太陽の家

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ブログ-施設長の部屋

2010/8/8
すみません、ティッシュ下さい・・・・!

 昔、小学校にかよう頃、母親がハンカチと鼻紙を必ず持たせてくれた。僕の時代にはポケットティッシュなどと言う洒落た物は無い時代だったので、本当に単なる白い鼻紙の数枚を持たせてくれていた。大体からして、鼻水は服の袖で拭く。鼻紙を出して悠長に鼻をかむことは、小学生の子供には出来ない。出来ないと言うより、やってる時間が無い。あの当時は、どいつもこいつも、鼻水をたらして生活してたような気がする・・・みんな服の袖がピカピカだった。遊ぶことに必死な時代だった。

 そんな時代を通り越し、今やいっぱしのおっさんとなった自分は、今でも外出の際にはハンカチを持参する。夏の薄着の時には、ハンカチと言えどかさ張るものである。小さめのカバンを持って歩くおっさんも居るが 逆におっさん臭すぎて小さなセカンドバッグなんて物を持つ気にはなれないので、出来る限り手ぶらで歩く。財布、免許書、車の鍵などポケットに入れるのは良いが、これまたポケットが膨らみすぎて格好悪い。だから夏場のファッションは難しい。そんな中、必須アイテムだけでポケットの許容量をオーバーしてるのに、そこにティッシュペーパーは尚のことかさ張る。必然的に、大人になった今は鼻紙の代わりのティッシュペーパーは持ち歩かない。

 子供時代は服の袖が鼻紙の代用品。それでは、大人になると鼻水の処理をどうするのか?それは、簡単なことで、都会では、毎日、いたる所でポケットティッシュをタダで配ってくれている。この便利な無料配布を利用すれば、鼻紙を必要なときは都会の歩道を歩けば貰えるのである。お金は一切不要。相手から気前良く、差し出してきてくれる。こちらは、ただ受け取るだけ。それでも、都会の女性たちは、タダで差し上げますと出されているティッシュを避けるように歩いているのである。くれる!という鼻紙、遠慮なく貰ってくれば、わざわざティッシュペーパーを買う必要も無いのに・・・・と思いながら都会を歩く度に田舎っぺ丸出しの感覚の自分が居る。

 そして、悲劇は突然襲ってくるのである。都心の雑徒を居ている最中に、舞い上がる埃を吸い込んだのか、急に鼻がむずがゆく、思いっきりくしゃみをしてしまった。「は~くしょい!!!」と同時に鼻水が・・・・・流石に半袖シャツでは鼻水はふき取れない。いやア~・・・どうすっぺ~・・・・と考えて、思いついたのが通りでティッシュ配りの兄ちゃんを探すのである。ほんの数メートル歩いただけで、ティッシュを配る若い女の子が居た。其の彼女の前を通過しようとしたとき、ティッシュを持った彼女の手は、僕の目の前を通り過ぎ、すぐ後ろから歩いてくる女性に渡した。良く周りを見回してみると、数人のバイトと思われる若者がティッシュを配って入るものの、渡している相手は若い女性だけ。男は対象外・・・のようである。

 いやア、やばい!! 俺の鼻水、一刻の猶予も無い状態だ!汚い話であるが、ズルズル音を立てて吸い込んでないと垂れてくる。もう、こうなってくると恥も外聞も無い。ティッシュ配りのバイト君に、お願いするしかない。『 すみません・・・・ティッシュ下さい!・・・・』                  都会は便利だ!       

2010/8/6
ケア・カンファレンスについて

介護保険事業には、かならず利用者のためのケア・カンファレンスを定期的に実施し、介護計画を立てなければいけない。そして、其の計画は利用者またはご家族の承諾を得なければいけない。太陽の家でも、定期的にケア・カンファレンスを実施しながら、職員間の認識の共有化、計画の見直しと再計画への意見交換を行っている。これが、ケア・カンファレンスと呼ばれる会議である。個別に個人のあらゆる情報を持ち寄り、職員の視点から利用者を細かく解剖する(言葉としては不適格かもしれないが、一番しっくりと感じられる言葉と思う)。その人の出来ること。出来ないこと。家族の要望、本人の夢や要望を細かく噛み砕き、それぞれにベストの方向へ導けるように専門職として、適切な支援方法を検討しあう。

