前回に引き続き、今話題の学校の問題について書いてみたい。
イジメに関して、社会全体が大きな関心を示している今、あらゆるテレビ局のワイドショーにまで取り上げられるいじめ問題。全体的に教育者や教育現場である学校と言う組織が標的となっているように思うが、これって、どうなの~???
日本の社会の典型的のような事象が、今のいじめ問題への社会の視点ではないか?何を改善すれば良い理論ではなく、誰をターゲットにして改善を求めるのか?と、社会の視点に偏りが出ているように思えて仕方ない。確かに、今回の大津市の教育現場で発生した、生徒の自殺に絡んだ諸問題は教育委員会や学校側の対応のまずさが標的とされ、今ではマスメディアのすべてが、学校長や教育委員会バッシングに傾倒している。イジメの根本に隠されている本質も、イジメの捉え方も議論されず、ただ単に子供を守ることができなかった学校組織を敵視する方法は、中世ヨーロッパの魔女狩りのように思えるのは、日和見的な僕だけの感情かしら・・・?
以前、うちの施設で働いてくれてたスタッフが、このようなイジメが起きやすい社会の中で成長してきた子だった。就労期間はそれほど長くはないが、それでも一生懸命に働いてくれた。ただ少しだけ、自分中心のものの考え方が介護の世界では通用しないものがあった。高齢者は、自分の余生が限られている分、ある意味我儘な存在である。また、重複する持病による苛立ちや不安感情が若者よりも多く、その分生きる希望を失いがちである。そのような現場にいて、若者視点で現代の流行を押し付けても、高齢者はなじんではもらえない。逆に介護する者として、周りからも浮き上がってしまうようになってしまった。前回のブログにも書いたように、話さなくても分かり合える時代から話してもわからない時代の子なのである。高齢者どころか我々、管理者側からも理解できにくい状況に悩んだものであった。この子は、この子なりに一生懸命、社会福祉を学び、自分なりに努力してなじもうとしていたはずである。しかし、この子と周囲との壁は厚く、高くなる一方でった。そして、最終的に事業所を去って行った。
小学生でも中学生でも、学校に来ている以上は、その子たちの命を守る義務が学校にはある。義務と言うより、学校の教育者として、きょうしとして自らの倫理観から自分の教え子たちを守ろうとするはずである。しかし、ここには、教師と生徒と言う普段からの主従関係の構築があって初めて成り立つ観念ではないのだろうか?今の学校には、親と同じだけの思いやりを持った教育者が少ない。その理由に、親族が他人である教育者による躾や教育を望んでいないのではないか?!少子化社会となり、親が四六時中、我が子をかまい、躾けることが可能となった今、自分以外の大人に左右される子供には育てたくない感情が親の方にも存在する。そのくせ、一つことが起これば、すべての責任は教育現場の教師に押し付けられる。これは、完全に不公平な状況ではないか? 親が教育者に自分の子供の教育を託すことができない社会となりつつあるのであれば、そこに生徒同士のイジメが発生しても、それは親の責任ではないのか?ましてや、そんな現場に警察が介入することは、古来からの信頼関係の厚い日本社会の崩壊ではないか?
このイジメの問題で揺れる学校で教育を受けている子供たちが、次の社会福祉を担う人々となるわけだが、学校で無難なく時間を過ごさせてもらい、家庭では、父親よりも尊重され大事に、自由に、そして家庭の中心的存在として育て上げられた子供たちである。高齢者介護なんて、面倒くさい、臭い、キツイ仕事について、自分の我を捨てて専門性に徹することって可能なのだろうか?大きな疑問である。
イジメをイジメとして理解するのではなく、一つの厳しい社会勉強であり、そんな社会にも順応できるたくましさを教える機関が求められる。別の組織ではない、文部科学省直轄でも何でもない、昔のように単なる近所のおっさんやおばちゃんたちの輪や、世話焼き婆の存在こそが、社会的な苛めの撲滅や、ヤンキー撲滅につながるソサエティーの姿ではないのだろうか?
