コンピュータの恐ろしい点がここにある。こうやってブログを書き連ね、考え考え、足らない頭脳をフル稼働させて書いた文章が一瞬で消えてしまうことが時として発生する。何も異常な操作を行ったつもりも無く、単にコンピューターの機嫌が悪いときに、突然プログラムが終了していくのである。成すすべも無く、無常にもコンピュータのブラウザは閉じ、元へ戻そうにもすでに一切のデータは消滅してしまった後。
以前に、僕のブログの書き方は、思い付きをひたすら打ち込んでいくハードタイプであり、文章の構成も何も考えることなく、タダ思いついた言葉をキーボードを使って打ち込んでいく、だから、僕の文章には誤字、脱字が多いのだが、それでも記録されブログとして世間の目に触れることが出来れば、書いた甲斐もあるというものである。しかし、突然のブラックアウトには、それまでの苦労と労力は無になってしまうのである。これは悲しい。悲しいと同時に腹立たしい気持ちとなってしまう。思わず汚い罵りの言葉も出てしまう。
相手は感情の無いコンピューターだ。機械には私の都合など理解できなくて当然なのだが、思わずキーボードを持って壁に投げつけたくなることもシバシバである。
まぁ・・・悔やんでも仕方ない。もう一度、文章を思い出しながら書き直しでもするか・・・・・
今年で85歳になるのか・・・・。と自分の父親の年齢を考えるときがある。日本人男性の平均年齢を軽く超えている今でも、私自身が自分自身の実年齢をしっかりと認識できないように、同じように年老いていく父親をみてても、そのような年齢に達している現実を認められないようなところがある。自分自身の年齢を増しても、父との歳の差は狭まらないことも、何時までたっても父は父であり、僕はその息子のままで今も生活している。そんな父親だが、普通の会話をしている時に最近、とみに老いを感じるときが増えてきた。
まず、同じことを繰り返し言うようになってきた。父の日々の生活の中で不安に思う点、疑問に思う点に対してしっかりと説明をし理解を求めたつもりが一晩過ぎると、また同じ不安感、疑問を訴えてくる。その都度、同じ説明を繰り返し納得してもらうが、恐らく昔のように軽く了承することは出来ないまま日々を過ごすのだろう・・・。
それと、両親の家を訪ねると(僕が両親を訪ねて行く頻度は非常に少ないが)、必ず居眠りをしている。それもテレビを大音量で流しっぱなしにして居眠っている。歳とともに聴力が衰え、人の話し声も聞き取りにくい状況があるらしく、テレビの音量は健常な私にとっては耳が痛くなるほどの音量である。それにも関わらず、こんな騒々しい居間でよく眠れるものだと感心してしまう。
また、私の父は今も車を運転する。先日、免許証の書き換えを行ったらしい。ご他聞にもれず、認知症テストを受けさせられたらしい。何とか今回の更新では取り上げられなかったようだが、次回の3年後の更新は難しそうな感想を話していた。父は、昔から車の運転は定評あるほど上手な運転をしていた人で、子供ながら横に乗せてもらってドライブに行くことが楽しかった。仕事柄、結構色々な車を運転することも多く、(私の父親はホンダの販売店のメカニック兼セールスもこなす何でも屋であった)、あの当時はホンダS600や1300クーペなどのスポーツタイプの車両を矢継ぎ早に発表しているような時代で、それらの最新式のモデルに乗せられて出かけることが多かった。その時代の父親の影響を受けて、僕自身も車は大好きである。そんな、車の運転の上手な父親だが、ここ数年、自分の車を何処かしらに擦り付けてくるアクシデントが増えてきた。妹夫婦は交通事故を恐れるあまりに父の運転を自粛するよう求め続けている。高速道路を逆走した事故のニュースなどを聞くたびに真剣に心配しているようである。
