1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市上空のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」からウラン型原子爆弾が投下された。
今から66年まえの出来ごと。66年前の今日がその日。奇しくも今の日本は、悪夢のような東日本大震災の津波によって福島の原子力発電所が破壊される被害をこうむる事となり、その後遺症と言うか影響を受けて地域一体また日本中に放射能汚染の魔の手が広がりつつある。世界で初めて原子爆弾の恐怖を味わったはずの日本が、66年の歴史を刻む中で、またも原子力の脅威に国民全体が恐怖におののく事になるのも何かの皮肉か・・・?
今日の原爆記念日のニュース映像を見ていて、小学生の子供二人が原爆の恐ろしさを繰り返さないと必死に訴えていたのが印象的であった。しかし、過去を知らない子供に、誰か大人の書いた原稿を読ませる姿に一種の違和感を感じたのは僕だけだろうか?子供に伝え、この思いを継続してほしいと言う願う気持ちは理解できる。しかし、その反面で、原子力発電に電力供給を頼り、福島の事故を経験してもなお、電力会社はコスト重視の原発に依存する電力需給に、本当に日本人の我々は、過去の広島、長崎の原爆投下を肝に銘じて平和を願っているのか?サラサラ疑問である。
僕自身、終戦後の日本に生まれ、原爆の日を知らない。広島の原爆ドームを見学した程度で原爆の恐ろしさを理解しているとは言えない。しかし、福島の原発にまつわる苦悩については、ある程度察することができる。廃炉するにも長い時間と、非常に危険な業務の遂行、多額の保証金、周辺地域の放射能汚染など、そうやすやすと解決できそうにない程の苦悩が山積みである。
チェルノブイリの原発の事故を知り、遠く離れたロシアの彼方の事故と、他人ごとのように見ていた当時。フランスから輸入されていたミネラルウオーターが一時、輸入を自粛したことがあった。放射能汚染を懸念した輸入元が自主的に判断して輸入を取りやめた。同時に、店頭から在庫も引き上げた時代があった。牛肉だけでなく、日本の食の安全が脅かされている。過剰反応は良くない事はわかるが、日本人の我々も、社会も、経済発展を優先するあまりに、あまりにも先を急ぎ、安易な御都合主義に流されてはいないのだろうか?
今の僕の一番のお気に入りがこの写真の状況である。エアコンの効いた室内よりも、やはり蒸し暑くも若干の風が吹き抜ける屋外(裏庭のベランダ)のロッキングベンチに座り、ぬるいペットボトルの水を飲み、蚊取り線香をたいて、パソコンで遊ぶ。この時間が一番、和み、心安らぐ時間である。今日は、いつもより外は熱く、首筋に汗をかきながらの休憩だ。第三者から見れば、一見涼しげに見える、この状況であるが、なんのこたあない、むちゃくちゃ暑いのです。先ほど、パソコンを取りにデイサービスのフロアーを抜けて行ったら、その涼しさと快適な空気は何?と言うほど気持ちよく感じたくらいです。
では、なんでエアコンの効いた室内でパソコンをしないの・・・?と言われそうだが、やはりね、自然の風や自然の音を聞きながら好きな音楽を流して、陽の光を感じて過ごす時間が最高。最近、部屋の中のうす暗さがどうも感覚的に合わなくなってきてるのです。うす暗い所にいると息が詰まる。だから、多少暑くても、外でノンビリと揺りかごのように椅子に揺られて物思いにふけっている方が好きなんですね。
最近、入手したバッハの曲を女性二人のピアノデュオが演奏するCDがお気に入りです。そんな週末の過ごし方。僕にとって、一番、今優雅な過ごし方。
小難しい表現のタイトルとなって、読み手にとっては「なんじゃこりゃ・・・?」と言うところでしょう。まあ、簡単な話、うちの実家の三代にわたる年寄りの生き様とでも言うか、そこに時代がどう関係したかについて話をまとめたいと思ったのです。どの時代の爺さん、婆さんが一番幸せな一生を終えたのか?と言う点の評価は、はっきり言って難しい。
僕のばあさんは、明治の時代に生まれ、僕が誕生して数年後に一回目の脳梗塞を発症。片側まひの障害を負いながらも幼少の僕を連れて(父が言うには、ちょうど良い杖代わりとして連れて歩かれたそうだ)、いろいろな神社仏閣に祈願を兼ねて訪問したそうだ。ちょうど日本が高度成長のまっただ中の時代、しかし、介護保険の制度はなく、若干だが高齢者専用の施設は全国に誕生し始めようとする頃の話である。その後、婆さんは僕が中学に学ぶ頃までに数回の補佐を繰り返し、次第に寝たきりになっていった。寝たきりで5年程。今で言う「在宅ケア」となり、夫である爺さんを中心に、父、母が協力しながら介護に明け暮れた時代である。
