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ブログ-施設長の部屋

2010/3/5
相手を敬う気持ち!

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今日は何だか眠れない夜を過ごしている。何度も眠るつもりでベッドに入るが、その度に言い忘れたこと、書き忘れたことが頭を横切り、また机に向かいパソコンの電源を入れてしまう繰り返しだ。

 さて、前述の他者を思いやる気持ちの中で、機械的な介護という表現をした。また、僕の大嫌いな水臭い、薄っぺらな介護について、もう少し説明をしてみたい。

 この業界に身をおいていると、色々な事業所の特色が見えてくる。そして、研修に於いても色々な事例を考える機会は多い。それらのなかで僕が一番嫌いなものとして馬鹿丁寧な敬語をつかった接遇の仕方である。極端な話、僕はグループホームの入居者のことを『ご入居者様』と言う表現すら嫌悪感を感じている。入居者は入居者であって、御も様も不要なのではないか?と思う。同時に、家族に関してもご家族様という表現が一般的であることに少しだけ残念な気がしている。確かに、我々の事業の運営費用は、この方々あってのことではある。しかし、実際の介護に手間隙かけず、思いやりもなく、言葉だけ丁寧ならば全て良しという感覚で事業運営されたのでは本末転倒ではないか・・・?

 表現方法ひとつで、一般の方々へ与える印象は大きく変わることは理解している。僕が、利用者の方々を爺さん、婆さんと呼ぶ、はたまたご利用者様と呼ぶのでは、どちらが好印象を与えるか位は理解できる。しかし、その上においても尚のこと、『爺さん、婆さん」と呼ぶほうをチョイスしたいと思っている。僕の感じる「爺さん、婆さん」の言葉に「ご利用者様」には無い、親近感と温かみを感じ、もっと普通の透明性のある関係が見えてくるような気がする。これに関しては沢山の異論があることと思うが、逆に「ご利用者様」から僕が感じるものとして、行政の指導を遵守した介護、法的にも何の違法性もなく、しっかりとお世話しております式の姿勢が伝わってくると同時に、それだけの介護であると言っているような気がするのである、つまり、良くも無く悪くもなく。と自慢(自慢はないか・・・・?)しているように聞こえてくるのである。

 僕の中の爺さん婆さんは人間である。人間である以上、飯も食う。汚い話ではあるがウンチもする。感情の起伏も当然ある。泣く、わめく、笑う、そして喜ぶ。五感を使って自分自身を表現するのが人間であるから、この人間くささを生きる糧に大切にしてあげたいし、職員全員で守ってあげたいと考えている。外の抱くイメージや印象を中心においた介護を目指すのではなく、あくまでも利用者本人の満足を第一目標において介護する姿勢に極端な敬語は不要である。

 でもでも、僕も不必要な喧嘩腰のものの言い方はしたくないし、いたってジェントルな男気取っている以上、外に出す文章は「利用者ご家族様」と表記することにしている。(この辺でも人間くさいでしょ!)

    

 

2010/3/5
人を思いやる気持ち!

 なんで感嘆符なのか?当然のことながら、介護の世界に絶対持ち続けてほしい気持ちだからです。

 相手を想う気持ち。それは相手を可哀想と想う気持ちではないので誤解の無いよう。相手が誰であれ、その人の気持ちを考えれば、何事もむげには出来ないものと思う。ましてや、その対象者に認知症があって色々と記憶回路が途切れてしまっている人ならば尚のこと、その瞬間に自分自身を見失っている気持ちを考えれば、必然的に不安感や自分自身が無くなっていく喪失感に戸惑う気持ちが理解できるし、その人達に機械的に対応することも出来無いはずである。

 もちろん、そんな私自身、24時間、365日、全ての時間を家の婆さんや爺さんのことを考えているわけではない。しかし、少なくとも、自分が自分の好きな時間を過ごしている時、必ずと言っていいほど頭の片隅でうちの婆さん達の顔を思い浮かべている。そして、常に思うことは、うちの婆さん達には、その時の自分に与えられているような自由な時間は無い。と言うことを考えてしまう。もちろん、認知症が邪魔をしてる関係で、その人の自由を認めることによって生命の維持が困難であることから致し方ない制約を設けてしまうこととなっているわけだが、だが、それまでは自由に大空で羽ばたいていた鳥を籠の中に入れてしまったような、そんな一抹の寂しさを感じてしまうのである。

