とにかく明るくなった。そして、風通しがよくなった。
何がそんなに変わったのか?一昨日、庭師さんが太陽の家の裏庭の樹木剪定を実施してもらった。もう随分と伸び放題に伸ばしてきて、この夏は二回も連続して家の玄関や太陽の家の裏庭に蛇が出没するほど茂みが深くなっていた。小さいほうの写真から見比べても、いかにサッパリと庭が変化したかがうかがい知れると言うものです。何となくですが、剪定してもらってから、建物自体も光り輝いたように感じるのですが・・・・
先日、メジャーリーグの試合をテレビでみてて、ベンチの様子が何度も画像に映し出され、その度に監督やコーチの面々が口に何やら放り込んでは、ペッぺ ぺっぺと地面に吐き出している。この上品では無い行為。アメリカでは、そこらじゅうで目にする光景で、特に芝生の広場や車を運転中など本当に良く見かける行為なんである。
メジャーリーグと言えば、チュウイング・タバコ、風船ガムなども有名で、選手もフィールドに立つときに、いつも口を動かしては、つばを吐いたりして、とてもお行儀が悪いのが特徴のようなもの。今回、ベンチで見かけた行為は、あきらかにサンフラワーシード(ひまわりの種)を食べているんだ。ひまわりの種の言えば、リスやハムスターの類のペットのえさと考えがちだけど、アメリカでは、ひまわりの種のローストして塩味を利かせたお菓子がそこらじゅうで販売されている。本当に、何処に行っても売っていて、尚且つ、安い。日本でもひまわりの種やカボチャの種は販売されているが、アメリカと日本の大きな違いは「殻つきか?殻なしか?」の違いがある。アメリカは、当然殻付きローストで塩味つき。殻のまま口の中に放り込んで、舌と歯を駆使して殻を割って実だけ食べている。メジャーリーガーの選手や監督も同様、口の中で殻を割って実を食べ、不用になった殻を吐き出している。当然、その人の周りには、沢山のひまわりの種の殻が散乱し、とても汚らしい状況となるのだが、それもこれもご愛嬌。実際に食べてみれば、結構おいしい。これは、塩味の効いた殻後と食べるから美味しいのであって、殻無しの実だけを食べていても飽きて来る。実際、僕もひまわりの種は大好きで、アメリカに旅行して必ず第一番買い求めるのが、このひまわりの種の子袋入りだ。
僕の知らないところで、アメリカ式ひまわりの種を売ってるかもしれなが、もしもどこかで販売されている情報をお持ちの方はお教えいただきたい。介護の現場で、お散歩途中に、畑仕事の中で、ひまわりの殻をプッププップと吐き出しながら、あの塩味の効いた向日葵の実をたべてみたい・・・!
ブログを書き始めるためには、まずはタイトルから考え始めるのが私流。タイトルを決めないと、文章がスタートしない。タダでさえ鈍い頭が、誘導式にタイトルをつけて誘い出してあげなければ次に続かない。そんなわけで、今日も、白紙の書き込み画面を見つめつつ物思いにふけるように、文章を考えながら、結局なにも思い浮かばず、コンピューターのディスプレーを見つめながら頭の中は色々な場面や状況が走馬灯のよに回り始め、ただ摂りとめも無く重いが上滑りしている状況だった。
毎日、ブログを書き込むことは、ある意味楽しい。それは自分の可能性にかけるチャンレンジとでも言おうか・・・意地の様なものと言おうか・・・無い頭を振り振り、何とか搾り出すようにブログを書いている。面白いと思う文章もあることは有るが、大半の文章は何を言いたいのかチンプンカンプンな文章が多い。自分でも中途半端な結末だ!と感じる場面も多く、結局僕は屁理屈をこいてるうちに自分の中で論点がずれてしまっていることに気づかないまま終えてしまうことが多くなっている。
この辺が作家の先生方と基本的に差が生まれるところで、文筆家といわれる職業の人たちは、その行為を持って飯を食っている以上、真剣に頑張らないとオマンマを食い損ねる。しかし、僕のブログは一方通行の言いたい放題、それによって日々の生活に困るわけでもない。この緊張感の差が作品(僕のブログは作品と言われるほどの上物ではないけど)の良し悪しに大きく影響を及ぼしているようである。しかし、書く以上は、皆さんが読んで面白いと感じてもらえることを求めているし、自分でも思いを旨く伝えることが出来れば・・・・と期待している部分もある。
我が家のトイレの片隅に散乱する雑貨品をいつも気にしながら、結果的に床に並べたままで過ごしていたのですが、インターネットのショッピングでコーナーシェルフを発見。スチール製の四段棚で9000円ちょい。安いのか高いのか判断が出来ないのですが、僕にとってはトイレの整理が出来て、非常に満足しているのです。まだ、それなりのディスプレーも出来ないまま、ただ単に床に転がっていた雑貨品を適当に棚に並べただけの状態です。ドライフラワーや置物などを飾れば、もう少し雰囲気はでてくるのかなア~と考えています。そのうちに、もっとディスプレーが旨くできたら写真を添えてご紹介します。