そして、その父と母が今や、爺さん、婆さんの年齢を超えて健在である。母は骨粗しょう症などがもとに関節のゆがみやらなんだかんだで次第に歩く事が困難な状況となり、今は介護保険のお世話になっている。父は、軽く認知症の初期症状がみうけられ物事の管理ができなくなってきつつある。
ここで爺さん、婆さんの時代と違う点といえば、爺さん婆さんを支えた時は孫も含めて6人の家族全員が介護を行った。しかし、父母にすれば、息子の僕は近くではあるが離れて生活をしている。要するに父と母は「老老介護」なのである。ボケ始めた爺さんが母の移動を介護し、身体的障害に苦しむ母はボケ始めの夫に不足する記憶部分を補いながらの生活を維持している。不安と言えば不安であろう。また、ある面では、老老介護は自立という観点から考えると、一種有用な手段であるとも考えられる。これはかなり詭弁ではあるが、要するに年老いた家族が他に頼るところも無く自分頼みと感じた時に、意外としっかりと自分自身のエンパワーメントを活かした生活ができると言う事である。車は出来る限り運転した方が良い!自分が出来るところは他人に依存せず自分でやりましょう!病院巡りをしないで全てはホームドクターをもってお任せしましょう!等と号令をかけながら、出来る限りの現状維持を目指している状態である。これで、父母のいづれかが先立てば、残された方はどう生活するか?大きな問題が残される。通常であれば長男の僕が自宅に呼び寄せて生活を共にするべきであろうが、夫婦共働きでお互いに老人介護の生活を行っている者同士、なかなか自宅に年老いた老人を呼び寄せることは出来ない。これは、女房の父母にしても同じ環境であり、将来的に同じ問題を抱えている。
そして僕の時代がすぐにでもやってくる。僕の場合はボケる前に死んでしまう可能性は大きが、それでも何らかの形で人の世話にならなければ死ねない。そして家族と言えば女房だけ。子供が居ない。これは余談ながら、子供の居ない僕は、将来的に自分の最後を看取ってもらう為に太陽の家をつくった。そして、その時に適切な介護を受けれるように職員を丸めこもうとしている。今後介護保険制度が、どのように変化して行くのかは時代の流れと経済状況によって変わっていく。しかし、時代と共に高齢者への若者の感情の変化は著しい。家族で介護することが普通な時代から、核家族化し頼りの子供たちは離れて住み、それぞれが独立した経済生活を行い始めると経済的に裕福にはなりながらも、親を介護する観念が希薄となりつつあるように思える。
時代の流れと、欧米思想や人生そのものをゲーム感覚で生きようとする考え方など、世相によって老人介護の考え方は著しく変化している。高齢者の介護は負担が大きい。一人の高齢者を家族一人で介護する事は、介護保険の精度を活用しても難しい。昔の儒教の考え方の残る世代からすれば耐えられる(耐えようと努力する)介護も、今の時代では、掛る負荷から介護者の精神にまで大きなダメージを与えかねない。そんな時代背景の中で、高齢者となり自分の意思で物事を決定できない、その権力さえ奪われてしまう老人達は、家族の意向という一言で簡単に自宅から老人施設へ入居させられてしまう。その方が、要介護者にとって幸せだkらと言う家族の一方的な都合だけを言い訳にして放り込まれる。
しかし、これも時代の流れであり、完全に否定は出来ない。つまり、そうしないと家族全体の生活が成り立たなくなる時代であり、老人介護は専門機関に任せて、その家族は自分自身の本業に専念しなければ生きるための糧まで失いかねない厳しい社会があると言うことである。こう考えてくると分かってもらえるだろうか、時代の流れは、家族間の思いやりの形が変化してきていること。そして、仕方なく専門職に家族の介護を委ねなければならない現実とその中で捨てられた感情を抱く要介護者の気持ち。これらの世相を理解していかないと、今後の高齢者介護は出来なくなる。
僕は、太陽の家の職員には、この世相の違いを要介護者の年齢と生活歴、家族の考え方も含めて対応できるよう、そして、利用者の感情も理解できるように育ってほしいと願っている。
今日の反省。このブログを読まれる方にお教えするのは恥ずかしい内容なのですが、でも、今日の僕の対応の仕方は許し難く、その大きな反省を兼ねて皆さんにご報告いたします。
その内容とは、今日のお昼の時間に、偶然厨房の配膳台近辺で一緒になった女性スタッフに対する僕の対応は、最低の対応でした。彼女は、先日の僕のブログに彼女のお嬢さんの写真を掲載したことに対するお礼の言葉でした。彼女なりに感謝の気持ちを込めて「ありがとうございました!」と言ってもらったのですが、僕は、とっさにアホな対応をしてしまい。知ってるにもかかわらず「○○ちゃんって・・・誰や!?」とぶっきら棒に切り出したのです。これは、言い訳できるような次元では無いのと、その時に深く彼女を傷つけた事を感じました。彼女は、その時の怒りや不満を僕にぶつけることなく、只黙ってしまいました。僕も僕で、その場を取りつぐろうことなく、無視するような素振りになってしまったのです。
