


最近、自分の書いたブログを読み直している。2009年から始まったブログ。ブログの更新回数も1000回に近くなってきた。遠い昔のような気がするけど、実際の年月の過ぎ去る速度は、本当に早いものである。最初の一ページから読み直してみると、微妙ながら年を経るごとに、文章が少しづつ変化してきている。
最近は、読み手を意識して書いていることが想像できるような点で、以前のような荒削りなイメージは薄らいできている。良いのか悪いのか?は、読み手の好みによるけど・・・しかし、相変わらず書き下ろしの文章には誤字や脱字、つながりの悪い文章は継承されている。
良いところが継承されるならまだしも、悪いところが改善されずに維持されるって、どうなの・・・?
それと、僕のブログを書く行為ってのは、これでいて結構自分のためにも役立っている面もある。つまり、公言してしまうことで達成しなければいけなくなる。(まあ、禁煙はそうはならなかったけどね・・・へへへ)目標設定というより、行動自体がブログに書き込むことにより、矯正されていくこともあるということ。認知症の人への理解に関しても、僕は呼んでくれる介護職員さんに話すように書いてはいるが、結構これでも自分自身の考え方の確認を行っているのです。
また、職員さんへの想いってのも、ここに冷静な気持ちで書き込みながら、スーパービジョンを実践していることもあるのです。
インターネットを使ったコミュニケーションってのは、単にメールだけではなく、このような公の場において意見を述べることにより達成される場合もあるのです。逆に、このような媒体を利用して、悪用することも簡単に可能としてしまう。そういったデメリットも存在はするのですが。
昔、日本福祉大学で学んでいる頃、学生の間でネットを使った交流サイトがあって、その交流サイトでいろいろな体験をしたわけです。時に、言葉は文字になると勝手に独り歩きし、誤解を招くことも多くあった。文字の使い方の難しさは、その時に学んだのだが、しかし、今でも文字の扱い、感情のコントロールでは、学び切れていない、そんな経験を今でもしている。
後悔先に立たずです。
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太陽の家では、今、介護職員さんを募集している。そして、それなりに結構、多くの方々に気にしていただいてるようで、ハローワークで求人を知ったとか、友達から聞いたから、と言いながら面接させてもらう事が多い。
そして、面接の方々に聞くと、皆さんがうちのホームページを閲覧して、イメージをつかんでもらっているようである。多くの方が、ホームページのスタッフ紹介のページや僕のブログを読んでもらって、それなりに働きやすい職場という印象を持ってもらえるようである。
そんな言葉を聞いたので、と言うわけではないが。これから介護の業務に就こうとしている人たちにアドバイスをさせてもらえば。
介護の仕事ってのは、誰でも資格なくスタートはできる。しかし、なぜ、資格を求めるか?と言えば、それだけ専門性が高い業務だからである。この業務はロボットではできないのです。心のこもった人間でないと出来ないから、だから仕事しながらでも、いろいろと専門性を学んでいく必要がある。
次に、臭い、キツイ、汚いってのは嘘!今どきの高齢者介護って、言うほど臭くない、汚くない、きつくない!それは、介護保険制度の始まる前の措置の時代の、日本の高齢者介護の暗黒時代のことである。まあ、確かに排せつのお世話などはしなければいけないが、それとて、毎日日課のようにウンチまみれの業務ではない。これこそ、排せつは人間の一番重要な機能であり、これさえも専門性が要求される。つまりは医学の片割れのような次元の話なんだ!
そして、給料の問題。確かに給料は製造業などに比べて少ないかもしれない。しかし、単に金額だけの比較で多い少ないと評価していいものだろうか???僕は、それはそれなりに、資格を取得し、それなりに経験を積んでいくことでベースアップは可能であると考えている。でも、お金が必要と考える人は介護の仕事は、確かに向いてないかもしれない。お給料と仕事(やりがい)をどのように捉えるかによって変わってくるよね。
さて、次に、このホームページを見てもらって「イージー」なイメージを抱く人へ! 太陽の家は、それ程簡単な職場ではないことは言っておきたい。甘くはない!とても厳しいよ! 先日も職員の一人を泣かせている。私たちは人の命を預かっている。その立場をと責任を忘れて、なんでも良い!と、見過ごすことはできない。認知症の人が幸せそうな顔を表現できるように、そこで必死に努めてもらえない職員さんにはカツを入れる。
間違いは指摘する。学んでいただく。改善していただく。そして、良い介護には褒めて、さらにステップアップできるように支援する。この職場は人生道場のようなものである。
運動機能を維持するためリハビリを!と、認知症の人を口説いているリハビリ師。そんなものいらん!と断り続ける利用者。この様子は見てて面白い。リハビリ師は業務として利用者に問いかけ、利用者は必要性を認識できずに断り続ける。マッサージやリハビリやそんな言葉には、ずべて必要ない!と断る。
あの手この手と利用者は、笑顔で断り続け、挙句の果ては「私は、まだ若いもん!」と仰る。90歳にあと少しという年齢でも、まだまだお若いのである。少女とまでは言わないが、そこそこ若いつもりでいる。まだ独身・・・?!(・・・になった!)
