太陽の家

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ブログ-施設長の部屋

2010/8/20
自分流の高齢者福祉

自分流の高齢者福祉、なんとおこがましい言葉! 自分を分かっての言葉か?と耳を疑いたくなる言葉であるが、実際に太陽の家では、この「自分流の高齢者福祉」を進めている。

進めている!という言葉も、若干の補足説明が必要ではあるが、つまりは、私たちの太陽の家で実践される高齢者介護には、自分流と言われる、色々な高齢者に対する思い入れを大切に介護に役立てる事を重視しているということである。ただ、誤解の無いように補足すれば、自分流とは、個々の職員がバラバラでちぐはぐな、不定量の介護を実践すると言う意味ではない。私の考えかたは、運営理念に掲げるとおり、太陽の家の中心的骨格を形成する大切なものであり、誰がなんと言おうと曲げられない究極の福祉論である。しかし、理念だけでは、高齢者にとっては絵に描いた餅。夢と希望だけ与えられても、現実が伴わなければ意味が無い。其の絵に描いた餅を、実際に食して満腹にしてしまうことが出来るのが、其の理念に沿って育てられた、色々な福祉に対する職員の想いではないかと考える。

職員の知識、スキルや経験値は、それこそバラバラで、皆が同じ技量、スキル、知識と経験値を持って介護を実践できる施設はすばらしい施設だと思うが、おそらく日本全国を探してもそのようなパーフェクトな施設は存在しない。存在しないばかりか、逆に全国的にもこの業界で名前を売った超カリスマ的管理者、施設長の居る施設でさえ、虐待や身体拘束が行われていたりする。そのような日本の高齢者福祉、歴史自体が浅く、介護保険制度にしても10年経ったばかり、社会福祉にしても第二次世界大戦以降に本科悪的に試行錯誤を繰り返すにすぎない。そんな歴史しかない分野。社会保障や高齢者介護自体、国民全体に理解されているのか、甚だ疑問に思うのである。

福祉の現場に働く者にしても、私同様、一夜漬けで勉強してきたような輩も多く、その物の考え方も千差万別であることは、仕方ない事実であろう。そう考えるとき、太陽の家に10人の職員が居れば10人色の自分流があっても良いではないか!という考え方に至るのである。ただし、皆の考える自分流は、全員の最終目標、理想とする姿は同じであるべきであり、其の到達点までバラバラでは、これは歪な不安定な介護としか言えないのではないか。そこで、少し荒っぽい言い方かもしれないが、太陽の家で働く職員の全てが方向は同じであったとしても、考えかたは自分流であっても良いのではないかと考えている。色々な視点があって、色々な経験値があって、そこに生まれる支援方法がまちまちであることから、より高度なコクのある(料理じゃないけど)介護が提供できるのではないかと考えている。そして、組織体として高齢者福祉を実践する以上、意見交換は充分行うことが求められる。意見交換とは、一方的に言い分を聞く傾聴路線ではなく、意見を戦わす路線であるべきなのは言うまでもない。

熱い気持ち、相手を包み込むような思いやり、同時に鋭く切り捨てることの出来る決断力が高齢者福祉には絶対に必要な要素であると考えている。

僕は、タダ単に必要なものを必要なだけ与える、ばら撒き的福祉には異論を唱えるものである。今の日本の福祉からも10年後、日本の65歳以上の人口が3人に一人の割合で増加したときに、今と同じ介護サービスを増税抜きに確約できるのか?と考えるとき、自然とばら蒔き福祉に終止符を打たなければいけなくなる。今よりも在宅で、家族の力を優先に、自立支援を目指して!と言う強烈なスローガンの下、必要性に対する審判がより厳しく、またサービスの供給主に対する評価も厳しさが生じてくるはずである。誰でも手を上げて指定を受ければ金が入る、今の日本の福祉社会ではなく、現物の質、量共に今以上のモノを要求される時代はすぐそこに来ている。非常に極端な理論で日本の福祉を見ていると考えれなくも無いが、僕は、太陽の家の職員さんには、自分流の福祉理念をいち早く形成し、自分流に切り込んで、将来的に起こりえる福祉クライシスに対応できるよう、今から備えを築いていってほしいと願っている。

