太陽の家

  • ホーム
  • 太陽の家とは
  • 施設のご案内
  • サービスのご案内
  • ブログ-施設長の部屋

ブログ-施設長の部屋

2012/9/19
食と健康

食べれるということは健康な証拠!と誰かが言う。ある意味、正解である。病を患うと食事に対する欲求を失う。だから、腹がへる、食事がうまい、いくらでも食べることが出来るのすべてが健康とイコールにならない事が問題いだ。前回のブログで、ブタ君はあらゆる食いもの屋の名称、特徴やロケーションに詳しいと書いた。ついでに書くなら、ブタ君は、食べることに貪欲である。そして、何でも旨そうに食す!

かく云う私も、その一人。人からは「本当に旨そうに食べるね!」と感心される。それは、いたって当然なことで、食べることの好きなものは、本当にどんなものを食べていても、常に満足して食べている。何でもいいから空腹な胃を満たしてくれれば良いのである。味は二の次。とにかく満腹感を求めてしまうのである。だから、咀嚼回数も少なく、それこそ鵜呑み状態のように、噛む行為もそこそこに、飲み込んでしまう。

では、そんなに急いで、どの部分で味わうの?と言うと、早飯食いの我々ブタ君たちは、食事は舌で味わうのではなく、のど越しなのである。よくうどんの味は、のど越し!と言われるが、まさしくその状況が、全ての食事に言えるのである。咀嚼回数の少ない鵜呑み族は、十分な満腹感を得る前に、どんどん食べ物を体内に取り入れる。細かく砕いて腹に取り込むと、食物は膨張して、食べた量よりも多く感じて、その時点で満腹感を得ることが出来るのだが、その前に必要量以上のモノを詰め込んでしまう。結果、カロリーオーバー、ついでに過剰な糖分の接種となってしまうのである。

胃の中に入った食物は、長い年月をかけて内臓の壁を傷つけ、治っては傷つけを繰り返し、結果的に内服薬では治療できないレベルの病を背負い込むこととなる。そして、病となって、初めて食べれることの貴重さを認識することとなり、それまで自由に無制限に食べていたことを公開することとなるのである。

こうやって、夕食後にパソコンに向かってブログを書くとき、とても口さびしくなる。十分な夕食を食べて、まだ数時間も経過していないというに、もうすでに小腹がすいてくるのである。こうなると、僕は自分自身の気持ちの中で大きなバトルを強いられるのである。何か食べたい自分と食べちゃいけない自分の二人が争うのである。こう見えても一応の自制心ってのも持ち合わせているのである。

しかし、このバトルに勝つってのは、意外のほか私にとって厳しい。食べたい!気持ちを殺すには、自分の人生に影と光の両面を意識し、影への恐怖心を際立てていかないと、結構、自分の固い決心も崩れてしまうこととなる。

まあ、何にでも適度!があるように、食べるという行為にも「ほどほど」を維持する必要性をブタ君は学ばないといけない。(このブログ自体、執筆しながら、自分自身を戒めているのである)

2012/9/18
ブタ(小太り)の特徴

今日のブログネタで仕入れた話であるが、小太りの人間ほど、近隣の食いもの屋の名前まで良く熟知しているという。

僕自身もそうであるが「食べること」を、こよなく愛し、食べるためにはどんな苦労もいとまない。周りの者からよく言われるが、手ここしく料理を作る陰には、自分がおいしいものを食べたい欲求の裏返しであると。確かに自分が調理するときは、本当に手間暇を惜しまずに料理をする。料理ってのは手間暇を惜しんで作ってもおいしいものは出来上がらない。ゆっくりと時間をかけてだしをとる行為、口当たりをよくするための裏ごし等、調理にはじっくりと丸一日どころか二日も三日もかけて下準備をしていく。そこまでしても食べたい。その気持ちが、小太り爺さんの気持ちを突き上げる。

 食いもの屋の名前だけではなく、その個々の店の詳細について詳しく分析、熟知しているのが小太りの特徴らしい。実際、うちの施設のもう一人の小太り(大太り・・・?)に聞くと、確かに詳しい! 普通なら店舗名までは忘れてしまっている者が多い中、彼は的確に店舗名まで知っている。そして、それらの店に実際に行ったことがある。そしてさらに驚くことは、それなりの評価を出来る。と言う点である。店の評価をするには、一回程度の訪問では食べ物の評価は難しい。恐らく、彼は何度も何度も足げに通って、所謂レストラン情報を自分なりに整理しているのであろう。