それはそれで、とても上手に(上手と言う表現は不適切ではあるが、本当に誰に危害を加えるわけでもなく、そこそこ自立状態を保ちながら、記憶の中抜け状態は、認知症の状態としては理想的な状態といえる。その意味で、「上手に」という表現を使っている)年齢に応じた状態が維持されている。
人によっては、いろいろな問題を引き起こす方もいる中、認知症にも色んなタイプが存在する。今日のこの話題の主は、少しばかりお腹がすいていた。空腹感が虚脱感になり、空腹を強く訴えることはないが、体を動かすことに抵抗したくなる気持ちになったんだろう。
柔らかくリハビリを促すリハビリ師は、肩もみをしましょう!と誘いかけ、結果的にはリハビリを実施することができた。
この婆さん、リハビリから戻るなり、周りの利用者に「な~んも、気持ちよ~うなかったわ!」と笑顔で話していた。
認知症の婆さん、新人職員たちが「かわいい~・・・!」と寄り添うのは、こう言った婆さんの事を云うんだろうね。しかし、可愛い・・・だけでは、介護はできないわけで、なんとか利用者の気持ちを動かさないと、それこそ、体中の関節が固くなって動かせなくなる。ってことを、考えてももらいたいね!新人職員さんたち、お願いしますよ!
今日は鳥羽に行ってきた。
朝から鳥羽市の企業さんへ、この9月に開催するフォーラムの協賛をお願いしに行ってきた。同時に鳥羽市役所を訪問し、市長さんのフォーラムへのご出席依頼を行ってきた。
徐々に、フォーラムの外枠が形作られてきたが、それと同時に大きな責任が膨らんでいくような気持になった。
来月は、講演をお願いした講師の先生方とのすり合わせもかねて上京する予定である。
何にしろ、学びの場を創造するには、本当に多くの努力を必要とする。準備の量と質によって出来上がりが変わってくる。これは、何をするにも同様。準備に手抜きがあれば、その分の評価が結果として現われる。どれほど熟練したものが、慣れ親しんだ内容を講義するとしても、慣れに甘んじると必ず失敗する。
僕自身もまた7月下旬に、認知症介護における人権と接遇について研修を行うこととなった。あと2か月しか準備期間がない。非常に厳しい時間の猶予しか与えられていないが、これから、しばらくは研修内容について準備していかなければ・・・と考えている。
介護の業界に限らず、今の成人と言われる人たちの知識の泉に変化が見える。
それなりに高学歴、知識豊富、しかし、一般的な生きる術ってのにとんと疎い。
新しい技術革新でいろいろと便利なツールが普及し、ハイテクニック機材など、私たちのようなアナログ人間からすれば、とてつもなく使いこなすに困難なものに対して優れた能力を有している。
しかし、掃除の仕方を知らない。洗濯機の使い方がわからない。濡れタオルを絞れない等。掃除の仕方と言えば、掃除機のスイッチを入れるだけの知識。ヘッドをどのように動かして効率よくゴミを吸引させるかが分からない。洗濯機は、洗剤をどれだけ、何処に入れて、洗えるものの区別を行い、適切な方法で洗濯機を回せない。
濡れ雑巾をしっかりと両手で絞れないから、雑巾がけは床全体に水を塗布する状態。おまけにシッカリ絞り切れていない雑巾を干し、おまけに雑巾は四隅をしっかりと引っ張り、表面のしわを取って干すことができない。だから、いつも洗濯物が乾いている姿は乾燥させた昆布のような状態。
社会人として、どうしてもアナログ的作業が今なお求められること自体が、彼らにとっては理解できないのかもおしれないが、生きていくうえですべてをハイテク機能に頼って生きていくことはできない。
子供のころから、何もお手伝いを体験させずに、勉強一途で育て上げられた子供たちは、そのまま勉強以外の何もできない成人を作り上げてしまったようだ。
このような世代に介護の基本を教えることは難しい。
まずは、一人で生きる術を教えないと。