世の中の定年退職を求められた60歳以上の中年オッサンやオバやんこそ、子供達の目の上のコブの存在になるべきであろう。そして、こんな機関を作って、定年後の第2の人生に行政が支援を行えば、それこそ一挙両得ではないのか?
このところの新聞テレビでは、大津の中学生の飛び降り自殺に関する学校側の対応のまずさに関する報道が大きく取り上げられている。特に学校や教育現場で発生する諸問題は、最近の傾向として、非常に大きく取り上げられる傾向にある。生徒のイジメや自殺に対して、社会全体がとても神経質にならざるを得ない。そんな殺伐とした若年社会の成り立ちに、大人社会が対応でき切れていない現状では仕方ないのかもしれない。
こと若年者の自殺と言う課題に対しては、過去も現在も隔たりなく存在した。とかく社会のセーフティーネットが問題視されがちではあるが、ある意味、自殺者を救うことの難しさは過去よりも今の時代の方が大きいのではないかと思われる。私たちの子供のころにもイジメは存在した。イジメだけではない、教師によるあからさまな依怙贔屓(えこひいき)も存在した。特に裕福な家庭の子供は優遇された。また、社会自体が高度成長のどっ真ん中の時代、どこの家庭も共働きで、家庭を顧みない親父や、子供だけが誰も居ない家に帰って、一人でやるべきことをやっていた時代でもある。俗に言う「かぎっ子」の時代である。そんな家庭環境は普通であり、生きていくためには「仕方ない・耐え忍ぶ」状況を子供たちも理解していた。文学青年は己の純真さを守るために自殺を選び、汚染された社会に染まることを拒み続けた。
以前の僕のブログでも書いたが、自分たちが子供のころには、多面的な生き残れる組織が形成されていた。それぞれの組織にはガキ大将が存在し、それらの大将に守られながら、ひ弱な子供たちは守られていた。徒労を組むと言う表現があるが、まさしくその通りの組織が存在したのである。気の合ったもの同士、同じ趣味や活動を絆として結びつきやすい軍団である。我々の子供時代は、今の子供たちに比べれば、このような人間関係に守られ、同調しながら生活ができた時代である。それに比べると、今の子供たちは、家庭と学校の二つに一つしかソサエティーなるものが存在しないのではないか?学校教育の場以外では習い事や塾に追われ、プライベートな生活を機械相手のゲーム対戦にしか求めることができない。非常に人間関係が希薄になった社会となってきているのではないか?!
それと今、僕が読んでいる社会学の本が、今の日本社会、とりわけ、今回の自殺に対応する学校関係者の問題を端的に物語っているように思うのである。榎本博明著「すみません」の国と言う本である。榎本氏は、この著書の中で、日本人特有のコミュニケーション方法として、悪いと思っていないのに、とりあえず謝る日本人であり、そこに潜む思いやりに基づく奥ゆかしい美しい二重構造が、日本人が他者に対して、自分自身の意見や思いを伝え、理解してもらうことよりも、まずはその場の雰囲気をよくすることを目的とすると解説する。場の雰囲気を保つことで、相手を傷つけることなく、暗黙の了解を取りえることを一番の目的とするコミュニケーションのあり方を日本流としている。
同時に多種多様な人種の寄り集まりの欧米社会に比べても、単一民族の日本人社会では「話さなくてもわかる」という状況が存在しうるのである。しかし、高度成長の時代から、田舎から都会へ、都会から田舎へ、仕事の都合によって日本人社会にも大きな移動が始まり、海外からの文化も大量に流入し始めた今、今までのような「はなさなくても分かる」そのような環境が崩壊し始めているのかもしれない。
日本人のワビ・サビと言う、古来の文化は、相手の心情を徹底的に考え、相手を逃げ場のない環境に追い込むことのない配慮を持って成立していた。この配慮こそが、欧米人からすれば理解に苦しむ日本流と言われるコミュニケーションの文化である。
今回の自殺にからんで状況説明を行っている教育関係者に対して、社会全体がバッシングを与えているよう雰囲気である。確かに、あの東日本大震災の時の原発事故に対応していた東京電力の応対の仕方や、今回の教育現場の人々の事情説明にしても、歯がゆいばかりで革新に到達していかない。嫌な日本流のコミュニケーションが、そのまま表出しているのである。しかし、確かに子供の教育現場でイジメを放置したり、自殺を未然に防ぐことができなかった事は大きな問題ではある。しかし、この問題は、日本人であって、日本の社会で生きる上では、ある意味仕方ない社会の歴史ってのが大きな影を落としているようで仕方がない。社会が欧米化しきれてない、日本人特有の理念が時代に沿っていない。大きなうねりの中で、人の力では何ともしようのない、厳しい現実社会が立ちはだかっているようで、被害者家族の気持ちも理解できるし、学校関係者の気持ちも理解できるのだが・・・・これを日和見というのだろうか・・??