次に通販のショッピングで失敗したものもあるのです。それは、某インスタントコーヒーの製造販売を行っている大手有名企業の販売するイタリアンコーヒーやエスプレッソに近いインスタントコーヒーメイカーを特価で7500円程度で購入したのですが、これは最悪の失敗の巻。泡立ちが良くイタリア風のコーヒーが簡単に提供できるマシンとして販売されていたものを実際の現物から出されるコーヒーの味も確認せず、通販の説明だけを信じて購入。使用するコーヒー豆はローストして自分でひいたものではなく、あくまでもインスタントコーヒーを入れてカップに注がれるだけのマシン。やはりインスタントはインスタントの味しか出せない。結果的にインスタントコーヒーを飲んでいることに変わりは無く、誰に聞いても美味しくない!と言われる始末。僕自身も数杯は試しのみをしたのですが、決して想像していたイタリアンカフェの味には程遠い。今では、誰もこのマシンを使ってコーヒーを飲まないので、綺麗に水分を抜き、箱にしまわれ、近いうちに天井裏の倉庫に眠るようです。
今まで色々なものを通販で購入したのですが、結構無駄使いをしてると自分なりに反省をしています。本当に必要でほしい商品は、ある程度の時間をかけて商品を見定めて購入するほうが良いのでしょうね。それでは、また通販で特別なものを見つけたらご紹介します。
デイサービスと言う事業、社会福祉の世界では児童や障害者など向けのデイサービスもあれば、我々の実践している高齢者向けのデイサービスもある。度の種別に関係なく昼間の間だけ要介護者をお預かりして、必要なお世話を実施するサービスがデイサービスの役目である。児童向け、障害者向けのでサービスよりも数の上でも多く存在するのが高齢者デイサービス事業所である。朝夕のラッシュ時に、車いすマークを付けた改造バンが、一般道で通勤に焦るお父さんやお母さんの車の前をノンビリ進むことから、結構色々な方に文句を言われることが多い。送迎車両が行き来するデイサービスです。
さて、このデイサービスの提供するサービスについて、これは、ここの事業所の考え方によって格差がある。本来ならば格差があってはならない提供サービスではあるが、福祉産業もビジネスである以上、ある面で採算を考えて運営が実施されているのは仕方ないのかもしれない。赤字になってまで事業を継続できないというのも理解できる。しかし、何を持ってして赤字になると言う判断がされるのか?である・・・やみくもに人件費ばかりが膨張すれば赤字にはなる。今の相場で、デイサービス事業所における人件費率は売り上げに対して約55%~70%程度かかっている。都心部などの人件費の高い地域によっては80~90%という地域もある。それ程の人件費率では経営が困難になるのは当然である。しかし、その人件費をかけて何を提供しているのか?その提供されるサービスの内容で利用者の満足はえることげ出来ているのか?が問われるべきである。
デイサービスは通いのサービスである。自宅の生活がメインであり、全ての管理は自宅で行われるべきであり、自宅では補えない部分や専門的な支援を必要とする場合に、デイサービスのような専門機関(と言う得るか否かは別問題)が実施することとなる。また、デイサービスのサービス内容について、基本、本人の承諾を得た内容であり、本人の希望を出来る限り盛り込んだ支援内容となっているはずである。しかし、実際は本人の年齢的、機能障害などによって本人の意識で物事を判断できる環境に乏しいケースが大半である。ヒトの多くは加齢と共に自分自身で役割や立場を喪失してしまう場合がある。家庭における主役は息子夫婦に替わり、極端な場合は孫を、ひ孫を中心に家庭全体が動く場面もある。すると、まず食事内容が変化する。魚、野菜中心から肉、揚げ物、チーズ等の洋食が中心となる。生活のリズムが深夜型に変化すると同時に土日祝日などのお休みの遠出など活動範囲が広くなる。つまりは、活動自体が活発になるにつれ高齢者には体力的に同行することが難しくなる。結果的に家にお留守番が増加する。 自宅に一人で暮らす高齢者は、昔の高度成長期時代の日本の児童と同じで「カギっ子ならぬカギっ婆と爺」となってしまう。一日中変化の無い部屋でテレビの番をしていれば、人間、どんなふうになるかと言えば、「ボケる」若者でも外出することなく。万年自宅の部屋の中でテレビだけの生活を行えば精神的にも普通で無くなる。そんな高齢者の生活を一生懸命改善しよう、意識レベルを改善しようとするのがデイサービスの一番大きな役目と言うのかもしれない。
しかし、ぶっちゃけ、本来必要としているのは高齢者の意識改革ではなく介護者の若い世代に高齢者福祉を解読すべきであり、学んで改革してほしいのは人がボケる過程をしっかりと学んでほしい。年寄りの生活を改善するには家族ぐるみの努力が不可欠である。極論から言えば、週一回二回程度のデイサービス利用で、その人の何が補足できるか?!デイサービスを主体とするならば、そこで行われるサービスの継続を各家庭でも実施すべきである。高齢者に対する若者の意識は理解できる。とても接遇に苦労するケースも存在する。しかし、今提供している家族介護の実態は、将来の若者が受ける事となる介護サービスの実態であるとすならば、将来的に非常に厳しい、寂しい、悲しい事態となるのではないか?と考えてしまう。