2010/8/19
ネット環境の悪化からブログ更新が出来にくくなっていました。

ここ数日間、ネットに一切コネクトできないトラブルがありました。奥の手として、無線ランを使ったのですが、送受信容量が小さく、なかなか重いデータをおくるには時間がかかり、其の分、ブログに写真を貼り付けて公開するなんて作業が滞ってしまいました。原因は、自宅のルーターの電源が外れかかっていただけと言う単純なトラブルでした。電源を抜いて、10秒後に再び差し戻したら、無事にネットにコネクトできました。やれやれ!と言った感想です。

 インターネットのある生活に慣れてしまうと、インターネット出来ない環境に非常に不安感を覚えます。どうしても、社会から隔絶されたくない感覚が強いのでしょう。ネットはイコール、社会ではないのですが、意外と自分の生活の一部と化して、こうやってモニター画面を見つめながらPCと戯れる時間が大切に思えてくるのですから、慣れとは恐ろしいものです。

 さて、ネット環境が回復したので、ここで最近の短縮言葉について書いてみたいと思います。

 皆さんは以下の言葉の意味がわかりますか?

 『かいべん』・・・・・・・快食、快眠、快便の快便ではありませんよ。

 『とりび』・・・・・・・・・・ブラッドピットをブラピと短縮して言う人も居ますが、人の名前では有りません。

 答えは「かいべん」=購入した弁当 (買い弁)

     「とりび」=とりあえずビール  居酒屋やレストランで最初に飲みたい飲料として、他の何よりも、まずはビールと言う意味らしいです。

 最近の困りごとは、これらの短縮言葉を年老いた年代の者(私を含めた中年のおっさんも含め)が、若者に阻害されることを恐れ、率先してこれらの短縮言葉を使い始めた点です。若者たちに嫌われたくない感情なのか、それとも自分を若く見せたいのか・・・?その理由はいろいろです。しかっし、日本の言葉として、僕は関西弁のイントネーションが好きです。言い回しも独特のやわらかさを含んでいるように思えますが、これらの日本古来からの言語が、今の若者世代に、ことごとく無視されていく、そんな現代の日本語に対して危惧感を持ってしまうのです。最近では、ごくごく一般的な日本語すら、めったに聞けない社会。これから先、どうなるのでしょうか?

2010/8/17
急な発熱。

 本当に急な発熱で、初めての体験で驚いています。

 昨日は昼一番で、デイサービス利用者の皆さんに、「便秘」について面白おかしく解説し、其の予防を説明して、結構自分では意欲もあったのですが、夕方から四肢の関節に抜けるようなだるさを感じ、少し普段と違った違和感を覚えました。しかし、特に他に目立つ病気の兆候も無く、そのまま夕食を作って食べたのです。夕食後にテレビを観ていた頃から、エアコンの冷気が寒く感じ、急に身震いが始まり、体温を測ると38度を超えています。体中から熱りを感じ、表現として「体全体が膨張している」ような感じがして、そのままベッドに倒れこんだのですが、やはり寒い。手持ちの解熱剤を飲んで、偶然冷凍庫にあった食品用の保冷剤をタオルにくるんで頭を冷やして寝ていました。

 今朝まで熟睡は出来ず、夜中に何度も目覚める状態でした。それでも、朝起きて朝食も食べ、少し気分も良く。出勤。病院に電話して診察をお願いして医師を尋ね、体温を測ると37.9度。「風邪ですね!」と言われ、薬をいただいて帰ってきました。

 そんなわけで、朝から出勤こそしたものの、そのまま一日休んでしまう結果となったのですが、処方薬を飲んで、横になっていたら夜の8時まで寝てしまいました。それ程、体力に不安は無いのですが、ここの所、暑さ続きの毎日で、エアコンの効いた室内とオーブンの中のような室外との温度差に体がついていけなくなったことから風邪を引いたようです。自分の中で「風鈴の会」に浮かれながら、若者たちとの交流を楽しんでいたのですが、やはり若者とすでに若者世代を終えた者との歴然とした体力の格差を改めて認識したしだいです。風鈴の会って、暗黙の年齢制限があるのだ!と悟りました。

2010/8/16
開店休業中の風鈴の会の風鈴が3個になりました。

新しい風鈴です。

この週末に新たに風鈴が二個増えました。二個とも100円均一ショップで探しました。 さすがに三個も並ぶと結構、騒々しくなるものです。今日は特に風が強く、裏口に出ると風鈴の音が入り乱れ若干、公園でなくセミのように、耳障り・・・・?!