ブログを更新することって、意外と忍耐を必要とするものなのです。耐え忍ぶと言っても、苦痛に耐え忍ぶことではなく、夜になってブログ更新の時間が近くなると睡魔に襲われる。そんな睡魔と戦うことからブログ更新はスタートするのですが、ここ数日、そんな睡魔に完敗状態となり、更新がままならなかったのです。
さて、今日、職員と会話する中で、タンス預金の話題があった。へそ食ったお金の在り処と行為自体を忘れてしまい、どこに幾らのヘソクリが存在するのか、すべては望郷の彼方!と化してしまうのです。認知症のじいさん、ばあさんでなくとも、自分がちょっとした思い付きで、少額紙幣をタンスの隅にでも押し込んでしまおうものなら、それこそ、そんなはした金の所在が分からなくなるのは当然の話である。
しかし、突然、何の気なしにタンスの奥から引っ張り出したジャケットのポケットから一万円札が出てきたら・・・大掃除をしている最中に台所の米櫃の下から数万円入りの紙袋が出てきたら・・・そりゃあ嬉しい! 嬉しいどころか、何だか得したような気分になるのは、みなさん同じなようですね。それが、もともと自分の懐から出ているにも拘らず、とても得した気分。これって可笑しいですね。
この隠し資金ですが、家の中を丹念に掃除してみれば、意外とたくさんの埋蔵金が残されているのかもしれません。一頃の政界ニュースでもありました埋蔵金。何も気づかずゴミとして処分されてしまうかもしれないのですが、処分したとしても気づかないモノですから、物を処分するには十分な確認が必要ですね。ひょっとすると、あなたのお家にも、誰も気づかない場所にどっさりと埋蔵金が埋もれているのかもしれませんよ!
要介護高齢者のお世話ってのは、本当にしんどい。こんな本音を介護を生業とする者は言ってはいけないが、ここでは敢えて話題として取り上げたい。
今日のデイサービス、朝の送迎が終了し、サービス提供開始時間頃には、ぞくぞくと利用者が入ってきた。元気な声で朝のご挨拶を掛け合いながら、利用者のみなさんを迎え入れる。車いす、歩行器、シルバーカーや杖など、いろいろな補助具を使ってやってくる利用者達。朝の様子もマチマチである。元気いっぱいの方もいれば、何だか朝から不機嫌な方、黙って職員のご挨拶を無視する方など、本当に様々な人間模様が見受けられる。そして、利用者の皆さんは、それぞれ予定された席に着き、個別に馴染みの利用者同士に世間話の花が咲く。
大体が、毎日、このような雰囲気で一日のスタートを迎えることとなるが、中で必ず一人、二人の利用者が大声で叫ぶ。ちょっとした誤解か気に障ることが原因で、瞬間的に激昂してしまうのである。利用者達は慣れっこになっているのか、そんな大声でわめき散らす人を横目に苦笑する。と言った状況である。職員も慣れたもので、そんな恫喝にちかい大声にも、ビクともせずに相手の気分を逆撫でしないようにしている。
暴言には、それなりの理由があると認知症介護の研修で教わった職員たちは、この様な状況の時には、一生懸命考えようとする。まず、自分が何か気に入らない種をまいたのか?周りの人たちの何かが影響を及ぼしているのか?はたまた、何か体調に異変があるのか…?などである。結局、それらの大半は、本人の[ 理由ある訴え ]という結論に達する場面が多いわけだが、これら「訴え」ってのは、老人に多く見られる。孤立感から、身体の自由が阻害される苛立ち、大半は物事が自分の思うように進まない苛立ちを原因として、比較的頻繁に起こっているのが現状であり、男性には「怒鳴りつける」や「手をあげる」など。この要介護者の苛立ちの原因究明に、介護職員は思考回路をフル稼働してしまうことになる。「多面的に考えろ!」と教育されているから、いろいろな角度から原因究明を行う。考えを巡らすことは、結構疲れる。ましてや、その人の生活歴や性格、好みまで熟知してなければならない。ここに至るには、十分な基礎的な情報を予習しておかねばならない。これらが職員のストレスとなる。