 私は、太陽の家の職員の全てに考えてほしい、常に持ち続けてほしい気持ちとして、私達が関わっている人達は、少し昔には自由に自分の思うまま外にも出かけ、自由に活動していた人たちであること。そして、毎日、色々な体験や経験をして泣き、笑い、喜びを感じて生きてきた人であること。そして、今、思うように活動こそ出来なくなってきたけど、喜びも感謝も悲しみも感じる人であることを考えてほしい。

 偉そうな事を言うようではあるが、水臭い、機械的な、仕事としての介護はしないでほしい。この人達が楽しめるよう、喜べるように過ごしながら、介助する自分達も幸せな気持ちに慣れるような仕事を実践してもらいたい。確かに高齢者介護は重労働である。しかし、どうせ仕事するなら、適当にあしらった一時間も、その人の気持ちを考えて接した一時間も時間の尺から考えても同じ一時間。それなら、骨身を惜しまず相手に気持ちで接し、相手に喜んでもらえるように介助したい。

 グループホームで暮らす高齢者は、ここで提供されるサービスが唯一の生きる糧であり、この糧の質によってその人の余生が決定されてしまう。そんな重要な役割を介護職は担っている。その重要性を十分理解し認識してもらいたい。

   迷い、不安、苦しみ、寂しさ、悲しみを分かってほしい。 暗闇の中で一人ぼっちの不安感を理解してほしい。毎日が笑いで包まれているに越したことは無いけど、楽しみより一人ぽっちの不安感をもっと分かってほしい。今日、私が職員会議で話をした事。認知症の私と同じ気持ちで居てくれるだけで安心するのですよ!太陽の家の職員さんには、暖かな思いやりに溢れる気持ちを持ってほしい。と願っている。

2010/3/4
雨が降り続いてますねぇ・・・

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 今週は雨の日が多く、春先の天候不順が続いています。その為か体温調整が難しく、風邪を引きやすい気候となっています。今日の夕食後にいつものようにソファーでうたた寝をしてしまったのですが、ハッと気づいた時には11時に近く、いつもなら家のペットがぴったりと張り付くように、うたた寝する私の傍らに居るはずが、今日は私一人。何だかのどの痛みを感じ、頭も重いような気もする。急いで起きて、台所でお茶を口に含み喉を潤したところである。・・・・こうやって風邪をひくんだ!と反省しながら・・・・今日、職員に自分の体調管理が出来なくってどうするんだ~っと怒り飛ばしていた矢先に自分が風邪を引いてたら合わせる顔が無いではないか・・・!と早速、常備している風邪薬をのむ。

 正直今は風邪を引いている場合ではない。今週末は仕事の予定であり、週明けには東京で認知症グループホームの全国大会が東京で開催される。夜は懇親会を予定し、その翌日は行政機関へのご挨拶をかねて国会の事務所などを訪問する予定である。こんな時に風邪を引いてマスクして行くわけにはいかない。 そう思いながら、早々と布団の中にもぐりこんだほうが得策のようだ。こんなところで、ブログを書いている場合ではない。おまけに、窓を開け放して写真など撮っている場合か・・・?!

 しかし、これも一種の中毒のようなもので、・・・・ブログを書き始めると、書いた本数(月の内に書いた実績)が気になり、毎月、チャレンジ精神がくすぐられる訳である。先月は一月のうち6本しか書けなかった。今月は過去に無い本数のブログ更新を目指して書ける時は書こう!と思い始めるとダメ!記録更新に向けて、つまらない文章を書き連ねることとなってしまう。

 ままま・・・・そんな訳で、今月も4日が過ぎてしまいました。もうすぐ桜の花も見ごろとなる時期。うちの爺さん、婆さん達と一緒にお花見にも行かねばならない。やはり風邪なんぞ引いてる場合ではない!!

2010/3/2
最新のアイテム!!