 しかし、食通という響きは結構、魅力的ではあるが、年齢の経過とともに食べる量と質を考えていかないと、とんでもない病気を患うこととなる。30代はまだしも、40歳を超えるころから食するものを考え、自分なりの一定の制限を設けないと後悔することとなることは明白である。実際、僕自身も公開した部類の人間として、今はまだ若い大太りの君に忠告する。食べたい気持ちをコントロールすることは難しい。特に我々にはキツイお仕置きみたいなものであるが、それを堪えないと・・・・わかっちゃいるけど止められない! 辛いね!

2012/9/18
難しい問題だらけの日本

尖閣諸島や竹島の領土問題に関しては、今、日本を取り巻く諸外国の国民感情に何かとトラブルが多い。領土の主権を巡って一国の主たちに限らず、国民までも感情的になりつつある、とても不穏な雰囲気の外交情勢である。特にこれと言った(この意見すら日本人特有の日和見的平和ボケ発言ともいえるかもしれないが)特別な感情をむき出しに中国や韓国をみたことない一般的小市民の私には、今回のように中国国民の一部が暴徒化し、日本企業に多大なる損害を与えている現状を考えると、国際間の諸問題ってのは本当にデリケートなものなのだと認識する。

民主党政権となって以降とは言わないものの、今の日本を取り巻く環境ってのは、日本国の外交的手腕の恥垢と言うか、愚行は世界各国における日本の立場をも揺るがす結果となっているようだ。戦後復興の時代を超えて世界経済を牽引する立場にまで上り詰めた一流国家であった日本も、今では三流国家以下の状況に成り下がり、近隣アジア諸国すら下級国家扱い。一国を治めるということの難しさを改めて知ったような気がする。

連日のニュース報道を見ていて、中国国内のデモの様子には、目を見張るものがある。韓国ドラマをみながら韓国の文化や歴史に興味を持ち、三国志を読んで中国の歴史や文化に興味を持つものの、このような情勢の中、のんびりと近隣外国の歴史探訪や観光なんて気分にもなれないのは私だけではないだろう。聞くところによると、東京の新大久保界隈では、日本人バッシング等を恐れて、韓国料理店や韓国関係の店舗を訪れる人も激減しているとか・・・寂しい限りであり、国策の影響を直接受けるのは庶民ばかり。傷つくことも庶民だけで、交換と言われる政府要人にはそれなりのボディーガードが付いていて身の安全を確保している。

デモ隊を構成するのも一般庶民、そのデモ隊の影響をモロ受けるのも一般庶民。何の得にもならないことで、一般庶民が巻き込まれての狂騒劇。こんな日本に誰がした!?

2012/9/18
うれしい声掛け!

先週末、業務の一環で東京に行っていた。金曜日の午後から事業所を出発して昼過ぎの新幹線に飛び乗った。夕方近くになって東京駅に到着した私は、自分の荷物を引っ張りながら、丸の内側出口に向かって歩き始めた。その時、後ろからOL風の若い女性に呼び止められ、私のつけている香水の銘柄を尋ねられた。

一瞬、過去に若い女性から呼び止められた経験のない私は驚き、同時に相手の正体を見定める気持ちが働き言葉を失った。一瞬の判断で危害を加えそうでない雰囲気の女性と感じ、その日にまとっている香水の銘柄を告げた。彼女は、私の返答を聞いて、自分の予想と違ったようなそぶりを見せながらも、とってもお似合いの香りですので・・・ついつい失礼と思いましたがお尋ねしてしまいました。ありがとうございます。と言い残して去って行った。

この間、本の数十秒程度の出来事で、東京駅の雑踏の中、通りすがりの人から道を尋ねられている状態。彼女の立ち去った後も、自分の中でいろいろな思いが交差した。ひょっとして香水がきつすぎる・・・? 最近では、香水の量もかなり薄く意識してつけてるし、ましてや、自宅を出るときにまとった香水、もうすでに3時間は優に経過している。それとも、僕の体臭が入り交ざって逆に悪臭を振りまいてた?と、いろいろな思いが巡り巡って、思わず乗り換えの地下鉄の駅を間違えるところだった。

