(全写真提供;Yahoo.japanウイキペディアより転用)
国民の祝日というテーマと交通渋滞の写真の関係性は、少し的外れなところもあるが。とにかく、僕は今回のゴールデンウイークとやらの長期連休ってのが大っ嫌い!アメリカから帰ってから以降、僕は、これらの連休ってのを楽しんだ覚えがない。常に連休中は仕事として、サービスの提供にあたっている側に属し、連休の交通渋滞を満喫(?)する余裕すらない。そうして今も爺さん・婆さんのお世話に明け暮れている。
交通渋滞は世界のいたるところで発生しているので、車が多いから連休という長期のお休みが嫌いというだけの理由には当たらない。企業で働く人々にとって、生産ラインの効率性から一斉に休みをとって生産ラインの調整を行うってのも理解できる。普段から寡黙で、自己主張の下手くそな日本人だから、それとも団体の中に生きる者として共生理念を自らの勝手に打ち破る「遠慮」としての感覚からか、日本人はバケーションの申請を出す術を知らないからか、欧米人のように自分に与えられた権利の行使がうまくできないでいる。だから、国民の祝日として「決められた日」に、国民がこぞってお休みを得ることとなる。
行楽地や高速道路などには、車で移動する国民によって大渋滞をもたらし、公共交通機関に至っては満車率200%などと冗談のような話が、あちらこちらのニュースで話題となる。車社会の日本、おまけに国土も狭く、その分道路も狭く、言った先々の駐車スペースも限度ある環境では、渋滞しない方が不自然である。ネット情報や雑誌に取り上げられたスポットには、お年寄りも若者も集まりレストランはもとよりトイレにまで列ができる始末。休日とは、普段のハードなお仕事の骨休めとして英気を養う場面であるはずが、家族サービスまたは恋人との良好な関係維持に、行楽に行く段階でストレスいっぱい、疲れ果ててしまう現状を考えると、果たしてこれで良いのか?と思ってしまう。
確かに人ごみのない行楽地やレストランってのも、何かと不自然極まりないと言うか、暇すぎる場所ってのも面白みに欠けるのも事実ではある。しかし、毎日が東京ディズニーランドの中のような人ごみは、提供されるサービスの点で多少の疑問も感じる。猫の手も借りたい状況ってのは、商売人として冥利に尽きる。しかし、そこで行われる作業が通常行われる100%のサービスが保障されるかと言えば疑問でないか?十分な準備はされているものの、忙しさにかまけて削減されるものはないのか? そこには、忙しさのあまりつい!手抜きが・・・という点も無きにしも非ず。ではないか。
国民の8割が休暇を楽しんでいるにもかかわらず、なんで自分は働いているのか?という嫉妬心が皆無と言うわけでなく、すこしは妬みも含まれてはいるだろう。しかし、それでも、この国民性、何とかならないものだろうか・・・と常に期待している。僕はまだ経営者として、この間に商いをさせてもらえる以上、文句のつけようがないが、しかし、介護に携わる者たちは、祝日だからと言って長期の休みを取るわけにもいかず、嫌でも爺さん・婆さんのお世話に出てこなければいけない。かく言う爺さん・婆さんにしても、この連休中は家族の休暇から置いてけぼり。デイサービスと言うよりショートステーの稼働率がアップする。そんな現状に、日本人の気質にちょこっと首をかしげたくなるのである。
トヨタのコマーシャルで(・・・僕の話題ってテレビの話題が多いなあ~と自分でも思う。よっぽどのテレビ好きなのか?どうなのか?・・・)、北野武氏とジャン・レノの登場するコマーシャル。あのCMの大半は、僕には意味が分からない部分が多いのだが、唯一、トンネルの中を走行している車の運転席のたけし氏が、つぶやく場面。「トンネルの出口だ!」につなげて、ジャンレノが「未来への入り口でしょ!」と言う。そして、ドラえもんの何処でもドアのどちらが入り口で、出口?の問いに、「どっちも!」と答えるドラえもん役のジャンレノ。この二つが面白い!
Fly Me to the Moon、 And let me play among the stars
Let me see what spring is like on jupiter and mars.
In other words, Hold my hand
In other words. daring,kiss me!
苦しみ、悲しみ、辛い毎日も、一夜明けるまでもなく、今、生活している場面がすでに未来の入り口と考えることができれば、気持ちはある程度楽になる。入り口か?出口か?この辛い時が、どれほど続くのか?という問いかけに絡めて考えれば、ドラえもんの何処でもドアってのは、いつ、どのように通り抜けたにせよ、そこには新たな一歩を刻むことにつながる。人生、長いようでいて短い。明日をも知れない人生であれば、その時、その瞬間を精一杯生きて、生き抜くことが、ドラえもんの何処でもドアを通り抜けた瞬間ではないか・・・と感じるから好きなんだ。
自分たちの歩いたステップは、足を動かす瞬間から「過去」と変わっていく。自分たちが歩を進めるたびに後ろを振り返らないように、私たちも過去を気にせず、常に前向きに一歩一歩、確実に前進することを目指していくしか方法はない。そこで色々と不必要な懸念や心配事を考えたとしても、それはすでに過去の産物となり得る。過去を振り返らない。自分の思う道を自信を持って前進すれば、いつかはマイナススパイラルから脱することが可能となるのではないか・・・・!