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 最近、iPodなる(写真の物体)手持ち式録音・録画装置を入手した。世間一般にはアイポッドという名前で一般的家電量販店などで販売されている商品である。いささか、頭の構造が古物化してきた私には扱いが困難な状況がある。つまり、この物体、大きさ的には横9センチ×縦4センチ×厚さ5ミリという極小の機材ながら、結構な優れものである。なんせ市販のミュージックCDなど1000曲以上のミュージックを記憶して、それをまたイヤホンを使って再生することが可能なのである。この厚みの中に、どれだけの記憶容量が含まれ、どれほどの電池容量が含まれているのか・・・まか不思議な物体である。

 さて、この優れものに驚いてばかりではなく、この物の扱いの難しさは中途半端ではない。前にも触れたように、この大きさの機械の中に大容量のメモリー機能が装備され、おまけに何時間も電源なく音楽を再生できる内蔵バッテリーを持っている。そして、この物体を扱うには、まずコンピュータが必要である。操作の基本として、まず、手持ちのCDやインターネットより音楽をコンピュータにダウンロードして、そのデータをアイポッドにコピーするのである。すると、コピーされた音楽が再生されるという仕組みである。

 しかし、問題はここから始まるのである。この商品、取扱説明書といわれるマニュアルの類が購入時のパッケージの中に含まれていない。すべて、この製造メーカーのインターネットにアクセスして、そこから必要な情報を引き出して、使用方法をマスターしなければいけないのである。

 私は最近では、なんとかインターネットに接続して、それなりに文章を作ったり、調べ物をしたりすることができるようにはなった。しかし、この物体の取り扱いに関しては、いまだに不明瞭な点が多く。データの追加ができないでいる。つまり、ある程度の音楽を録音した後で追加的に音楽を録音しようとするときに、以前より入っていた音楽のすべてが自動的に消去され、常におはじめと同様の状態となってしまうのである。その度に、何枚もお気に入りの音楽を繰り返し入力しなければいけないのだ! 

 歳を加えるということは厳しいもので、このような小さな機械ひとつにしても満足に使いこなすことが難しくなってくる。今日も、ケアマネジャーの研修の中で高齢者の介護計画作成の方法をまなんでいたが、若い者から見ると簡単な行動も、華麗とともに実行できなくなる現象が理解できるというわけである。今時の若者にとっては、おそらく朝飯前の操作であろうが、私自身の頭脳も少々ガタが出てきたのかもしれない。(もともと、ほかの人と比べても安物のコンピュータ程度の頭脳だから、何とも説明のしようがないが・・・・)

 まあ、とにかく、こんな新しい機械に嫌々ながらも付き合っていかないと、余計に老けるような気がした。・・・・・・・

2010/2/25
気づきと思いやりについて

 私達の仕事は、まさにこの言葉に尽きる。と考えています。『気づき』は根底に相手を思いやる気持ちがないと発揮できない力の一つと考えられます。相手を思う気持ち。相手の立場に立って、相手を自分に置き換えて想像してみる。そのような優しさの塊のような神経の束が気づきを促巣のではないかと考えるのです。

 認知症高齢者の介護の現場では、相手を思いやりながら、普段とはちょこっと違う点を発見して、何か具合でも悪いのかなァ?と感じる事が早期発見につながる秘策です。自分で自分を表現できなくなる事が認知症であるならば、微かなサイン一つを見落とさない介護が必要とされます。

 さて、現場で気づきが促進されない理由は?単に思いやりが欠けているのか?と言う疑問がわいてくるのですが。厳密に言うなれば思いやりの欠除です。業務が煩雑化している!普通の日常と変わりなかった!何も言ってくれなかった!等の言いわけは確実に思いやりの欠除です。先にも書いたように、相手に自分自身を置き換えてみれば、その時に自分ならどうしてほしい!という要望が頭に浮かぶはずです。自分ならどうしてほしいと考える事、自分ならどのような時に元気がないのか?!という疑問が気づきにつながると思うのです。

 この思いやりや気づきは、対入所者だけに限らず、対職員間にも同様に持ち続けてほしいと思います。職員間で決めたルールだから全てがOKではなく、同僚が一人で悪戦苦闘している姿がそこにあるなら、お互いに助け合うことが大事であると思います。ルールは大まかな部分である一定の規律を規定しています、全てが万事ルールを基本に行動してしまう社会は、人間味に欠けた冷たい社会となりがちです。

 私達の太陽の家は、常に陽のあたる温かな家を目標にしています。職員の皆さんだけではなく、この太陽の家に関わる全ての家族の方々や地域の皆さんにも少しづつでもおすそ分けできる温かさを持ち続けたいものです。ぜひ、相手を思い敬い、日々の微妙な変化を察知し快適な日々を過ごせるよう努力しましょう!


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