歳を重ね、老いるという事を認めることは難しい。また、老いを認めた時点でその人の人生が極端に小さくしぼんでいくような気がする。実際、加齢と共に大切なものや人を失っていく人生の終末期には、その人の社会が小さくなっていき、それに伴うように身体機能や精神機能までも小さく小さく萎んで、最後には消滅して消えてしまう。
まだ私は足腰も気力も旺盛な分、自分の世界はかなり大きいと思う。さすがに徹夜を繰り返すことは出来なくなってきているが、明日、急用で海外に飛部必要性があっても対応は可能である。世界各国へ行くことまでは少々難儀かもしれないが、それなりに持っている社会は大きい。しかし、持病の腰痛が悪化し、常に寝起きも辛いほどの腰痛に悩まされるような年齢となってくれば、今までのように一寸東京へ!などといってられない時はくる。そして、移動手段の自家用車すら運転できなくなってくると、自分の位置に地の生活範囲は極端に小さくなってしまう。せいぜい、自宅から数キロ離れた場所までが生活圏と変化してしまう。今、私の父親は、このような瀬戸際に立たされているのだと思う。
自宅を中心に半径数キロ。それさえも年々距離が小さくなり、自宅から一歩も外に出れなくなってしまうことを考えるのは辛い。何も考えることがなくなる。テレビだけが唯一の情報源となり、そのテレビですら今時の若者をターゲットとする番組構成で、年寄りが見ててもテンポについていけない。会話の意味が理解できない。・・・・・もう居眠るしか方法がないのです。そして、朝になく、昼になく居眠り惚けているうちに時間と曜日の感覚が薄らいでいく。何でもかんでも、今となってはどうでも良くなってくるのです。そして、次第しだいと記憶力が低下し、脳の萎縮が始まっていくのです。
子供にとって親が老いる姿を見るのは辛い。寿命が延びるにつれ世の中に同じような気持ちで親を見つめ、将来を不安に感じるひとも多いことともう。しかし、私はこれも自然の摂理であると思うし、その中で如何に楽しい余生をおくらせてあげることができるかを考えてあげたい。と思っている。情けない姿をさらす父をみても叱責したり否めたりしないで、父としていつまでも敬い接してあげたいと思う。
そして、同様にうちのデイサービスやグループホームを利用してくれる方々にも敬い、尊厳をもって生活できるよう接していきたい。
先日、奈良公園の鹿をボウガンで撃ち腹部に矢の突き刺さった鹿が発見され、後に死んでしまった話は記憶に新しい。本日のYahooニュースでは、その犯人が逮捕されたと言う報道が流された。この事件は天然記念物の奈良公園の鹿を殺した大きな事件として報道されたが、天然記念物である重要性よりも何よりも、生き物を単なる好奇心だけの狩猟目的で殺害してしまう神経の持ち主に驚いてしまったニュースであった。
非常に残念な話であるが、この犯人は同じ三重県の人間で津市に住む青年であった点でも、非常にショッキングなニュースであった。詳しい情報については他の媒体を通じて取得して頂きたいが、普通の精神状態では生き物に向けて矢を射るという考えは浮かんでこないし、実際、いざ対象となる生き物に照準を合わせて危害を加えるという行動自体、私にはまったく理解できんない。それが、ペットとして自分が愛玩する対象物でなくとも、自分と同じように呼吸し、脈を打ち、体中に温かな血液が流れる生き物を殺害するかもしれない行為に及ぶ神経が理解できない。
随分以前の話であるが、津市の奥にある錫杖湖の湖岸道路を走行中、突然道路脇の山の中から大きな鹿が飛び出してきた。車の前方に突然飛び出し、危うく衝突しそうになった経験がある。その時はスピードも遅く、衝突は逃れたが、次に猟犬らしく犬の大群が表れ、鹿はそれらの猟犬から必死に逃げている途中であったと後になって察した事があった。あの時、鹿は死に物狂いで逃げていた。フロントガラス越しに、私も突然の飛び出しに驚き、相手も猟犬と、衝突しそうな車にも驚き恐怖に引き攣った目がとても印象に残った。
