太陽の家

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ブログ-施設長の部屋

2011/7/7
原発関係のニュースを読んで。

スズキ自動車が、中電の浜岡電発より12Km北にある相良工場のエンジン生産の半数を原発から60Km離れた湖西市移転させるよう調整に入ったそうである。スズキ自動車も原発事故を警戒して、自社のリスク負担の軽減にむけて行動を開始したわけである。流石に福島の東京電力の原発事故被害を考えると当然の決断かとも思える。企業として自社従業員の生活を守ることも大切であり、同時に企業として存続できるようにあらゆる危険リスクを考慮に入れた事前防護策は必要である。

 しかし、スズキ自動車のように資金力に余裕のある大企業であれば、リスク負担の少ない地域への移転も可能ではあるが、それさえも自由にならない零細企業や一般市民は、危険リスクからの事前対策なんて夢のまた夢といった物語りであることも厳しい現実である。家一軒建てることは庶民の高根の花。一生に一度の大きな買い物をするわけで、その自宅を安全圏へ移転させると言う事は、ほぼ不可能な作業である。結果的に、何が起ころうとも自宅のある場所に執着しなければいけない現実がある。これは、そのまま、今回の東日本大震災の抱える問題であり、原発に限らず津波被害に遭遇した人々にしても、自宅を失うことはとても大きな負担を残してしまう結果となっている。

 今年の夏は暑い。梅雨も関係なく熱射が降り注ぎ、毎日毎日猛暑日の連続。原発に頼り切った日本のエネルギー政策にも大きな打撃を与え、電力供給のバランスを保つための節電が叫ばれ、エアコンの設定温度を高めに設定しなければいけない時。この暑い毎日にエアコン温度を高めにセットすることも辛く、また大勢の人達に熱中症による体調不良の危険が増加し、とかく原発だろうと何だろうと電力の潤沢な供給に甘んじる方向性に揺らごうとしている。

しかし、私達の将来の健康被害等を考えると、更なる節電への工夫と行政による適切な電力供給への方向性を示して行けるだけの強いリーダーシップが必要であろう。イタリアやドイツでは、早々と原発との決別を宣言した。日本は世界で初の原爆被爆国であり、広島、長崎は原子力問題の象徴的な街として世界に大きな意味を持って名前が知られている。そんな日本の政府が、経済基盤を揺るがす可能性のあるエネルギー政策で、今でも原発に依存して、他の代替エネルギーへの変革にシフトできないとは、何と言うお粗末なブレインだろう・・・・!

 パラダイムシフトが叫ばれ、その言葉の意味こそ理解はしてるものの、本来のパラダイムシフトに思いっきり良く決断する能力をもつトップリーダーが今の日本には不在である証拠かもしれない。

2011/7/7
太陽の家こぼれ話・・・・

 太陽の家って他の社会福祉法人などの法人組織に比べるとちっぽけな組織である。小さいと不都合ばかりで何もメリットが無いかといえば、意外とそうでもない。事業所を経営する点からすればメリットは少ない。要するに儲けは少ない。事業規模が小さくとも、国民負担の費用(公費と呼ばれる性格のお金)である以上、其の給付金をめぐる積算方法や請求金額の正当性など、はたまた労務管理や福利厚生などの管理もかなり厳しく追及され、一般の企業であれば従業員を1000人も抱える規模と同じくらい、規則、規律などの整備を求められている。これらの整備には、色々と外部の識者に委託したりする費用などが必要となり、其の費用負担は小規模こそ売り上げスケールから判断しても事業所の負担する比率は当然高くなり経営を圧迫する。

 まあ、そんな経営上の恨み節ではなく、この小規模な事業所だからこそ出来る介護。大手の事業所では到底不可能な部分を徹底して小規模が隙間を埋める形で今の日本の高齢者介護は辛うじて維持されているように思う。何が不服で「辛うじて・・・」なのか?と言えば、そこには大手事業所と小規模の民間事業所との間の連携が取れていないからである。もちろん、この連携をとる重要な要にケアマネジャーの存在がある。僕は、このケアマネジャー個人の介護理念または精神保健福祉技術の捉え方の違いが大きく支援の方向をゆがめてるような気がしてならない。ケアマネ一人の責任とするつもりは無いが、今の現状としてケアマネジャーは国家資格にはなっていない。あくまでも任用資格であり各地方自治体が認める資格なのである。其の分、資格選定試験のレベルも低く介護保険制度の創設にあわせて、急激に人員配置に必要性から量産してきたケアマネジャーである。主任ケアマネやら何やらと、一般的なケアマネ資格に上乗せする資格を追加してるものの、それとて一定時間の講義を受ければ取得できる資格であり、あくまでも任用資格の枠を出ることは無い。

