現場のディレクターと言う職業は色々な業種の中に必ず存在する。俗に言う「業界」のディレクターに限らず、工事現場の監督さんもディレクターであり、グループホームやデイサービスのフロアーリーダーや主任、ホーム長など名称はバラバラながらも、其の現場に責任を持って、関係する者をまとめ、指導して、適切な方向へ作業を管理、監督し導いていく言うなれば船の船頭さんとしての役目がディレクターである。
「ディレクター」=「仕切りやさん」であって、多少(いや・・・?結構・・・・)あつかまし人物であるかもしれない。僕も、このディレクターの一人であって、すべての現場を管理監督する役目だから、それなりの責任と義務を背負っている以上、当然のように自分の意見を持っているし、其の意見に対して自負心と責任をもって発言している。そういう意味では、現場のディレクターとは結構重い責任を持って、それなりに胃の痛む思いや心冷や冷やの厳しい環境の中でも耐える忍耐を必要とされるような、厳しい職責かもしれない。
さて、そんな神経をすり減らしてまで仕事しなければいけない職責なんてなりたくは無い!という考え方も有るかもしれない。これは、その人の性格にもよるところは大きく、他者から言われるとおり指示に従って、与えられた仕事をこなすだけ好む人。はたまた、人に言われて行動することを嫌う人も居るかもしれない。ディレクターになる人の根底には、人から指図されるのでは無く、自分が思い描く目的に向かって、多少のストレスも想定内として耐える覚悟をもっている。ストレスを受けることを覚悟してるのだから、物好きまたは変人と言われるかもしれないが、そこには「遣り甲斐」が存在する。自分が思い描く姿があって、それぞれに目標とされる図式が存在する。現場のディレクターには、其の目標に向かって色々と指示を行い、世話を焼き、時には嫌がられる言葉を吐きながら自分の思い描く目標を達成していく。其の目標に達成感を感じ、次の目標に向けての意欲を感じ、更なるチャレンジを行っていく。言わばエンドレスなチャレンジかもしれない。
優れたディレクターと言うのは、瞬時の判断がと決断が求められる。もともと作業する場においてすべての関係者のベクトルや作業に関する理解が同じレベルで、同じ方向に行われているとは限らない。もちろん、作業前に関係者との入念な打ち合わせやあ話し合いが行われて意見の統一は必須うであるにもかかわらず、やはり細かなところで微調整が必要となる。其の微調整を、必要な箇所で適切な指示と適切な量の実施が難しい。必要量を超えて叱責したり小言を言うと時には逆作用が起きて、関係者のモチベーションを損なう場合がある。其のさじ加減で出来上がりの良し悪しが決まってしまう。それと、現場のディレクターは、普段から関係者の中で人望厚い関係性をキープしなければいけない。人間関係がうまく構築されて無いなかで、誰も指示を聞いてくれなければディレクターとしての作業は不可能である。普段からの自分の行動に十分な責任をもって行動しなければいけない。
それと『あつかましさ』という点においてはかなりの部分で、自分本位といわれる危険性をはらみながらも実行してしまう場面も多い。例えば、今日、太陽の家で七夕劇の通し稽古が行われていた。僕は観客席に陣取り、其の練習風景をみていた。練習の最中に僕がしゃしゃり出て意見することは避けたほうが良かったのかもと思いながらも、やはり見てみぬ振りはできない。僕がアドバイスすることで劇の仕上がりがよくなるのであれば、その場で指示を入れたほうが良い。徒の判断で意見した。その意見とは、僕なりに思い描いた「寸劇」の完成図があり、その完成図に近づけるためにセリフや演技まで細かな指示して修正を加えることである。そのために一生懸命練習している最中に、一旦練習途中に分け入って、細かな指示を入れる。これは関係者にしてみれば「あつかましい」かもしれない。しかし、この厚かましさが無いと、逆に練習は不完全なものとなり、せっかく練習に費やした時間を無駄にするばかりか、劇そのものの出来栄えが大きくかわってしまう。言ってみれば、ディレクターとは、作業の効率化も含めて、一緒に働く人々の最大限の可能性を引き出しベストな仕事が出来るように準備、実施し、船頭としてみんなが同じ感動を味わえるように厳しい面を見せながら、ただひたすら客観的な立場も含めて冷静に現場を見て進めていく事と言えるかもしれない。今日の午後から予定する七夕劇の出来栄えが、今から楽しみである。
