歳を重ねるにつれ物忘れがひどくなる。これは、知能が劣っていくと言う訳ではなく単なる歳相応の物忘れであり、特別に問題視する必要性は全くない。それよりも、物忘れが増えてきたと感じる時から、出来る限り記憶に頼るのではなく書いてメモを残すことに徹することが、高齢者の認知症予防には最適である。僕も58歳となる今年、昨年以上に物事の名称や日程など、また仕事関係の会話の中で自分の発言にあやふやな記憶が多く発生し始めている。所謂、老化現象と言われるものである。
うちのデイサービスを利用する後期高齢者の要介護者達には更に記憶に関するあやふやな部分が多く散見され、その定かではない記憶に不安な気持ちが高まり意識のレベルにまで影響を及ぼす方もいる。意識レベルと書くと、やけに大事のように感じられるが、要するに認知症の周辺症状(BPSD)と言われる特有の状態であり、これは高齢者だからと言う訳でもなく若年層にも過度の記憶に障碍を持ち始めると起こってくる症状である。
私達介護を専門とする役職は、これらの記憶の障害に際し、無理やりに記憶を引きずり出すお手伝いをするのではなく、忘れたことよりも、忘れない様にお手伝いする。つまり予定を書いていく支援、書いたものを必ず目を通し確認する動作を徹底する、また重度の記憶障害者には家族による行動チェックも重要になってくる。
要するに結果を言えば、高齢に伴い全ての人が記憶に何らかの問題を抱え始める。その欠けていく記憶を周囲にいる者たちが連携を摂りながら補っていくことによって、その人(要介護者)の心理的な不安感情は緩和され、周辺症状(BPSD)も減少し困惑感情も薄らいでいくこととなる。
高齢者は以前には、その人生を尊ばれ尊敬されて生活してきたと同時に、ある意味、一般的な高齢者の枠からはみ出た人々は屋敷牢や離れと言われる別棟の小部屋に幽閉され社会から完全に隔離されてきた。今でも一部の社会的地位に高い人々などは、認知症を患うと同時に社会から隠れるような生活を送る人もいる。もちろん、そのようなVIP達の幽閉生活は庶民のそれとは大きく異なり、優雅で贅沢な毎日を過ごすことが可能である。しかし、一般社会との接点が皆無ということは、その時点で認知症の進行を早め、全ての機能不全に向けて思いの外、早く進んで行くようである。そう考えると、それ程の経済力の無い庶民が公的な支援を受けてデイサービス等の外部サービスを利用することは大いに意義があるはずである。
その公的支援に関して言えば、今や要介護者数よりも多くの供給数を確保する事業所間での競争が激しい市場に向かっている。恐らく市内のデイサービスで定員いっぱいで新規要介護者の利用をお断りしているところは無いと言っても過言ではないだろう。そんなうちも同様、定員までには、まだまだ余裕があり、新規利用者の獲得に努力している状態である。まあ、新規利用者の獲得も申ことながら、そこでケアを担当するケアワーカーの獲得も重要な問題でもある。適切な介護を行う上では職員の数と質がとても大きな要因として、流行るデイサービス又は低迷する事業所間の格差を大きく広げていく事に繋がっている。
うちのデイサービスでも職員の数は潤沢とまでは言えない。行政によって決められた人数は確保できているが、一人も余分な休暇を摂れないような状況では、その内に職員の心的・肉体的疲労感の蓄積により退職に結び付きやすい現状がある。職員にとって働きやすい環境と良好な人間関係が確立された職場こそ「働いてみよう!」という気持ちにさせるモノと信じている。もちろん働く以上は、それ相応の金銭的な課題も満たさなければならない。我々、介護の現場で一番の弱点と言われる低賃金の問題。これには、経営者としても頭の痛い問題である。先の震災以降、操業に問題を抱えて運営規模の縮小を余儀なくされていた自動車産業もここのところ、運営の復帰、拡大をもくろんで事業拡大を推進し始めた。期間労働者の採用枠の拡大は、そのまま介護の世界に流れていた労働者の流れが一気に喪失してしまう現象に変わった。今では、鈴鹿市のハローワークでも、介護職を求める労働者の数は日増しに激減している。これには就労に対する金銭的な保障額の問題が大きく関わっているのである。我々の職員に支払える給料は、全てが介護保険の給付にかかっている。働く量に応じてではなく、利用者の要介護度に応じて決められた金額を利用日数に応じて支給を受ける中で、給料の支払いを行っている。この体質は悪く考えれば、利用者の受けるメリットの量と質ではなく、時間単位で預かるだけの暇つぶし機関であっても同額の給付しか受けられない。