ちょうどこの日は、僕にとっては体調が昨夜から優れず、食欲もなく、しぶしぶお昼ご飯をたべなきゃ!と自分に言い聞かせるような体調だったことが唯一の僕の弁明にあたるのかもしれない。しかし、僕も経営者の端くれ。こんな体調不良を理由に職員さんにストレートに自分の感情をむき出しにするのは、如何に人間が小さいか!と言ってるようなもの。恥ずかしい限りである。
人の上に立つ者として、やはりどんな場面でも、どんな状況でも、弱い者をかばう。自分よりも年下の者を守るという観念が無ければ、人を指導することは出来ない。そう言う意味においても、今日の僕の言葉は、人として重要な部分が欠けていた。常に、自分なりに、うちの太陽の家で働いてくれる職員さんの全て、そして関係する業者の皆さんには感謝の気持ちと、その人たちを思いやる気持ちを大切に考えているような、ブログを書いてる割にはお粗末な行為でした。
メジャーリーグのテレビ放送を見ていて、いつも芝生の養生の素晴らしさに驚かされる。アメリカで一番ポピュラーな芝生の種類がケンタッキーブルーグラスと言う種類ですが、この芝生の特徴として生育が早い、葉がしなやかで青色が年間を通して継続する、但し、水分を多く必要とし夏の盛りには一週間に一回は芝刈りが必要である。葉っぱがしなやかな分、芝刈りの方向に芝自体が寝る傾向があり、それによって見た目に縞模様が出来やすい。アメリカのベースボールフィールドは、この芝の特性を利用して、見事なまでの幾何学模様を造りだしている。要するに縦じま、横じまを組み合わせたりして碁盤の目模様を造ったりしている。
僕もアメリカ留学時代には、アルバイトの一環で芝刈りの仕事をしていたのです。給料はとても安く、一流のガーデナーが稼ぐ金額の十分の一程度。金額にして一時間で2ドル程度のお金をもらって働いていた時を思い出します。雇い主は地元の有力者達。高級住宅地に広大な庭と邸宅を構え、芝生の面積も日本では考えられない程の大きさだったのです。前庭と邸宅の裏庭等を合わせると、日本の一般的な住宅が10戸は建築できる広さがあるのです。その芝生をエンジン付きの芝刈り機で刈り込んで行くのですが、まず建物に沿って縦に交互に刈り込んで行き縞模様を造ります。その後、最終的に芝生の外周に沿って刈り込んで行くのです。最後にヘッジトリマーなる散髪機に小型版を使って、芝生の縁の刈り込みを行います。これで前庭を終了。同じように裏庭の刈り込みを行います。裏庭は何処の庭も形が歪で、素直な円形や四角などの形は少なく結構独創的な形が多く、刈り込みに時間がかかります。全部の芝を刈りとって、芝の水やりを行い全て終了。ここまでで約半日はかかります。それで8ドルから10ドルですから安いですね。でも、学生の僕には大金でとても重要な生活費になっていたのです。
さて、話が脱線しましたが、アメリカ人にとって芝生の持つ意味はとても大きな資産と同じで、芝生の手入れ次第によって、その家の資産価値が変わるのですから大変です。アメリカの色々な地方都市を回れば、それぞれが庭の敷地の大小はあっても、必ず庭には植木と芝生が育てらています。生活レベルの差によって庭の手入れに格差があります。一般的より多少下がる低所得者層の住む地域では、それなりに芝生にも雑草が生え、芝生自体の色も濃い緑ではなく、枯れた茶色の部分が増えてきます。高額所得者達は、そんな隣人の住む地域には住みたくないのと同じで、自分達はそれなりの地域にかたまって生活します。だから、街を走っていて芝生の手入れをみれば、その地区の住民の所得レベルがうかがい知れるのです。
さて、もう一度、芝生の育て方を紹介すれば、アメリカでは、まず土壌の整備から入ります。これは、日本でも同じ。芝を植える地面を掘り起こして、想定される基準値より芝の厚みや土壌改良に入れる砂を多く含んだ土を入れて平らにならします。それを適度に圧縮した上に、すでに生育した芝生のロール(日本ではブロックサイズに切り取られた高麗芝を並べていきますが)幅50センチ×1メートルくらいの長さにはぎ取られた芝生をロールにして販売されているものを並べていきます。並べ終わった芝生の継ぎ目に、先ほどの特殊な土をかぶせながら、圧縮ローラーを転がして表面の高さを揃えていきます。こうやって1カ月もすれば、庭先に素晴らしい青々とした芝生の庭が広がります。そして、1カ月に一回程度の肥しを与え、害虫の駆除、除草を行い、毎日のたっぷりな水やりを欠かさなければOK。簡単に言うものの芝生を管理すると言う事は、労力も費用もかかる一大事業なのです。そんなアメリカ人の気質が、そのままベースボールフィールドに反映されており、テレビの画面に映し出される芝生の青さに、アメリカ人の生活の質の向上に芝生と言うのは大きなカギを握っている事を感じてしまうのです。