おっとそれから、この寸劇の練習が過去に4回ほど行われてきたが、其の4回の練習には参加せず、一人でべつの作業を実施していた職員さんに感謝したい。彼女はこの寸劇予定日が希望休となっており、寸劇に参加できないことを理由に、他の職員が思う存分練習に励めるよう、彼女なりに協力してくれていた。トイレ掃除や諸々の雑用を一気に片付けてくれていた。寸劇の出演者には、そんな陰の協力者に対する思いやりももってもらいたい。
写真のよしず一つとっても、立てかけた人の性格がみえるように思う。性格が良い、悪いではなく、その人の几帳面さが如実に表れるのが、こう言う何でも無い行為にその人の性格が見え隠れするのだから、意外とおろそかにはできない点かもしれないと真剣に考えてしまう。以前、女房と論議したテーマに繋がっていくのだが、介護の現場で神経のこまやかさや几帳面さが、良い方向に作用する面と、悪い方向に作用する面の両面を抱えている!と話が盛りあがった。良い面とは、言わずと知れた介護の現場での「気づき」へのつながりを期待できる。毎日の変動の激しい高齢者の体調、精神の管理に置いて、微妙な変化やゆらぎの早期発見は、その要介護者のADLやQOLの維持にとって、とても大切で重要な課題である。そのような重要な場面で介護する側のドンカンで無神経さが要因として、重要なサインを見逃してしまうとすれば、それは介護の現場で、あってはならない問題だろう。逆に悪い方向に作用する面としては、その几帳面さが介護者の精神並びに肉体の不調につながり易い点である。几帳面で神経質な性格は、色々な高齢者に細かな神経を使う。そればかりではないが、その事が結果的にストレス又は極端な場合、内臓臓器の疾患に発展する可能性も含んでいる。確かな医療上のエビデンスも無いので何とも言いきるのは難しいが、それでも精神的ストレスが心身に与える影響は、全く否定できるわけでもない。
以上の点から、それでは何が良いのか?言いきれないところが難しい点ではあるが、人間として、介護者として、求められる点は、やはり要介護者に寄り添った介護への視点を維持し、そのニーズの汲み取り枠を拡大していく姿勢は確保し、それでいて自分自身がストレスでいっぱいパイになり、結果的に負けてしまうことに繋がらないような適当さも求められるのである。非常に使い分けの難しい、高度な対面技術を求められ、自分の精神コントロールまでも極限で必要とされる、非常に高度なテクニックとケアを必要とされているわけだ。
介護の現場に目を向けてくれる若い介護職員さんには、単に爺さん婆さんが好きだから!という安易な気持ちだけで仕事は続けてほしくは無い。この世界に入るきっかけとしては良い。しかし、その気持ちだけでは、長期間の介護を継続することは困難である。僕が考える介護職に一番重要な課題として「 自己覚知 」を強く強く訴えたい。職員の思い込み、勘違い、スキル不足や人生経験不足など全てに置いて、介護の現場では重要なテーマであり、常にそれらのテーマについて真摯に自分自身を律し管理でき、不足に対しては補う継続的姿勢が求められている。
よしず一つの立てかけ方をもって、ここまで話が飛躍するには、僕はそれなりの気持ちの持ち方が介護の現場には必要と考え、重要視している結果と判断してもらいたい。
深夜に徘徊って言葉は、認知症の爺さん婆さんか、はたまた不良中高生に特有の行動かと思いきや、中年、いや初老のおっさんも深夜に徘徊する事が増えてきた。
