


このところの新聞テレビでは、大津の中学生の飛び降り自殺に関する学校側の対応のまずさに関する報道が大きく取り上げられている。特に学校や教育現場で発生する諸問題は、最近の傾向として、非常に大きく取り上げられる傾向にある。生徒のイジメや自殺に対して、社会全体がとても神経質にならざるを得ない。そんな殺伐とした若年社会の成り立ちに、大人社会が対応でき切れていない現状では仕方ないのかもしれない。
こと若年者の自殺と言う課題に対しては、過去も現在も隔たりなく存在した。とかく社会のセーフティーネットが問題視されがちではあるが、ある意味、自殺者を救うことの難しさは過去よりも今の時代の方が大きいのではないかと思われる。私たちの子供のころにもイジメは存在した。イジメだけではない、教師によるあからさまな依怙贔屓(えこひいき)も存在した。特に裕福な家庭の子供は優遇された。また、社会自体が高度成長のどっ真ん中の時代、どこの家庭も共働きで、家庭を顧みない親父や、子供だけが誰も居ない家に帰って、一人でやるべきことをやっていた時代でもある。俗に言う「かぎっ子」の時代である。そんな家庭環境は普通であり、生きていくためには「仕方ない・耐え忍ぶ」状況を子供たちも理解していた。文学青年は己の純真さを守るために自殺を選び、汚染された社会に染まることを拒み続けた。
以前の僕のブログでも書いたが、自分たちが子供のころには、多面的な生き残れる組織が形成されていた。それぞれの組織にはガキ大将が存在し、それらの大将に守られながら、ひ弱な子供たちは守られていた。徒労を組むと言う表現があるが、まさしくその通りの組織が存在したのである。気の合ったもの同士、同じ趣味や活動を絆として結びつきやすい軍団である。我々の子供時代は、今の子供たちに比べれば、このような人間関係に守られ、同調しながら生活ができた時代である。それに比べると、今の子供たちは、家庭と学校の二つに一つしかソサエティーなるものが存在しないのではないか?学校教育の場以外では習い事や塾に追われ、プライベートな生活を機械相手のゲーム対戦にしか求めることができない。非常に人間関係が希薄になった社会となってきているのではないか?!
それと今、僕が読んでいる社会学の本が、今の日本社会、とりわけ、今回の自殺に対応する学校関係者の問題を端的に物語っているように思うのである。榎本博明著「すみません」の国と言う本である。榎本氏は、この著書の中で、日本人特有のコミュニケーション方法として、悪いと思っていないのに、とりあえず謝る日本人であり、そこに潜む思いやりに基づく奥ゆかしい美しい二重構造が、日本人が他者に対して、自分自身の意見や思いを伝え、理解してもらうことよりも、まずはその場の雰囲気をよくすることを目的とすると解説する。場の雰囲気を保つことで、相手を傷つけることなく、暗黙の了解を取りえることを一番の目的とするコミュニケーションのあり方を日本流としている。
同時に多種多様な人種の寄り集まりの欧米社会に比べても、単一民族の日本人社会では「話さなくてもわかる」という状況が存在しうるのである。しかし、高度成長の時代から、田舎から都会へ、都会から田舎へ、仕事の都合によって日本人社会にも大きな移動が始まり、海外からの文化も大量に流入し始めた今、今までのような「はなさなくても分かる」そのような環境が崩壊し始めているのかもしれない。
日本人のワビ・サビと言う、古来の文化は、相手の心情を徹底的に考え、相手を逃げ場のない環境に追い込むことのない配慮を持って成立していた。この配慮こそが、欧米人からすれば理解に苦しむ日本流と言われるコミュニケーションの文化である。
今回の自殺にからんで状況説明を行っている教育関係者に対して、社会全体がバッシングを与えているよう雰囲気である。確かに、あの東日本大震災の時の原発事故に対応していた東京電力の応対の仕方や、今回の教育現場の人々の事情説明にしても、歯がゆいばかりで革新に到達していかない。嫌な日本流のコミュニケーションが、そのまま表出しているのである。しかし、確かに子供の教育現場でイジメを放置したり、自殺を未然に防ぐことができなかった事は大きな問題ではある。しかし、この問題は、日本人であって、日本の社会で生きる上では、ある意味仕方ない社会の歴史ってのが大きな影を落としているようで仕方がない。社会が欧米化しきれてない、日本人特有の理念が時代に沿っていない。大きなうねりの中で、人の力では何ともしようのない、厳しい現実社会が立ちはだかっているようで、被害者家族の気持ちも理解できるし、学校関係者の気持ちも理解できるのだが・・・・これを日和見というのだろうか・・??