貴方の住み慣れた街はどこですか?って聞かれて、「サンフランシスコ」って答えたら・・・ちょっとオシャレでしょ! 事実、僕の青春時代は、サンフランシスコにある。別に自慢するわけではないけど、添付している写真、両方ともサンフランシスコに通ずる有名な橋である。赤いブリッジはゴールデンゲート・ブリッジで、もう一枚の大きい方がベイブリッジと呼ばれ、サンフランシスコとバークレーを結ぶ橋である。この橋の真ん中にトレジャーアイランドと呼ばれる島があり、アメリカの海軍施設として使われている。一般の者も、この島の一部に入ることは可能で、そこからの夜のシスコの夜景は絶品である。ゴールデンゲートからは、湾内に浮かぶアルカトラズと言う小さな島があり、その昔アルカポネが収監されていた有名な監獄の島が見える。そして、橋を渡りきると右手にサウサリートと言う小さな町があり、アーティストが多く住んでいる。シスコって町は、有名すぎて説明が不要なほどの街であって、そんな街を夜を徹して徘徊していた青春時代。あの頃は、横着というか若気の至りというか、夜の街で遊んでいても恐怖感はなかった。今、思えばかなり危ないことをやっていたものだと恐ろしくなる。観光客でなく、現地で生活する者として金はないし、高価な装飾品も持っていない貧乏学生の事だから、周りから見れば危ないのは僕らの放つ印象の方が危険だったのではないだろうか・・・。
そんな思い出話はともかくとして、僕のパソコンの壁紙にベイブリッジの写真を使っているのだが、自分が考え事をするとき等に、自然と見つめてしまう写真が、このベイブリッジの写真である。遠くにサンフランシスコ・ジャイアンツのホームグラウンドであるキャンドルスティックパーク(野球場)が見えたりして、とても懐かしく思え、その当時に目にしていた光景の中に自分自身が吸い込まれていくような気がするのである。僕が年老いて(もうすでに一歩、足が入っているが)認知症となったら、このような写真を見つめて、さも自分はシスコにいるような気分で、ブロークンな英語をつぶやいているのかもしれない。
自分の一番思い出に残る場所。そして、そこに自分の心が残されているほど、認知症となって自分の気持ちが平坦でなくなったとき、僕は自分をその思い出の中に溶け込ませて、そこのイメージの中に生存しようとするのだろう。サンフランシスコなんて、随分と長く離れているにもかかわらず、僕は現実社会で済んでいる鈴鹿を、不安な気持ちで眺めることとなるのだろう。きっと「ここはどこ?サンフランシスコではない!」と不安な気持ちで、周りの者たちに訴えかけているはずだ。
人にとって、一番良かった時代。それが幼少のころであれば、その頃の自分に戻ろうとする。それは、自分で自分が見えなくなってしまい、その理由も原因も分からない自分を不安に思うとき、そんな時が人は自分を守るために他人を傷つけようとする。他者から見れば「問題」である。この認識のずれが介護を難しくしている。ここで説明すると、客観的に問題とされる点が、その人の行動であり他人に与える危害などの現実行動である。しかし、本人にとっての問題は、今の自分がどこにいるのか、サンフランシスコと思ってはいるけど、周りの状況が似てもにつかわない環境にい面食らっているわけで、その問題意識をしっかりと介護する側が理解してくれて、それなりの安定を図ってもらえれば精神的に安定を促すことは可能である。
認知症の人。その人の人生観、生活歴、病歴や人格などが、殊更介護に重要な要素となる点、少しは理解いただけただろうか?
羽田空港でのショット。 何の図柄がデザインされているのかは忘れたが、とにかくド派手な飛行機が飛び立っていった。
これも羽田空港のスナップショット。オブザーベーションから見た駐機中の787機。期待不良で空を飛べなくなる前の画像だから、結構古い写真であるが、あの当時は787にあこがれをもって眺めていた。飛び立つときの主翼のしなりや、いろいろな部分でとても興味があった。
これはセントレアの駐機場でのスナップショットである。飛行場ってどれも同じように見えるが、これでいて結構、その場所によって特徴がある。滑走路の向こうの景色や駐機場にあるゲートなどの様子が、それぞれの飛行場によって顔が違う。写真では伝わってこない、ジェットエンジンの音や轟音、カーゴ車両の走る音など、いろいろな音が聞こえてくる。いつも、飛行場に行って、飛び立つ準備が整った飛行機から順にエンジンの高鳴り、専用車両によって押し出されていく飛行機を眺めていると、今にも自分もどこか遠くに旅立とうとしている気分になれる。美香氏の僕のブログでも書いたと記憶しているが、その昔、サンフランシスコで生活していたころ、ホームシックとなって家を思い出すと、飛行場に行ってはボーディングゲート近くの椅子に座って飛行機を眺めていたことを思い出す。
飛行場には色々なドラマがある。喜びも、悲しみも、エクサイトメントも感動も・・・あの鉄の塊が空を飛ぶなんて・・・と言う方もいるが。僕は、あの流線型の機体と天高くそびえる尾翼を眺めていると、本当に美しいと感じてしまう。飛行場を鑑賞するには、井丹空港のオブザーベーションが面白い。旅客ターミナルとは、滑走路をはさんで反対側に滑走路沿いに設けられているオブザーベーションは飛行機の理発着を眺めることができる。それこそ、飛行機好きにとってみれば、お弁当を片手に一日中でも飛行機を眺めて過ごせる、格好の場所である。