」が、今年も咲きました。この梅雨空の中でも、赤い花びらを空に向けて大きく開いています。昨夜は月食の見れる夜だったのですが、生憎の曇り空。空一面に薄らとかかる雲によって、この鈴鹿では月食は見ることが出来ませんでした。
雨にぬれた路面は、鏡のように地上のモノを受け止め、静の風景を映し出しています。ちょっと芸術性を求めてシャッターを切ったのですが、やはり素人の撮影する写真です。どんなものだか・・・・?