ブログを更新することって、意外と忍耐を必要とするものなのです。耐え忍ぶと言っても、苦痛に耐え忍ぶことではなく、夜になってブログ更新の時間が近くなると睡魔に襲われる。そんな睡魔と戦うことからブログ更新はスタートするのですが、ここ数日、そんな睡魔に完敗状態となり、更新がままならなかったのです。
さて、今日、職員と会話する中で、タンス預金の話題があった。へそ食ったお金の在り処と行為自体を忘れてしまい、どこに幾らのヘソクリが存在するのか、すべては望郷の彼方!と化してしまうのです。認知症のじいさん、ばあさんでなくとも、自分がちょっとした思い付きで、少額紙幣をタンスの隅にでも押し込んでしまおうものなら、それこそ、そんなはした金の所在が分からなくなるのは当然の話である。
しかし、突然、何の気なしにタンスの奥から引っ張り出したジャケットのポケットから一万円札が出てきたら・・・大掃除をしている最中に台所の米櫃の下から数万円入りの紙袋が出てきたら・・・そりゃあ嬉しい! 嬉しいどころか、何だか得したような気分になるのは、みなさん同じなようですね。それが、もともと自分の懐から出ているにも拘らず、とても得した気分。これって可笑しいですね。
この隠し資金ですが、家の中を丹念に掃除してみれば、意外とたくさんの埋蔵金が残されているのかもしれません。一頃の政界ニュースでもありました埋蔵金。何も気づかずゴミとして処分されてしまうかもしれないのですが、処分したとしても気づかないモノですから、物を処分するには十分な確認が必要ですね。ひょっとすると、あなたのお家にも、誰も気づかない場所にどっさりと埋蔵金が埋もれているのかもしれませんよ!
要介護高齢者のお世話ってのは、本当にしんどい。こんな本音を介護を生業とする者は言ってはいけないが、ここでは敢えて話題として取り上げたい。
今日のデイサービス、朝の送迎が終了し、サービス提供開始時間頃には、ぞくぞくと利用者が入ってきた。元気な声で朝のご挨拶を掛け合いながら、利用者のみなさんを迎え入れる。車いす、歩行器、シルバーカーや杖など、いろいろな補助具を使ってやってくる利用者達。朝の様子もマチマチである。元気いっぱいの方もいれば、何だか朝から不機嫌な方、黙って職員のご挨拶を無視する方など、本当に様々な人間模様が見受けられる。そして、利用者の皆さんは、それぞれ予定された席に着き、個別に馴染みの利用者同士に世間話の花が咲く。
大体が、毎日、このような雰囲気で一日のスタートを迎えることとなるが、中で必ず一人、二人の利用者が大声で叫ぶ。ちょっとした誤解か気に障ることが原因で、瞬間的に激昂してしまうのである。利用者達は慣れっこになっているのか、そんな大声でわめき散らす人を横目に苦笑する。と言った状況である。職員も慣れたもので、そんな恫喝にちかい大声にも、ビクともせずに相手の気分を逆撫でしないようにしている。
暴言には、それなりの理由があると認知症介護の研修で教わった職員たちは、この様な状況の時には、一生懸命考えようとする。まず、自分が何か気に入らない種をまいたのか?周りの人たちの何かが影響を及ぼしているのか?はたまた、何か体調に異変があるのか…?などである。結局、それらの大半は、本人の[ 理由ある訴え ]という結論に達する場面が多いわけだが、これら「訴え」ってのは、老人に多く見られる。孤立感から、身体の自由が阻害される苛立ち、大半は物事が自分の思うように進まない苛立ちを原因として、比較的頻繁に起こっているのが現状であり、男性には「怒鳴りつける」や「手をあげる」など。この要介護者の苛立ちの原因究明に、介護職員は思考回路をフル稼働してしまうことになる。「多面的に考えろ!」と教育されているから、いろいろな角度から原因究明を行う。考えを巡らすことは、結構疲れる。ましてや、その人の生活歴や性格、好みまで熟知してなければならない。ここに至るには、十分な基礎的な情報を予習しておかねばならない。これらが職員のストレスとなる。