 今日も太陽の家デイサービスでは、利用者のカンファレンスが開催された。今日話し合われたのは7名の利用者。所要時間は二時間半。一人当たり20分強の時間をかけている。少し時間をかけすぎている。それほどの難問があるわけでもなく、前回のカンファレンスからの変更の少ない利用者である。今回のカンファレンスの進行を見ていると、時間がかかる理由が理解できる。一つは、参加職員が意見を持っていない。普段の介護の中で気づくことは多いようであるが、それを問題視していなかったり、認識できていない部分が多くに存在する。要するに、利用者の様子を伝えるに足る言葉を知らない。第二に支援方法が画一的であり、新しい視点が見当たらない。数年前から変わらない支援を今なお計画にあげている。これは、絶対におかしい。数年前の計画が今でも、変更されること無く残っている。利用者の機能の変化は無いのか?それとも必要が無いにもかかわらず計画を削除することも無く今まできたのか?という疑問がわいてくる。第三に利用者の主訴の読み取りが甘い。どうしても日常の介護の中で食事、排泄、入浴の三分野に絞られた介護に徹してしまうことで、そのほかの状況や特徴や変化に目が届かない。もう少し、発想の転換を促すカンファレンスでなければ、新たなる支援策は生まれてこないのではないか?

 今日の会議でも紹介したように、私たちは福祉、特に高齢者介護の専門職である。専門職は、それなりに多面的な視点を持って、あらゆる角度から柔軟なサポートを提供できるように常に考えておく必要がある。最近の行動パターンが妙に違っている、お願いしても聞き入れてもらえにくい等、たくさんの問題に囲まれているように話し合っている。しかし、実際にもう少し、しっかりと利用者の立場に立って考えてみれば、私たちが問題と考えている課題は、得てしてわれわれからの視点に基づく問題行動で会うことが多い。最近、利用者がおとなしくなってきた。とする、そこには、多数の可能性を考える必要性がある。例えば、反発するだけの体力、気力が減少傾向にないのか?または、体調不良が根底に潜んでないか?提供サービスに妥協したのか?等々 太陽の家だからと言われても結構!僕はもっと斬新でハチャメチャな支援方法を考えて実践してくれる方に期待する。 其の為には、普段から利用者個人の様子観察を適切に行い、その人を理解し、その人の抱える問題を提起できる体制を整えておかなければいけない。意見を求められ言葉に困るようでは、其の利用者と正面から向き合っていない、介護の仕事を生産工場の作業と同じようにしか見ていない証拠。普段から、人の意見や行動には疑問の気持ちをもって観察するようにすれば、自分なりの意見はもてるはず。考えること。職業人として働く、仕事するとはどういう行為を盛って言うのかを学ぶべきだ。

 あの太陽の家に通うようになって、生き生きしてきた。とは言ってもらう。より良いサービスは確保できている。次に目指すのは、今まで以上のQOLの向上を目指すために、利用者は何をすべきで(僕にとって介護は受身だけではなく自立支援という言葉通り自らが求め活動することが基本と考えている)、どのような支援を必要としているかを検討しなければいけない。それも、斬新なアイデアを工夫する。そして、介護の質の向上を目指したすばらしい介護を。僕は自慢ではないが、今の太陽の家デイサービスセンターなら、更に高い質のサービスを提供することができると信じている。また、今のクルーなら実現可能であると考えている。そのためにもカンファレンスのレベルアップを目指したい。言われることを全て鵜呑みにするな!なぜ?と感じたならば、納得するまで聞け!と要望するのです。