この点について、何も活動のない又は利用者の言いなり介護や甘やかし介護を実践して、単なるゴマすり施設でも、必死に高齢者の機能回復を願って活発に活動を繰り返す施設であっても変らない評価しか受けられないのは大きな差別であると考えるが、そこは良識ある家族又は夢と希望を捨てきれない要介護者の選択権と市場原理を利用して、より良い施設を選んでもらえることが提供するサービスの質の向上を生み、事業所の繁栄を生む要素となると考えるべきだろう。
僕もあと少しすれば、このような外部サービスに依存する高齢者の一員となる時が来る。僕のような我儘で自分勝手な理屈をこねる者は、このようなデイサービスでは嫌われる。そんな僕でも、なんなくこなせるだけの技量を蓄えた介護職員の居る施設に自らが太陽の家を育てていかなければ、僕の老後は悲惨である。
職員の皆さん、こんな勝手な僕です。よろしくお願いします。
僕が最近定期購読している月刊誌に「レオン」というファッション雑誌があります。7月末に発行された表紙のタイトルが、ブログのタイトルの同じ、イタリアンなちょい悪オヤジがもてる!と言う見出しが大書きされているのです。その雑誌を僕の仕事場のデスクに置きっぱなしで席を外れていたのですが、その間、僕が席をはずしている間に、事務所の中では職員さんの、その大書きされた雑誌のタイトルが話題になっていたようです。つまり、僕の目指すちょい悪イタリアの親父ファッションと、僕の第三者から見た印象のギャップについての話題だと思うのです。要するに、目指すイタリアのちょい悪オヤジは、僕という人物を普段から見続けている職員さんには、大きな食い違い・・・?思い違い・・・・?独り善がり・・・・?まあ、何でも悪口なら、すべてが当てはまると言う状況だったのでしょう。 その時の職員さんの話の内容は、次の僕の行動ではっきりする事となったのです。
僕は外から戻り、事務所に無言で入るなり、大きなゲップをしたのです。決してお行意義が良い行為では無いので反省はするのですが、どうも今日服薬した薬の影響かしら・・・?! 部屋に入るなり不謹慎にも「げぷ~っ!」とやってしまったのです。それを事務所の皆が大笑いしながら指摘するのです。イタリアのちょい悪オヤジ、それもモテルオヤジを目指す人間のする行為か?と言う訳なんでしょう。するどくケアマネの加藤に指摘され、とてもバツの悪い思いをしていたのでした。
当然、女性にもてるイタリアンなちょい悪オヤジは、人前で決してマナー違反な行為はしませんよね!!!これは、完全に僕の不覚でした。外見だけファッショナブルに着飾っても中身が伴わなければ、近鉄特急にのってくるマナー違反なオッサンと同じですな!このおっさん達は質が悪い。僕の座る席のアームレストに後ろの席から足をのせてくる。一日中歩き回って汗をかいて、革靴の中でムレムレのオッサンの足は臭い!その臭い足を、人の座っているアームレストにのせてくれば、当然、座っている僕には臭い足の臭いがもろに僕の鼻に伝わってくる。こんな輩と同じ行為に、人前でのゲップも同様ですね。
いやあ~そう考えると、猛省です。明日からは見た目も、中身も、イタリアンなちょい悪オヤジを目指していきます。
今日の業務終了時からデイサービスの職員さんを対象に料理教室を開催!今日はイタリアン料理の中でも両極端である冷製パスタとカルボナーラの二種を作りました職員さんの子供さんも交えて、簡単なイタリアンを皆で作ってみたのですが、やはり大勢のパスタをゆで上げて、ソースと絡めるのもなかなか難しいのです。特に塩加減が難しく、一部のパスタ。特に冷製パスタの場合、塩加減が難しいですね。職員さんにはバケットを添えて出来たてのパスタを食べ比べてもらって、色々な批評を聞か施てもらいました。
次はペペロンチーノを作れ!と、早くもリクエストが入り次回の開催に期待がかかってしまいました。ペペロンチーノはシンプルなソースだけに、火加減とタイミングが重要になるので、それこそ大勢のペペロンチーノを作るのは難しくなります。まあ、でも、皆と一緒にワイワイ言いながらパスタを造るのも楽しいですね。
今回はデイサービスの職員で開催しましたが、出来ればグループホームの職員さんと一緒に料理教室を開催しますね。
ちなみに、最初に掲載している写真は、うちの職員さんの子供さんの写真です。かわいいでしょ!