 ケアマネを長く経験するうちに、それなりの経験をつんで対人援助に一定の自分なりのパターン化が見えてくる。過去の事例に従った画一的といえるかもしれないパターンで処理しようとするケアマネは、利用者の真のニーズを捉えることなく十羽一絡げな作業をしてしまいがちとなるわけだ。また、長年の支援の中で関係者の中に人間関係の強弱が生まれる。キーパーソンと言う表現は、本来は要介護者の意思決定や生きるために大きく影響を及ぼす人物を示す言葉だが、そのキーパーソンの意向がすべてとなってしまうケースも見受けられる。本人の意思は元より、ケアマネのアドバイスよりもキーパーソンの都合が最優先する。そんな最悪なケースも多く見受けられる。またこの歪な関係はケアマネが一番強いケースも存在し、本人の意思も、家族の意向も無視し、ケアマネの思い込み介護の押し売り型もある。対人福祉援助技術ってのは正論が無い分難しい。時と場所、其の関係に細かな要因が加わり複雑に絡み合っていく問題を多面的に支援していく技は、かなりな高等な技術を要する。ここに至るにはケアマネとして一種の燃え尽き症候群のような業務に対する一種の諦めムードも影響を及ぼしている点も否定できない。ケアマネは事業所に雇用されている場合もあり給与体系はバラバラである。一人の要介護者を支援することで月額1万円程度からの報酬を保険者から給付される。この給付に際しても、一定の条件をクリアーしない場合、例えば要介護者が外部サービスの一切を利用しない場合、ケアマネの相談援助に対して給付金の支払いはない。要するにただ働きである。それと、先にも書いた基本給付額が少ない。人ひとりを支援するのにケアプラン作成、アセスメント、医療情報の収集、サービス提供担当者会議の開催など多義にわたる業務をこなし、その記録をすべて残して初めて給付される金額が一人に対して1万円前後。労力の割りに設けは少ない。真剣に要介護者のニーズを満たす努力にモチベーションは下がる一方。そんな気持ちも分からないでもない。

 さて、今までケアマネだけの責任のように話が展開されているが、そればかりではない。個々の事業所においても細かなケアは行われていない点が問題である。この細かなケア、厳密に言えば不可能なケアといえるかもしれない。おそらく、この細かなケアを実施するには、要介護者一人に対し介護者を一人マンツーマンで設置しなければ不可能である。今の法律で定められている人員配置基準では到底、個別ケアは難しい。それでも実施しなければいけない使命感は介護職員も持っているし、事業所も持っている。それでも、現実化しない個別ケアの課題は何処にあるのか? 一つは措置の時代に活躍した寮母意識の名残がベルトコンベアー式介護が横行している現状がある。特に特養などの重度要介護者を専門とする施設郡に多い。職員の配置基準は満たされているものの、一日に実施しなければいけない業務の量が多すぎることが原因として作業が煩雑になりすぎている結果、要介護者、特に寝たっきり老人に対しては、時間ごとの給水、排泄、排尿、入浴など決められた時間通りにしか介護者は支援しない。要介護者はただひたすら介護者が来てくれる時間を心待ちにするしかない現状。これは介護といえないだろう!と憤慨しても、改善のしようが無いのが現実である。そういう意味で、認知症介護においてグループホームという業種では、マンツーマンに近い環境の中で、認知症高齢者の生活を、その人を中心においたケアを行える聖域として期待された事業だった。されとて、グループホームに課せられた特命を経営者も職員も理解せずに始まった事業だけに、ミニ特養的団体行動をメインとして粉別な配慮も無く、食事を与え、排泄を手助けし、入浴を促し、夜は徘徊する認知症高齢者を居室に閉じ込めて鍵を掛ける。そんな介護がまかり通る時を越えて今に至っている。其の頃の悪評高きグループホーム、今後の活動や介護スキルの向上を目指し提供サービスの向上を維持しなければ、認知症介護の専門職と言えないどころか、経営すら危ぶまれる事態となる。

 とにかく介護のビジネスとは、隙間産業なのである。他の事業所の実施できない点を埋める方向で対応する。提供時間、提供日、質、量、すべてにおいて更なる負担は事業所に、また職員にかかってくる。これらの労力に対する正当な報酬も確保できるように努力しながら、これから先に増加する要介護者支援に事業所の規模や法人組織に関係なく連携をとりながら、今まで以上の介護の質を求めて行きたい。