日本古来の「お盆」、職員さんの一部は長期のお休みをとって実家に帰省する人も居ます。テレビの報道では、飛行場や高速道路の帰省ラッシュで渋滞などのニュースが聞こえてきます。私の実家は、同じ町内。帰ると言っても歩いていける距離。それはそれで便利ですし、渋滞の心配も無く楽ちんですが、ある意味、帰省する田舎が無いというのも寂しいと言えば寂しいものです。帰省を理由に、気分転換の旅行にも出れず、又今日も一日、この鈴鹿市に居ます。日中の蒸し暑さに耐え、お年寄りの介護に汗かいています。(汗かいていると、嘘をかいてしまいました!)

この夏は、9月に入っても暑い日が続くような長期予報がありますが、これだけ厳しい夏は、体調管理にいつも以上に注意が必要です。エアコンのお世話にならず窓を開放して、新鮮な秋の空気を早く吸いたいものです。太陽の家・風鈴の会は、長期休暇の職員によって、暫し開店休業の状態です。

2010/8/16
認知症特有の行動と対処

トイレットペーパーの固まりトイレットペーパーの固まりトイレットペーパーのコレクション

 認知症の高齢者特有のと書き出しましたが、紙が貴重な時代に生きた高齢者の方々は、人によっては認知症を患う中で、トイレットペーパーやティッシュペーパーを束ねる行為、それを大事に保管する行為、そして、保管してある事を忘れて、同じ行為を繰り返して、タンスや押し入れの中に偶然、大量の紙の束を発見する事がある。 うちのグループホームにおいても同じケースが見受けられた。紙に拘る気持ちは、そのまま、その人の生活歴に関係するが、そこには利己的な悪意は存在しないことを介護する側は理解しなければいけない。先にも述べたように、その人にとって『紙』は貴重品であると同時に、必需品である。そして、もしもの時の為に自分に必要な分だけ保管しておく必要性に、くるくると丸めて大事に保管しておく行為が、この事例にある行動です。

 一般的に家庭や一部施設において、このような行動を問題視する傾向があるが、この行動の元となる本人の気持ちを、もう一度じっくりと考えることで、問題となる要因の解決が必要と考える。例えば、太陽の家の利用者Aさんの場合、「不足」を非常に嫌う性格で、潤沢に物が溢れる生活を好まれる。常にトイレに行けば紙は用意されているものの、彼女の居室には「紙」は、人為的に必要分以外の余分は置かないようにしている。問題は、この点にあると考える。職員は、利用者が紙を隠す(隠すようにみえる)ことから、紙の無駄(・・・・視点を変えて、収集した紙の再利用先を考える必要がある)を防ぐ方向に考えがちである。

 必要最小限の判断は人によって違う、また記憶に障害を抱えたものと、そうでない者とでは当然基準に格差が生じる。この際、利用者の居室には、隠さなくても良い程の紙を表に出すことや、トイレットペーパーのロールの予備をトイレに準備する事。に徹することから、利用者の「紙の不足懸念」を払いのけることが可能と思われる。

 次に、このAさん、紙を細かくちぎって、ドアの隙間や窓の隙間に詰め込む作業を秘かに行っている。これについては、必死になってプライバシーを守っているのであり、決して隙間風が多いと言う理由では無い。グループホームは認知症高齢者の共同生活の場であり、1ユニット9名の利用者が個室ではあるが、共同の居間で過ごしたり、テレビを観たりして生活している。施設の廊下は、本人にとっては、差し詰め公道であり、居室が家の認識で生活している。実際は職員以外の他者が侵入することはあり得ない。しかし、彼女にとって、職員すら侵入者の一人なのだろう。介護するためと言いながら、何の許可も得ないで居室に入り、いろいろと着替えを取り出していく職員は、彼女にとっては文句も言えない高圧的な侵略者の一部と思っているかもしれない。

これを機に、グループホームの職員は、居室の扱い、入居者の感情についてもう一度考えてもらう必要がある。


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