2010/8/6
煙たい存在の高齢者へのすすめ。

うちのデイサービスを利用される高齢者の方々をみて、いつも思う事がある。それは、一応にして、高齢者の大半が好かれるタイプのお年寄りである点である。おそらく、この年代の人たちは(私の親を含め)舅姑にいじめられ、それらに耐えて生活を継続してきた世代の人達であり、その経験が自らの反面教師となって「不平」「不満」「小言」を押し殺すように考えるようになったと言っても過言ではないと思えるのです。爺さん、婆さんが若い者に早くから遠慮した生活を強いるようになって、その分、若者の学ぶべき社会的な常識を教える人がいなくなった。また、同時に、大事に加護されるようになった高齢者は、自分自身の目的と将来設計を若者に依存するようになった。全て、若い者が取り仕切る。言うなれば、若者任せ! それで自分の人生に支障をきたすとしても寡黙になる。 自分の将来を(余生を)子供に任せるスタンスは、独自性を失い、個人の能力の低下に結びつく。また、極端な場合は、家族関係の希薄さから、この世に存在しなくなっても誰も気づかない。そんな時代が今なのです。

 高齢者は人生の先輩として、豊かな経験に支えられた重要な社会資源である認識は、今の社会からは消え去ろうとしている。シルバー人材センターの活用で、高齢者に一部ではあるが仕事(出来ること)を実施していただく社会的な連携をもっと、住民と共に活用していく社会的な思いやりが不可欠であると思うのです。しかし、錫年層へのマナー教育や者気通念の研修に抜擢したとして、果たしてその効果は期待できるのか?と問えば、そこには過度な遠慮が生じ、若者の成長を促す事が出来ないまま終わる可能性も強い。

 誰しも、人から嫌われる事は忠告したくは無い。なにも抵抗せずに相手の話に傾聴し、何でもかんでも受容する姿勢を続ければ、少なくとも人から煙たがられる事は無い。しかし、そんな個人的な理想論だけで、これから先の困難な時代に今の若者や社会が生き残れるのか?と考えた時、答えはどうなるのでしょうか? 

 僕は、いつまでも煙たい存在として、この社会に生存したい。小言ばかり言って、若者を困らせてやりたい。僕の死後、みんなが「ようやっと、逝ったか!」と言われるとしても平気さ!ドンドン悪者になって、将来的に強くたくましい次世代を担う人を育てることに集中したい。

2010/8/5
チーズの味わい方。

1211040004-3.jpg12-0261259012606l-thumb-308xauto-5780.jpgミラノ サラミのスライスミラノ サラミのスライスエメンタール チーズエメンタール チーズ

僕はチーズが大好きなんです。特に臭いチーズがこの上なく好きなのです。

最近、血圧も高く、肥満になりつつある自分としては、チーズを楽しむこともはばかる状態となってきているのですが、それでも、やはり好きな物は好きで、食べたくて仕方が無いのです。うちの職員さんは、僕が毎日、夕食の材料を買いにスーパーへ行っていることを知ってますが、其のスーパーで一番時間をかけて眺めているのがチーズのコーナーです。あまりチーズのような脂肪の塊を食べ続けると、脳梗塞や脳血栓などが恐ろしいのですが・・・・・まア、とにかく、チーズの何が旨いのか?について書いてみたいと思います。

まず、僕の一番好きなチーズはエメンタールチーズ(スイス) 芳香なにおいと食べた瞬間の苦味、それから徐々に口中に広がる胡桃のような味が好きな理由です。このスライスと一緒にミラノ サラミの薄切りを食べる。こんな幸せな瞬間は無いほど!最高に美味しい。 このチーズが受け入れられないとすれば、苦味の部分でしょう。しかし、ミラノ サラミは少しだけ酸味のかかったサラミです。そのサラミの味と、このチーズの味が融合して、口の中いっぱいに広がります。

 次に、イタリアのゴルゴンゾーラ チーズがうまい! フランスのブルーチーズと同じで青かびのチーズです。ピザやパスタのソースとしても使われるチーズですが、これはまた、臭い! この臭さがなんともいえない食欲をそそるのです。また、このチーズも結構塩味はきつく、口に入れると塩の味が一番に感じることとなります。また、食べている中で、少しづつですが、石鹸を食べているような味が伝わってきます。フランスのブルーチーズに比べると、イタリアのゴルゴンゾーラは臭みが少ないのですが、それでも慣れない人にはキツイ一品かもしれません。 僕は、このゴルゴンゾーラとマヨネーズ、生クリームを使ってクリーミーイタリアン ドレッシングを作ります。