2011/7/7
現場ディレクターとは・・・・

現場のディレクターと言う職業は色々な業種の中に必ず存在する。俗に言う「業界」のディレクターに限らず、工事現場の監督さんもディレクターであり、グループホームやデイサービスのフロアーリーダーや主任、ホーム長など名称はバラバラながらも、其の現場に責任を持って、関係する者をまとめ、指導して、適切な方向へ作業を管理、監督し導いていく言うなれば船の船頭さんとしての役目がディレクターである。

「ディレクター」=「仕切りやさん」であって、多少(いや・・・?結構・・・・)あつかまし人物であるかもしれない。僕も、このディレクターの一人であって、すべての現場を管理監督する役目だから、それなりの責任と義務を背負っている以上、当然のように自分の意見を持っているし、其の意見に対して自負心と責任をもって発言している。そういう意味では、現場のディレクターとは結構重い責任を持って、それなりに胃の痛む思いや心冷や冷やの厳しい環境の中でも耐える忍耐を必要とされるような、厳しい職責かもしれない。

 さて、そんな神経をすり減らしてまで仕事しなければいけない職責なんてなりたくは無い!という考え方も有るかもしれない。これは、その人の性格にもよるところは大きく、他者から言われるとおり指示に従って、与えられた仕事をこなすだけ好む人。はたまた、人に言われて行動することを嫌う人も居るかもしれない。ディレクターになる人の根底には、人から指図されるのでは無く、自分が思い描く目的に向かって、多少のストレスも想定内として耐える覚悟をもっている。ストレスを受けることを覚悟してるのだから、物好きまたは変人と言われるかもしれないが、そこには「遣り甲斐」が存在する。自分が思い描く姿があって、それぞれに目標とされる図式が存在する。現場のディレクターには、其の目標に向かって色々と指示を行い、世話を焼き、時には嫌がられる言葉を吐きながら自分の思い描く目標を達成していく。其の目標に達成感を感じ、次の目標に向けての意欲を感じ、更なるチャレンジを行っていく。言わばエンドレスなチャレンジかもしれない。

 優れたディレクターと言うのは、瞬時の判断がと決断が求められる。もともと作業する場においてすべての関係者のベクトルや作業に関する理解が同じレベルで、同じ方向に行われているとは限らない。もちろん、作業前に関係者との入念な打ち合わせやあ話し合いが行われて意見の統一は必須うであるにもかかわらず、やはり細かなところで微調整が必要となる。其の微調整を、必要な箇所で適切な指示と適切な量の実施が難しい。必要量を超えて叱責したり小言を言うと時には逆作用が起きて、関係者のモチベーションを損なう場合がある。其のさじ加減で出来上がりの良し悪しが決まってしまう。それと、現場のディレクターは、普段から関係者の中で人望厚い関係性をキープしなければいけない。人間関係がうまく構築されて無いなかで、誰も指示を聞いてくれなければディレクターとしての作業は不可能である。普段からの自分の行動に十分な責任をもって行動しなければいけない。

それと『あつかましさ』という点においてはかなりの部分で、自分本位といわれる危険性をはらみながらも実行してしまう場面も多い。例えば、今日、太陽の家で七夕劇の通し稽古が行われていた。僕は観客席に陣取り、其の練習風景をみていた。練習の最中に僕がしゃしゃり出て意見することは避けたほうが良かったのかもと思いながらも、やはり見てみぬ振りはできない。僕がアドバイスすることで劇の仕上がりがよくなるのであれば、その場で指示を入れたほうが良い。徒の判断で意見した。その意見とは、僕なりに思い描いた「寸劇」の完成図があり、その完成図に近づけるためにセリフや演技まで細かな指示して修正を加えることである。そのために一生懸命練習している最中に、一旦練習途中に分け入って、細かな指示を入れる。これは関係者にしてみれば「あつかましい」かもしれない。しかし、この厚かましさが無いと、逆に練習は不完全なものとなり、せっかく練習に費やした時間を無駄にするばかりか、劇そのものの出来栄えが大きくかわってしまう。言ってみれば、ディレクターとは、作業の効率化も含めて、一緒に働く人々の最大限の可能性を引き出しベストな仕事が出来るように準備、実施し、船頭としてみんなが同じ感動を味わえるように厳しい面を見せながら、ただひたすら客観的な立場も含めて冷静に現場を見て進めていく事と言えるかもしれない。今日の午後から予定する七夕劇の出来栄えが、今から楽しみである。

 おっとそれから、この寸劇の練習が過去に4回ほど行われてきたが、其の4回の練習には参加せず、一人でべつの作業を実施していた職員さんに感謝したい。彼女はこの寸劇予定日が希望休となっており、寸劇に参加できないことを理由に、他の職員が思う存分練習に励めるよう、彼女なりに協力してくれていた。トイレ掃除や諸々の雑用を一気に片付けてくれていた。寸劇の出演者には、そんな陰の協力者に対する思いやりももってもらいたい。

2011/7/6
よしずの立て方で、その人の性格がみえる?

