今月29日の午後には、当グループホーム職員全員で夜間を想定した火災訓練を実施する予定でおります。最近発生した北海道のグループホーム火災による死傷者の報道を受けて、グループホーム太陽の家でも夜間は一人職員の体制で運営を行っており、火災事故は入居者は元より、職員自身も非常に不安であることと思います。今回の事故を教訓にし、太陽の家利用者の皆さんの命を守るために出来る限りの予防的処置は実施しているつもりです。例えば、つい最近では簡易スプリンクラーシステムの設置を行ったり、消防本部の立ち入り検査を受けたりして万全を期しているつもりです。しかし、これだけ万全な対応をしていたとしても火災は起こりえます。もしもの火災に際し、次に重要な課題として、「訓練」があります。火災訓練を通じて火災の場合の連絡方法、消火活動、避難誘導等を体で覚えることでパニックを防ぎ、冷静な対応が可能となると考えています。
実際、太陽の家では火災報知機、スプリンクラー設備等は存在するものの、これらの消防設備をフルに生かすためには、しっかりとした取り扱い方法の確認が必要です。今回の消防訓練には鈴鹿市消防本部より消防士に同席願い、一連の訓練を見ていただく予定です。また、訓練終了後に色々なアドバイスを頂戴するつもりです。
太陽の家では、火災によって入居者の命を奪うことの無いように職員一丸となって防災に努めてまいります。
昨日の黄砂の量は、今までにない量が降り注ぎました。ガレージに保管されている車両以外は全て泥水を浴びせられたように黄砂で真っ白(真っ黄色?)に汚れてしまったのではないでしょうか?太陽の家の送迎車両も自分の個人の車も全てが、見事に薄汚れ、みっともない姿になっていました。今朝から洗車の繰り返し、手洗いで7台を洗うのも疲れます。
また、今日は太陽の家玄関口を模様替えして見ました。玄関の自動ドアを入ってすぐに観葉植物が無造作に並べられていたのですが、別の場所(男子のロッカールームに入れられていたアンティーク家具を持ってきました。
鏡付きのドレッサーですが、随分前にアメリカから仕入れてきた家具です。観葉植物やテーブルランプをあしらって少しだけ模様替えをしてみました。夜、明かりを暗くした中で見てみると、結構、温かな雰囲気が漂ってきました。
56歳を過ぎ、今更学校もないだろうと思っていたのですが、今回、日本福祉大学に学んで多数の教授陣とお会いする中で、勉強の面白さに初めて気づいた気がする。この気づきがもっと若い頃にあったなら、今頃は自分の思い描いた道を歩んでいたかもしれない。または、また別の道を歩んでいたのかもしれないと思います。
日本福祉大学では、社会福祉を学んでいたのですが、その科目の中に世界の貧困と社会構造の関係や発展途上国における貧困問題等を研究する教科もありました。京都大学のその分野の教授を外部講師に講演を聞いたりしながら、資源消費量に準じた世界地図をみながら世界のバランスを考えたり、スウエーデンと日本の社会福祉の比較を学んできました。貧困問題は世界的に大きな問題となっており、武力衝突の根底に存在する問題でもあります。日本国内に於いても、貧困への連鎖という問題が顕在化しており、負のスパイラルとも言われ、貧困から抜け出す事の出来ない諸問題があふれています。
私の実践する業務は高齢者介護ですから、世界の貧困とはかけ離れたテーマともいえます。しかし、高齢社会の中でも人間の考え方や生き様が、高齢となって障害を抱えてしまった後に、少なからず影響を及ぼしているケースも珍しくありません。人間の一生は短いものです。長寿社会となった今でも、働ける(自分自身の能力をフルに発揮できる時間と言えば良いのでしょうか?)時間は限られています。今の私がその境地に近づいています。これから先に自分の知識を高めて、どれほど社会に還元できるのか?は、当然若い人たちに比べても残り時間は多くありません。また逆に「無駄」という解釈もできます。
社会福祉士の国家資格を取得して、今まである意味、目標を定めて一直線に進んできたものが資格取得と共に消滅してしまった感もあります。この間、自分の時間の大半はテキストを読むとか学校の試験の準備をするとか、常に机に向かう生活だったのですが、この3月15日の発表以来、とても手持無沙汰となっています。テスト勉強であれ何であれ、自分自身の生きる目標と言えれかもしれません。国家試験までの一年は、風邪をひいては時間の無駄等の一種独特の緊張感が存在しました。特に昨年の夏以降はケアマネの試験と社会福祉士の試験の連続で、体調管理に神経を使っていました。まぁ、そんな姿勢で臨んでいたわけですが、この期間、学べるものは何でも吸収しようと言う旺盛な感覚は、全てにおいて資格取得に起因しているのです。
机上の空論と言われるかもしれませんが、私には机に向かって福祉論を考え、文章にし、論じることが向いているのかもしれません。それでは、何のために資格取得を求めたのか?となりますが、まず一つの答えとして「憧れ」があったと思います。私にとっての社会福祉士は対人援助やソーシャルワークの専門職として光り輝くものとして映っていました。資格の名称に憧れたわけではありませんが、仕事として人間の幸福の理想郷のような輝きです。
全ての人が幸せになるために!と言うと大きすぎるのですが、人間の心理から、歴史的な背景から、多面的に幸福感とはなんぞや?といつも問いかけているような毎日でした。こんな日々を送らなくても良くなった日から、とても空虚な毎日を過ごしているようです。この年になって・・・というRegretばかりですが、自分のライフワークとして、次は大学院で福祉経営を学ぼうと考えています。
特に今のグループホーム業界、介護保険制度以降、営利法人の参入が認められ小規模施設の多くに営利法人の参入が見られます。そして、ここ一年の間にも数々の不祥事が露呈し指定の取り消し等の行政処分を受けるケースが増加しています。社会福祉を経営するということは?どうすれば高質な介護サービスを提供し尚且つ利益も追求できる事業経営が可能なのか?を探ってみたいと思っています。
今後、自分の資格を如何に社会還元できるか?もっともっと学びを広げて考えてゆきたいですね・・・!
まだまだ陽が落ちると肌寒い日々が続いていますが、太陽の家の裏庭には純白の木蓮の花が咲きました。木枯らしが舞う冬の間中、硬い蕾のまま寒さに耐えてほんの少し春の陽気が感じられるようになって、枝についた蕾がいっせいに開花しました。木蓮の花の寿命は短く、開花して一週間もすれば花びらは散ってしまいます。その後、新緑の芽がもぞもぞと芽生えて、太陽の光が強くなるにつれ葉っぱは厚く、色濃くなって大きな日陰を提供してくれることとなるのです。真夏の暑い時期に木蓮の木陰で本を読むと、心地良い風に頬をくすぐられ、優雅なひと時を感じることが出来ます。今年も、そろそろ、そんな季節の到来が近づいています。