 ピザなどのトッピングに使うには、とろけるチーズなど市販品のシュレッドした物を使いますが、ゴーダチーズは、オーブンで焼くととろけます。このチーズも食べると、少しですが苦味を感じます。

 写真の中でも紹介しているチーズですが、サンタンドレという白カビで覆われたカマンベールっぽいクリームチーズです。口に入れるとバターをなめているような風味が伝わってきます。値段的にも高価ですが、少しだけ切って、リンゴのスライスやドライフルーツと一緒に食べると美味しいです。

 先ほども紹介したように、ドライフルーツと一緒にチーズを食べるのは、イタリア料理の中では一般的です。ほんの少しづつ、ドライフルーツのかけらとチーズを少し、口の中に放り込んで、赤ワインでも飲めば最高に幸せな時間がそこにあります。僕もイタリアンで食事するときには必ず、チーズの盛り合わせとサラミや生ハムの盛り合わせを注文します。そして、美味しいワインをなめながら、楽しい会話をして食事を楽しんでいます。こうやって書くと、すごくリッチな生活のように思えるでしょうが、私たちが注文するワインは、それほど高級なワインではなく、一本3~4千円程度。昔の学友と久しぶりの再会を懐かしんで食事を共にするときは、こうやって安いワインをボトルで買って、チーズを肴に数時間、語り合うのです。こんな楽しい時間が、チーズとワインには存在します。

2010/8/5
情報社会の恐ろしさ。

 最近の報道で、地元出身の女性がネグレクトから幼児を死なせた事件がある。とても悲しい事件である。子供に恵まれない自分としては、非常に寂しい、悲しい、事件であった。その時を想像すると見に詰まされる思いである。子供は、何不自由無く育っていくものだという意識は、楽観的発想で稚拙な考え方である。爺さん婆さんのお世話する以上に手をかけ導いてやる必要があるにもかかわらず、全ての親が、そのように考えてくれない点で問題は拡大しているように思う。まあ、ここでは、その様な幼稚な大人たちの行動については触れないで、その様な事件を起こした以降の情報流出と家族に及ぶ風評被害について書いてみたい。。

 この問題を起こした女性の親について、早くもネット上では色々と細かな情報が独り歩きしている。父親の職業はおろか、離婚暦や生活状況など。本当に細かな情景が浮き彫りとされている。事件を起こしたのは娘のほうであるにもかかわらず、其の父親までが犯罪者のごとくネット上で裁かれている。裁かれていると言うと語弊を招くかもしれないが、実際、裁判官でもない一般人がネット社会の中で、勝手な評価を行い、この事件の裏の情報を元に事件に至った要因を論じている。これは、個人情報も何も、まったく関係なく配慮される思いやりも無い、非常に冷淡で非人間的な行為がネット社会の中で行われているのである。

 インターネットは、その人の顔の見えない、所在も明確ではない、形の無いものから発信される割りに、大きな影響力を持つ。つまり、情報源のいかんに関わらず、読んだ人は、それらの情報を信じてしまうことが危険だと思う。どこかの雑誌に書かれていたが、『日本人の悪いところは、情報を鵜呑みにしてしまう。なぜ?どうして?と言うことを考えて理解しようとする姿勢にかける。』とあった。確かにそうである。人の言うことを非常に単純に真に受ける。そして、其のネタが、またチェインメールのように情報として他人に流されていく。時には、真実でない飾りまでついて・・・・

 確かに、子供の育て方、指導の仕方に間違いはあったかもしれないが、一つの凶悪事件で、家族全員が社会から罪を負わされることはいかがなものか?日ごろより、自由と権利を主張する人々が多い日本の社会の中で、この点だけは特に封建的で嫌らしい性分を感じてしまう。巨悪事件を、この世から根絶するには、一族全員を同じ穴の狢と裁くのではなく、事件の根本に潜む社会のほころびを埋める作業を社会が行っていかないと、結局のところ同じような事件は必ず起きてしまう。其のたびに、何の罪も無い子供たちに被害が及ぶのであるならば、私たち大人の行く末は危ない。


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