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写真のよしず一つとっても、立てかけた人の性格がみえるように思う。性格が良い、悪いではなく、その人の几帳面さが如実に表れるのが、こう言う何でも無い行為にその人の性格が見え隠れするのだから、意外とおろそかにはできない点かもしれないと真剣に考えてしまう。以前、女房と論議したテーマに繋がっていくのだが、介護の現場で神経のこまやかさや几帳面さが、良い方向に作用する面と、悪い方向に作用する面の両面を抱えている!と話が盛りあがった。良い面とは、言わずと知れた介護の現場での「気づき」へのつながりを期待できる。毎日の変動の激しい高齢者の体調、精神の管理に置いて、微妙な変化やゆらぎの早期発見は、その要介護者のADLやQOLの維持にとって、とても大切で重要な課題である。そのような重要な場面で介護する側のドンカンで無神経さが要因として、重要なサインを見逃してしまうとすれば、それは介護の現場で、あってはならない問題だろう。逆に悪い方向に作用する面としては、その几帳面さが介護者の精神並びに肉体の不調につながり易い点である。几帳面で神経質な性格は、色々な高齢者に細かな神経を使う。そればかりではないが、その事が結果的にストレス又は極端な場合、内臓臓器の疾患に発展する可能性も含んでいる。確かな医療上のエビデンスも無いので何とも言いきるのは難しいが、それでも精神的ストレスが心身に与える影響は、全く否定できるわけでもない。

以上の点から、それでは何が良いのか?言いきれないところが難しい点ではあるが、人間として、介護者として、求められる点は、やはり要介護者に寄り添った介護への視点を維持し、そのニーズの汲み取り枠を拡大していく姿勢は確保し、それでいて自分自身がストレスでいっぱいパイになり、結果的に負けてしまうことに繋がらないような適当さも求められるのである。非常に使い分けの難しい、高度な対面技術を求められ、自分の精神コントロールまでも極限で必要とされる、非常に高度なテクニックとケアを必要とされているわけだ。

介護の現場に目を向けてくれる若い介護職員さんには、単に爺さん婆さんが好きだから!という安易な気持ちだけで仕事は続けてほしくは無い。この世界に入るきっかけとしては良い。しかし、その気持ちだけでは、長期間の介護を継続することは困難である。僕が考える介護職に一番重要な課題として「 自己覚知 」を強く強く訴えたい。職員の思い込み、勘違い、スキル不足や人生経験不足など全てに置いて、介護の現場では重要なテーマであり、常にそれらのテーマについて真摯に自分自身を律し管理でき、不足に対しては補う継続的姿勢が求められている。

よしず一つの立てかけ方をもって、ここまで話が飛躍するには、僕はそれなりの気持ちの持ち方が介護の現場には必要と考え、重要視している結果と判断してもらいたい。

2011/7/6
深夜の徘徊

深夜に徘徊って言葉は、認知症の爺さん婆さんか、はたまた不良中高生に特有の行動かと思いきや、中年、いや初老のおっさんも深夜に徘徊する事が増えてきた。

最近特に回数も増えてきたが、夜も11時を過ぎる頃になると、妙に外の空気を吸いたくなる。空気を吸うためだけなら、窓を開けて外気を取り入れればよいが、目的は夜の街に出て行く。要するに車に乗って深夜ドライブを行う。酒を飲みに行くとか、飯を食いにいくとか言うのではなく、本当に単純に深夜のドライブである。夜も12時を過ぎても、最近の鈴鹿は活動する人も多く、其の分、街の飲食業の店が営業を行っている。人は眠らない! 人が眠らない街と言うのは「東京」や「ニューヨーク」等の大都会だけと思っていたが、最近では田舎の鈴鹿市でも24時間営業の店が増えてきた。

そんな眠らない街をドライブして、30分もすれば次第と高ぶっていた神経が落ち着き始め、眠くなってくる。そうして、自宅に帰り部屋に戻ってベッドに戻る生活。そんな徘徊生活に悪い癖のような習慣がついてしまった。でも、鈴鹿って深夜に走り回れば、本当に鈴鹿の町の端から端までが30分でいけてしまう距離である。そんな小さな街にも、色々な人生があり、色々な生き方がある。そんな事実を確認すれば、僕の深夜徘徊すらも業務の一環として立派な理由付けが可能である。皆さんも、部屋のベッドの中で寝付かれない夜、ただ単にモンモンとした生活を続けるのではなく、自分で出来ることから探してみては如何でしょうか?


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