職員のストレスの要因となるもう一つの理由がある。それは、朝から不穏な精神状態の利用者、家を出るときに家人と何かの行き違いがあった可能性は捨てきれなくとも、このデイサービス施設に来ることを楽しみにしている利用者ならば、それほどのご機嫌斜め状態にはならない。と言う理論が成り立ち、デイサービスを楽しいものにしなければ!と言う強制観念に襲われる。
いずれにせよ、介護施設の職員ってのは、すべてに関して受け身である。飛行機会社のフライトアテンダントにしろ、高級リゾートホテルのスタッフにしろ、はたまたタクシーの運転手さんにしろお客に対しては、完全に受け身である。これらの職業の人たちは、お客に非があっても叱りつけるようなことはしない。怒り散らし、文句を言うのは客の方であって、受け手側の我々から利用者(つまりはお客様)に向かって文句は言わない。そこには、プロとしてのプライドがあるからである。
如何なる要望にも、適切にお応えする力を持ち合わせていなければいけない職業が、これらのヒューマンサービスと言われる職種である。私たちはプロとして、顧客満足(CS)を最大の目標として、日々研鑽に努めなければいけないわけで、そのためにキャリアパスと呼ばれる、自己研鑽と自己実現に向けてのステップアップ指標をこなしていかなければいけない。ヒューマンサービスってのは、それこそストレスとの戦いのような職種であって、決して生易しい、気楽な業務ではない。職がないから介護の世界に首を突っ込んで見たと面接の場で言われることがある。しかし、それまで機械相手の業務に就いていた人々が、何の経験もなくヒューマンサービスの世界に対応できるはずがない。機械相手の仕事に思いやりが不必要とは言わない、そこには、エンドユーザーの使い勝手を考えながら作業する人も居るはずだ。しかし、我々の実践しているケアの世界には、常に考えながらの作業の連続であり、時間まで決められた作業をこなせば終了と言う世界ではないことが大きな違いである。相手は、人間であり、いく万通りもの要望や欲求を抱えて、それらのすべてを満たしていかなければならない。そんな業務である。
要介護者には、残された時間に限りがある。ある程度、自身でも余生の時間を認識している毎日であろう。だからこそ、日々に苦しみや悲しみ・痛みの無い時を過ごしたいのであろう。僕自身も58歳となって、残りの時間を考えるときがある。今まで過ぎてきた時間の倍は無理だろう!と考える。すると20年?はたまた10年?と考えてしまう。何れにせよ、残された時間に限りがある以上、今の時を大切にしたい。この時間に対する認識の違いが介護職と要介護者の感情の食い違いを生み出す要因となっている。しかし、これとて、すべての人間が通る道。他人の余生なんて関係ないさ!となりがちである。実際、年寄りの愚痴なんて誰も聞きたくはない。しかし、ここで私たちが仕事を放棄したら、聴く義務を放棄したら・・・誰が私たちが年老いて認知症となった時に訴えを聞いてくれるのだろうか? 子供は親の背を見て育つという。私たち介護を担う者たちが責任を全うできず、義務を放棄したときに、社会は崩壊する。単純なことである。社会保障の崩壊した国に誰しも暮らしたくはない。