職員のストレスの要因となるもう一つの理由がある。それは、朝から不穏な精神状態の利用者、家を出るときに家人と何かの行き違いがあった可能性は捨てきれなくとも、このデイサービス施設に来ることを楽しみにしている利用者ならば、それほどのご機嫌斜め状態にはならない。と言う理論が成り立ち、デイサービスを楽しいものにしなければ!と言う強制観念に襲われる。
いずれにせよ、介護施設の職員ってのは、すべてに関して受け身である。飛行機会社のフライトアテンダントにしろ、高級リゾートホテルのスタッフにしろ、はたまたタクシーの運転手さんにしろお客に対しては、完全に受け身である。これらの職業の人たちは、お客に非があっても叱りつけるようなことはしない。怒り散らし、文句を言うのは客の方であって、受け手側の我々から利用者(つまりはお客様)に向かって文句は言わない。そこには、プロとしてのプライドがあるからである。
如何なる要望にも、適切にお応えする力を持ち合わせていなければいけない職業が、これらのヒューマンサービスと言われる職種である。私たちはプロとして、顧客満足(CS)を最大の目標として、日々研鑽に努めなければいけないわけで、そのためにキャリアパスと呼ばれる、自己研鑽と自己実現に向けてのステップアップ指標をこなしていかなければいけない。ヒューマンサービスってのは、それこそストレスとの戦いのような職種であって、決して生易しい、気楽な業務ではない。職がないから介護の世界に首を突っ込んで見たと面接の場で言われることがある。しかし、それまで機械相手の業務に就いていた人々が、何の経験もなくヒューマンサービスの世界に対応できるはずがない。機械相手の仕事に思いやりが不必要とは言わない、そこには、エンドユーザーの使い勝手を考えながら作業する人も居るはずだ。しかし、我々の実践しているケアの世界には、常に考えながらの作業の連続であり、時間まで決められた作業をこなせば終了と言う世界ではないことが大きな違いである。相手は、人間であり、いく万通りもの要望や欲求を抱えて、それらのすべてを満たしていかなければならない。そんな業務である。
要介護者には、残された時間に限りがある。ある程度、自身でも余生の時間を認識している毎日であろう。だからこそ、日々に苦しみや悲しみ・痛みの無い時を過ごしたいのであろう。僕自身も58歳となって、残りの時間を考えるときがある。今まで過ぎてきた時間の倍は無理だろう!と考える。すると20年?はたまた10年?と考えてしまう。何れにせよ、残された時間に限りがある以上、今の時を大切にしたい。この時間に対する認識の違いが介護職と要介護者の感情の食い違いを生み出す要因となっている。しかし、これとて、すべての人間が通る道。他人の余生なんて関係ないさ!となりがちである。実際、年寄りの愚痴なんて誰も聞きたくはない。しかし、ここで私たちが仕事を放棄したら、聴く義務を放棄したら・・・誰が私たちが年老いて認知症となった時に訴えを聞いてくれるのだろうか? 子供は親の背を見て育つという。私たち介護を担う者たちが責任を全うできず、義務を放棄したときに、社会は崩壊する。単純なことである。社会保障の崩壊した国に誰しも暮らしたくはない。
高齢者介護や障碍者福祉の業務を生産性のない仕事と言う輩がいる。確かに生産性と言う点から見れば正しい。高齢者にしろ障碍者から、世界の先端を行く技術やモノは生まれてこない。ましてや作業にも役立たない。しかし、こんな世界だが、人生の最終ステージとすれば、切り捨てることは出来ない。もう少しわかりやすく考えるならば、若いうちは病気知らずである。何を食っても食わなくても健康な連中は健康であり、病院なんて関わることなく過ごすことができる。しかし、中には運悪く、病院のお世話にならざるを得ない境遇だって存在する。また中年となり、それまでの不摂生が祟って病院のお世話になるものが出始める。そして、いよいよ人生の最終ステージの年齢となると、人は次第に壊れ始める。体が壊れる、頭が壊れる、心が壊れる。その結果、壊れたまま普段の生活を維持できにくくなり、我々のような専門職のいる施設の支援を受けることとなる。自分で自分の命をコントロールできない以上、命運尽きるまでは天のみぞ知る!である。 生産性がないという理由だけで切り取られてしまう人生だとすれば、使い捨てのような人生を誰しも送りたいとは思わない。そんな社会があるとすれば、悲惨である。働かせるだけ働かせて、不都合が出た時点で摘み取られるように処分される。そんな冷たい処に住みたくはない。だから、私たちの介護の仕事って重要であり、とても誇らしい仕事であると思っている。