鹿は、道路を横切り、そのままガードレールを飛び越え、崖を滑り落ちるように湖に落ちて行った。その後、その鹿がどうなったかは知らない。猟犬から少し遅れて鉄砲を持った猟師が湖を必死に泳ぐ鹿を追いながら、仲間の猟師と無線でやり取りしているところで私はその場を立ち去った。今でも、あの時の鹿の恐怖に引き攣った目を思い出すと、人間としてとても残虐な面を悲しく思う。
山で猟をする人以外の日本人の大半は、動物を趣味として殺傷出来る人は少ないと思う。だからこそ、未経験の領域への興味がわきあがる気持ちになるのかもしれないが、道具を使いこなせる能力を与えられた人間である特権を弱いものに向ける愚かな行為は避けたいものだ。
今日のYahooニュースに長崎県の県立高校の入学式前のオリエンテーションの場で新入生200人の服装や髪型を検査。校則違反のあった生徒23人のうち足を痛めていた生徒を除く21人に反省文を書かせ、全員が書き終わるまで約3時間正座をさせた。この件に関して、入学式後に学校側は正座させた生徒と保護者に「教育を逸脱した長時間の正座をさせてしまい、不適切な発言もあった」と謝罪したそうである。
高校に進学する意思決定をし(自発的か否かはこの問題には関係が無いと考える)、その学校の一員となる以上、その学校の決めたルールに従うことは、生徒として当然だと考える。ましてや、学校に教えを請う者の立場として、先生の指導は絶対であるべきである。仮にその指導が自分の考え方と違っていたとしても、それなりに受け入れて、自分にとって何が正しいか仕分けできる技量を養うことも高等教育の目的ではないのだろうか? 自己主張することも重要であり、前回のブログでも書いたように今の若者のファッションである「ずり落ちパンツ」と同様、今の若者のオリジナリティーに対する考え方に疑問を感じてしまう。
校則を守らない若者流のアウトロー的格好良さをオリジナリティーと考えている生徒は、まったく自分達の姿が客観的に見えていない。暴走族にしても同じで、そこには個性と呼ばれるスタイルは存在しない。タダ単に一般の生徒とは違った考え方の小集団(マイノリティー)でしかない。マイノリティーで居るだけでは、自己主張しているとは言えないと思う。
どうにもこうにも、日本の若い世代は世界の国から見ても軟弱である。そのくせすぐに切れる。自由思想だけが勝手に先行し、責任と義務が置いてきぼりと成っている。そして、同時にこのニュースには、悲しい今の日本のもう一つの姿として、学校が正座させた生徒と保護者に謝罪していることである。学校として適切と考え、議論して創ったであろう校則。その校則を守れない生徒を、なぜ熱く指導せず弱腰の指導しかできないのか呆れてしまう。確かに生徒の人権は重要であり、将来のある若者である。だからこそ、現状を見て見ぬ振りをしてしまう。自分の人生、道間違った方向へすすんだとしても先生は知らん!と言わんばかりの事なかれ主義。この体制こそ反省すべきではないのだろうか?こんな逃げ腰の教育をしているからモンスターペアレンツなどと言われるアホな保護者がはびこり、ごねた者勝ちという風潮を作り出してしまったのではないのだろうか?
私たちの子供の頃、学生時代と共に、先生のえこひいき、利不順な叱責、暴言や体罰は日常的に行われていた。このことは自由社会であり人間の尊厳、個人を尊重する観点からも決して正当とは言えない。しかし、そんな学生社会の中に悩み、憤りながらも自分自身で泳ぎきる術を学び、そこから生じる反発エネルギーを糧に別の意味のリベンジに燃えた時代であった。また、先生は先生で、もっと熱のこもった熱い気持ちの師が多かった。もちろん、それにも関わらず、そんな学生生活に馴染めずにドロップアウトする生徒も存在した。しかし、生徒任せの自由気ままな教育指導を行っている現代においても同じようにドロップアウトは存在する。いや、ドロップアウトに関しては昔の数にも勝る大量の生徒が去っていくのが今の時代である。僕は学校の指導姿勢が厳しすぎることは、人間形成を阻害するとは思えない。