高齢者介護や障碍者福祉の業務を生産性のない仕事と言う輩がいる。確かに生産性と言う点から見れば正しい。高齢者にしろ障碍者から、世界の先端を行く技術やモノは生まれてこない。ましてや作業にも役立たない。しかし、こんな世界だが、人生の最終ステージとすれば、切り捨てることは出来ない。もう少しわかりやすく考えるならば、若いうちは病気知らずである。何を食っても食わなくても健康な連中は健康であり、病院なんて関わることなく過ごすことができる。しかし、中には運悪く、病院のお世話にならざるを得ない境遇だって存在する。また中年となり、それまでの不摂生が祟って病院のお世話になるものが出始める。そして、いよいよ人生の最終ステージの年齢となると、人は次第に壊れ始める。体が壊れる、頭が壊れる、心が壊れる。その結果、壊れたまま普段の生活を維持できにくくなり、我々のような専門職のいる施設の支援を受けることとなる。自分で自分の命をコントロールできない以上、命運尽きるまでは天のみぞ知る!である。 生産性がないという理由だけで切り取られてしまう人生だとすれば、使い捨てのような人生を誰しも送りたいとは思わない。そんな社会があるとすれば、悲惨である。働かせるだけ働かせて、不都合が出た時点で摘み取られるように処分される。そんな冷たい処に住みたくはない。だから、私たちの介護の仕事って重要であり、とても誇らしい仕事であると思っている。
しんどい!汚い!臭い!キツイ!この仕事って、この言葉が勝手に独り歩きしている。ここにしかない喜びや達成感はどこに行ったやら。達成感が紛失した理由は事業所側の考え方に由来する。これについて書き始めると切がない。次の機会として、介護の現場はしんどい。そんなしんどい介護を毎日実践してくれている職員が居る。それを要介護者も家族も施設経営者も分からなくてはいけない。
大事にしていた僕専用のマグカップにヒビが入った。ちょうど10年ほど愛用したアメリカ製のマグカップである。タイトルにも書いたように、マグの側面には「Me Boss.You Not」と書き込まれている。日本語に訳してみれば「俺、ボス! 君、違う」ってことかな・・・ 変に視点を変えれば、マグカップこそボスで、そのマグを使う僕はボスではない!とも理解できるねえ・・・何を起点としてモノを見るかによって、こんなにも捉え方は変わってしまうのですね。
このマグカップにしても年数が経てば劣化していく。人間だって同じで、年数が経てば壊れてくる部所も増える。今日、デイサービスの利用者の一人が話をしてくれた。朝起きた時に、最近は腰の部分に痛みがあって、すぐに起きられなくなってきた。と言っていた。年齢も年齢だけに、体の至る所に痛みが起きる。潤滑油もふんだんに回っている新車も、古くなるとアチコチにガタがきて乗っていても運転しづらくなってくる。それと同じことが人間にも起きている。ベッドの上で、軽く腕や足を曲げたり伸ばしたり、寝返りをうったりしながら、ゆっくりと起き上がるように体を慣らしてみると痛みが和らぐのではないですか?とアドバイスをしてみた。それと同時に、58歳の僕にしても、今や同じような症状が朝起きがけに痛みが伴っているよ!とお話をした。58歳でも同じように体が硬縮して、朝起きたばかりは、体のあちこちに痛みが伴う。同じですよ!人間ですから・・・と言うと、結構安心したような顔をして笑っていた。
年をとっても体の些細な不調も気になることは同じで、その些細な不安感情が、夜の睡眠を阻害し、昼間に眠気が襲う、昼夜逆転の始まりである。走行している間に、人間は幻覚、妄想を認識するようになり、大脳器質に巣が入り始める。認知症である。記憶も遠のき、食った昼飯も忘れ、いつの間にか食いすぎで、胃と腸は悲鳴を上げながら嘔吐へとつながっていく。
人間の体は、すべてがマインドコントロールされており、病は気から!と言われるように、こころ次第で体は動くようです。リハビリの先生が言っていた。「心が動けば、体も動く」 鬱の患者さんも主体的になることが病の改善に一番良い結果をもたらすそうだ。
何でも気持ち!考え方!それと視点!それぞれを自分なりに変えてみれば、小さな変化かもしれないが結果は大きな成功に結びつくかもしれない。