しんどい!汚い!臭い!キツイ!この仕事って、この言葉が勝手に独り歩きしている。ここにしかない喜びや達成感はどこに行ったやら。達成感が紛失した理由は事業所側の考え方に由来する。これについて書き始めると切がない。次の機会として、介護の現場はしんどい。そんなしんどい介護を毎日実践してくれている職員が居る。それを要介護者も家族も施設経営者も分からなくてはいけない。
大事にしていた僕専用のマグカップにヒビが入った。ちょうど10年ほど愛用したアメリカ製のマグカップである。タイトルにも書いたように、マグの側面には「Me Boss.You Not」と書き込まれている。日本語に訳してみれば「俺、ボス! 君、違う」ってことかな・・・ 変に視点を変えれば、マグカップこそボスで、そのマグを使う僕はボスではない!とも理解できるねえ・・・何を起点としてモノを見るかによって、こんなにも捉え方は変わってしまうのですね。
このマグカップにしても年数が経てば劣化していく。人間だって同じで、年数が経てば壊れてくる部所も増える。今日、デイサービスの利用者の一人が話をしてくれた。朝起きた時に、最近は腰の部分に痛みがあって、すぐに起きられなくなってきた。と言っていた。年齢も年齢だけに、体の至る所に痛みが起きる。潤滑油もふんだんに回っている新車も、古くなるとアチコチにガタがきて乗っていても運転しづらくなってくる。それと同じことが人間にも起きている。ベッドの上で、軽く腕や足を曲げたり伸ばしたり、寝返りをうったりしながら、ゆっくりと起き上がるように体を慣らしてみると痛みが和らぐのではないですか?とアドバイスをしてみた。それと同時に、58歳の僕にしても、今や同じような症状が朝起きがけに痛みが伴っているよ!とお話をした。58歳でも同じように体が硬縮して、朝起きたばかりは、体のあちこちに痛みが伴う。同じですよ!人間ですから・・・と言うと、結構安心したような顔をして笑っていた。
年をとっても体の些細な不調も気になることは同じで、その些細な不安感情が、夜の睡眠を阻害し、昼間に眠気が襲う、昼夜逆転の始まりである。走行している間に、人間は幻覚、妄想を認識するようになり、大脳器質に巣が入り始める。認知症である。記憶も遠のき、食った昼飯も忘れ、いつの間にか食いすぎで、胃と腸は悲鳴を上げながら嘔吐へとつながっていく。
人間の体は、すべてがマインドコントロールされており、病は気から!と言われるように、こころ次第で体は動くようです。リハビリの先生が言っていた。「心が動けば、体も動く」 鬱の患者さんも主体的になることが病の改善に一番良い結果をもたらすそうだ。
何でも気持ち!考え方!それと視点!それぞれを自分なりに変えてみれば、小さな変化かもしれないが結果は大きな成功に結びつくかもしれない。
認知症のじいちゃん、ばあちゃんは可愛い!!と、若い介護職員が言ってます。うちの職員ではありませんが、よその事業所の若い職員さんの中には、このような表現をする人がいます。言葉としては、決して間違ってはいないように感じるのですが、よくよく考えてみれば、この言葉って?どうなの???といつも考えこんでしまいます。
確かに、認知症の高齢者って(認知症に限らず,高齢者すべてにおいて)時として、仕草が子供っぽく可愛らしい時がある。しかし、これは、普段加齢臭をプンプン漂わすオッサンにも言えることで、誰にだって仕草が幼く、可愛いと思えるときはある。それで、若い女の子たちって、加齢臭プンプンのオッサンに向かって、「きゃわい~イ!」って言うか???言わないよなア!!