今日の夕ご飯は、久しぶりに外食をした。イタリア料理の全国チェーン展開を行っているファミレスに行った。久しぶりに出かけた外食だが、この店の商品価格の設定に改めて驚くと同時に、どうすればこれほど安く食事を提供できるのか?不思議に感じた。パスタ一人前が400円弱。ピザなんて500円まで。一般的なファミレスの価格の半分程度。高級イタリアンレストランの価格の5分の一から10分の一と言った単価である。もちろん、一人前の量は若干少ないし、ピザにしてみれば一人前よりも小さなサイズだ。それでも充分なカロリーと味付けではある。
ウエイター、ウエイトレスの対応の仕方が悪いわけでもない。それなりにしっかりとトレーニングされており好感が持てる接客である。お客様の入れ替わりに対応する能力も、そこそこ出来ている。何かにつけて申し分ない。可もなく不可もなく!ってところは、全国展開するだけにしっかりとポイントを抑えて運営されていると感じられる。
それで、何が問題か?と言えば、食の安全にはどの様に対策がなされているのか?である。巷ではO-157などの感染症の流行や放射性セシウムの残留量が問題となる時代である。また、一頃には中国産野菜に残留する農薬が問題となったときもあり、安全な食材の確保にどのような配慮がなされているのか?を心配する。まあ、どうせ、市場に出回っている食材には多少なりとも放射線やセシウムなどの有害物質が含まれているわけで、どんなに厳選したとしても安全な食材に行き着くのは難しい世の中かもしれない。そう考えると、この店で提供される食材ばかり、安価と言うだけで安全基準を満たしていないのではないかと疑うことは不適切である。
ここまでのコストダウンを実施するには、それなりの一元化や調理工程の簡素化などの努力が求められ、実際にこのレストランでは調理自体を誰でもできるように、ある程度の段階まで工場にて一括製造加工し、Pre-Cookの状態で各店舗に配送されるようなことをテレビのドキュメントで放送していた。現代の冷蔵、冷凍技術や保存、保管、輸送技術の進歩がこれら食品の一括製造を可能とし、その分の製造コストや人件費の削減を可能としてきたことが大きな要因として低コストでの食品の提供を可能としているようである。
ただ現代人の我々は、昔に比べて身の回りの衛生状態は非常に良く管理されていて、そのことが逆に微弱なウイルスに対しても抵抗力がなく「脆弱性」が、なんの変哲も無い雑菌によるパンデミックが危惧される時代である。ウイルスが目に見えるものではない以上、食材の選択には厳重な注意が必要だと感じた夕食だった。そして、今日の僕の夕食は、それだけで一日分の摂取カロリーの制限である2000Kcalを軽く越えていた。セシウムやO-157を心配するよりも、自分が摂取する量をコントロールするほうが先だろう!と言う結果になりそうである、
今日の職員会議の席上でマイナス・スパイラルの話を持ち出した。僕にすれば、人生、ギャンブルのようなもので、一寸先は闇だ!って、何かの映画のセリフのようだが、実際問題、人生って本当に先は分からないものだ。何が要因となって人生を下り落ちるのか?何が功を奏して立身出世があるのか?その人の運命を左右させる行動とは?なんて事を考えていたら、僕はこの事業に関わる職員のすべての生活を維持するための責任があり、同時に職員さんは、この事業がしっかりと利益を持って運営できるように不安の業務に精を出してもらいたい。そう考えると、職員さんには常に心身ともに健康で居てもらわないといけない。
職員の心身ともに健康を維持するためには、ある意味、自分を律することも考えなくてゃいけない。自らを律すること。つまりは「自律」と言う点で、マイナス・スパイラルに陥りやすい人生を如何にプラス方向へむけ、自分の生活や人生の質を向上させるのかを真剣に考えてほしいのです。多くの介護職員さんは子持ちです。子供が居ると言う若いお母さん達なんですが、やはり子供を生むと同時に子供に対する大きな責任が生まれるのです。子供を育てると言う行為は非常に難しく、並大抵の努力では子供は成長しません。子供が大きくなると言うことと、成長と言う意味は、まったく異なる意味があります。教育もしつけも無く食事だけでも与えていけば子供は動物と同じく体が大きく成長はします。しかし、体ばかり大人になり、精神や知能は、教えなければ製r長は無いのです。お母さんもお父さんも若くして子供を授かると、得てして子供の存在が鬱陶しくなることもあり、若年層の両親により虐待やせっかん死、そしてネグレクト(育児放棄)が目につきます。
アクシデントで子供を授かったとしても、授かった子供には人格も感情もあります。痛みや苦しみ、悲しみも感じます。僕は不幸にも子供が居ません。子を持つ親の煩わしさには縁遠いのですが、逆に子供の成長の喜びを知る術がありません。子供が居れば・・・と女房は時々こぼすことがあります。人間がマイナススパイラルに陥ることに、なぜ子供の存在が関係あるかと言えば、子供を育て躾ていくことは大変な作業です。しかし、それなりの責任をもってしっかりとkどもの将来を見据えて日々の生活に一生懸命な家庭に不幸な話は無いといえるのです。何事にも自暴自棄にならない毎日。そして大切に子供を守る親の姿に子供は愛を感じ、親をいつくしむのです。気が向いた時に可愛がり、気が向かないと食事さえ満足に与えて貰えないようでは困ります。世の中、まだまだ愛情をしらないまま育った若者が多い日本です。政府の子供手当の額や社会保障の額に左右される育児保障の充実よりも、子供を持つことに対する倫理感の育成にもっと努力をする必要があると考えています。
貧困からの脱出。社会保障が行き届いた日本の国です。貧困と言う感覚さえ感じることができない時代背景があります。しかし、僕は精神的な富を考えると日本人の精神はとても貧しい。どんな金持ちの社会的立場の高い人にしても、とても貧しいものの考え方の人が多いのは非常に残念です。