最近特に回数も増えてきたが、夜も11時を過ぎる頃になると、妙に外の空気を吸いたくなる。空気を吸うためだけなら、窓を開けて外気を取り入れればよいが、目的は夜の街に出て行く。要するに車に乗って深夜ドライブを行う。酒を飲みに行くとか、飯を食いにいくとか言うのではなく、本当に単純に深夜のドライブである。夜も12時を過ぎても、最近の鈴鹿は活動する人も多く、其の分、街の飲食業の店が営業を行っている。人は眠らない! 人が眠らない街と言うのは「東京」や「ニューヨーク」等の大都会だけと思っていたが、最近では田舎の鈴鹿市でも24時間営業の店が増えてきた。
そんな眠らない街をドライブして、30分もすれば次第と高ぶっていた神経が落ち着き始め、眠くなってくる。そうして、自宅に帰り部屋に戻ってベッドに戻る生活。そんな徘徊生活に悪い癖のような習慣がついてしまった。でも、鈴鹿って深夜に走り回れば、本当に鈴鹿の町の端から端までが30分でいけてしまう距離である。そんな小さな街にも、色々な人生があり、色々な生き方がある。そんな事実を確認すれば、僕の深夜徘徊すらも業務の一環として立派な理由付けが可能である。皆さんも、部屋のベッドの中で寝付かれない夜、ただ単にモンモンとした生活を続けるのではなく、自分で出来ることから探してみては如何でしょうか?
今日の夕方。夕方と言うより夜の8時ごろの三重県北部はすごい活発な雷の活動を受けて、稲光がすさまじく横へまっ縦へと、稲光の道筋が見えるほど、派手な落雷がありました。ちょうど、其の時間帯を高速道路を走行中で、高速から見える範囲って思った以上に広く、遠くのほうまで見渡せるのです。
今更・・・!と言う感じだけど、でもドクターから糖尿病予備軍だとか、悪玉コレストロールが多すぎると言われ続け、そろそろ真剣に自分の老後を心配しなければ・・・と考えて、今日は夕方からウオーキングを実施した。今日は太陽の家からハンターまでを、田んぼ沿いの道をハンターまで歩き、中央道路を自宅まで戻るルートに汗をかいた。途中、ハンター近辺では若干弱い雨が当たり始め、シャツを濡らし半そでの腕を濡らし、冷やし、ちょっとヤバイなあ!と心配しながら足早に自宅まで帰ってきた。この霧雨の影響で、ウオーキングの後半は意表を付かれたが、前半は、空が赤くそまる夕焼け空を眺めながら、連日の猛暑日から少しだけ過ごしやすい気温に戻った今日は。軽く運動するには最高の天候だったようだ・
ウオーキングしてて、いつも気になるのは、歩く道中に点在するレストラン。ステーキハウスや、焼き鳥屋、焼肉屋など、それこそ僕は食べないほうが良いよ!と言われているレストランばかり。以前は、そんな意識もなく食べたいものを食べていた自分を思い出すと、少し恐ろしい気になるのである。しかし、それでは、外食で何を食べる?と言われても、いうほど健康的な食事を提供しているレストランは少ない。レストランも商売である以上、売れる商品を提供したいだろう。お客の健康を心配し低カロリー、低脂肪な味の無い病院食のような食事を提供するレストランなんて、だれも訪れないよな! 今の人たちが好む食事は、揚げ物、肉類、ピザなどの高カロリー食品、または。大量の食品であり、そのまま不健康な悪玉食品として排除されそうな食品ばかりが好まれる時代。 自分が食べる食品は自分で管理できなければ、結果、体調を崩すこととなっても文句は言えないんだろう!しかし、今は、全てのものが手に入る時代、意志の弱い僕には非常に辛い、苦しい自制心を求められており、ついつい誘惑に負けて今日だけは許そう!と自分に甘く言い訳をつけてしまっている。これも逆に言えば不幸な時代なのかもしれない。戦後の混乱期には、社会に物が不足しており、満足な食材も無く、代用品で誤魔化され、それに納得してた時代もあったようだ。 今後10年、今の飽食の時代に育った者たちが、将来、苦しまなくて済む様に心より祈願している。