爺さん、婆さんには可愛い!と言って、オッサンには言わない。この端的な理由は、オッサンは加齢臭が漂っていようがいまいが、オッサンであり、ひょっとすると危害を加えそうな(要するにセクハラもどきの)雰囲気とイメージが伴っているからだ。逆に爺さん、婆さんって、無害!と言えば無害。無害と言うことは、自分より立場を下に見ている。例え怒らせたとしても体力、腕力ともに勝てるし、最悪、無視すればよい!と見ているのではないか?!と
まあ、そこまで酷くなくても、相手を子供的な感覚で捉えている又は相手を自分と同等のレベルと錯覚している。根本に相手の人格や人生経験等の功績を見ていない。過去を無視して、そこにいる老いぶれた男と女をみてるだけなのではないのか?と思ってしまうのです。だから、軽はずみにも爺さん、婆さんを捕まえて「きゃわい~イ!!」と黄色い声で騒ぐのです。
さて、認知症の!というまえがきをしている以上、本題に入りましょう。認知症のじいさん、ばあさんって、時々ですが、あらゆる物を取り込んで隠してしまいます。昔は物が不足する時代に生きた証拠なのでしょうが、介護する側にしてみれば、とても困った状況があります。たとえば、トイレットペーパーの補充が追い付かない。入れても入れても無くなる。そして、思わぬ場所に、こっそりと仕舞い込まれたペーパーの山を見て、唖然とする! または、他人の物まで取り込んでしまうケースもある。デイサービスの利用者同士でも、勝手に物を持ち帰ってしまう。翌日、家族からは婆さんの〇〇がない!とお叱りの電話をもらうこととなるのです。それと、オシッコの問題でリハビリパンツをはいてる婆さん。家に帰って、リハビリパンツを自分で洗って、こっそりと干してる時もある。リハビリパンツやパットと呼ばれる紙製品には、特殊な吸水剤が入っていて、そんなのを洗ってしまうと、異常に膨らみ、しかも重くなって、紙の部分こそ乾くものの、肝心要の部位は乾かないのです。認知症のばあさん、そんなことはお構いなし。せっせと自分が汚したリハパンを洗濯するのです。
さて、このような事象は、在宅介護の中で、一番困る行為です。なんせ、小言でも言おうものなら自分の潔癖さを声を大にして強調する。おまけに、それで嫁と姑の争いが開始され、当分の間、ばあさんはへそを曲げて、食事にすら顔を見せない。流石に嫁さんも困りはて、結果、担当のケアマネジャーに泣きつくこととなるのです。では、このような問題には、どういう風に対応するのか?まず、リハパンってものは、リハビリのために穿くパンツであることを再認識する。リハパンは簡易な使い捨てパンツと同様なイメージである現実の意識を払しょくする。できれば布パンツに戻して、排尿周期をみてトイレ誘導を行う。もちろん、成功するときも失敗するときもある。大半は失敗することの方が多く、大概の家族はこの時点で諦める。介護職員も同じく、数回トイレ誘導に失敗すると、それ以降は再びリハパンに頼ろうとする。問題はここに存在する。手間を惜しまない。汚したら変える。この繰り返しを実践することで、悪い習慣は改善されていく。一旦リハパンから卒業できれば、それ以降の恐ろしい程単純な、パンツを洗って自分で干す行為は激減する。まあ、だまされたと思ってやってみな! 結論は、遣ってみてからの話にしましょうよ!
まあ、と言いながらも、認知症の人の介護は忍耐との勝負って感じである。相手との根競べ! それほど執拗な人間本来の欲求が根底に潜んでいるのです。マズローの自己実現。人間って、本来はクドイ動物なんです。決して、きゃわいい~動物ではないのですよ。