まあ、今回の新幹線では、いつになくハプニングが多く、車内で仕事をしてた時に万年筆のインクをパンツの上にこぼし、大きなインクスポット(インクスポットと言うサイズではない、もっと大きなシミ)を作ってしまい、急いでカバンから替えのパンツを出してトイレで着替えたり・・・。この失敗のおかげで普段は使ったことのないホテルのランドリーでしみ抜きをお願いすることとなった。急な依頼であって、金額的にも地元のクリーニングより数倍は高額な費用を請求されたが、無事にシミを除去してくれて返してくれた。

 旅先ってのは、本当にいろいろなことが起こりえる。それら全てを旅の思い出として受け入れれば、それまた笑い話で楽しいものである。特に今回のように若い女性に呼び止められ、本心は分からないが、お似合いの香りと言われると、とてもうれしいものである。

2012/9/17
今を生きる辛さ

最近のテレビ報道を見ながら思ったこと。世界は広い、日本では国民同士の生命を賭けた諍いはない。日常的に殺人事件は増加傾向にはあるが、シリアやアフリカの一部の国で起こっているような国内の紛争ってのは無い。まあ、紛争も殺人事件も人の命を何らかのこじつけの理由をもって奪う行為としては同じではあるが、それでも大量に無差別に殺し合う社会は、今のところ日本には存在しない。誰ひとりとして、非人間的に扱われることのないように憲法にも生存権は認められているわけで、どのような理由でも、殺人を肯定する理由は皆無であるはずだ。

 その昔、社会に平等の権利や生きる権利の認められていない時代。人は自然界に生きる動物のごとく弱肉強食の社会に暮らしていた。治安もへったくれもない、それこそ荒唐無稽で荒くれ者が闊歩する社会では、弱者は物陰に声を潜めて生活を続けるしか方法はなかったようである。喧嘩の弱い僕なんか、先頭きって出しゃばることなんて到底できなかったであろう。それこそ、格闘技の強いものが生き残る。そんな世界に、近代の人が生きることは、そう簡単ではないはずである。

 そんな時代に生きた人たちの日々は、将来に対する展望も夢も希望も持てない、その日暮しに近い生活ではなかったか。当然、その日、食えれば良し!酒を飲めれば更に良し!と言った具合かな?! 酒と女とギャンブルさえあれば、それで幸せ!ってか?

 しかし、そんな社会もいろいろなルールが作られ、治安が守られるようになると、人間の寿命はどんどんと延長され、昔の自給自足な世の中から比べると、倍以上の寿命延長が達成されている。人は自分や他人の暴力によって死ぬことがなくなり、唯一病死という不幸なファクターを受け入れることしか、ほかに方法がなくなってきた。自殺や事故って方法もあるが、賢明な市民はそうそうめったやたらと自殺や事故を引き起こすような行為は避けようとする。そこで私が今回のテーマに選んだ「生きる辛さ」ってのは、石器時代から有史の初期の時代の人達と比較して、今の方が死の恐怖を大きく感じながら生きているような気がしてしょうがないのである。

 何も思わず、不意打ちのように、一瞬にして命を奪われる社会の方が、よっぽど気楽な社会なのかもしれない。医学の進歩は、病気と正面きって戦うことを大前提としている。そこには、負けるかもしれない恐怖と、常に耐えていかないといけない痛みの身体的、精神的両面からの苦痛に耐えることが必要である。医学の進歩は世の中から病を撲滅する。しかし、同時に別の苦しみを残してしまう。年寄りが時々、切に訴える言葉!「はやく!死にたい!」 人間として生まれ、生きる辛さを十分に分かった人たち、毎年、毎年、お迎えを待つ気分ってのは辛い以外の何もんでもない。必要以上の延命行為や過剰な介護サービスってのも、よろしかろう!と善意の押し売り、自分たちの思い込みの介護となっていないだろうか?!

 


2026年 11月
月 火 水 木 金 土 日
           1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30            
月別表示
最近の記事

  • 太陽の家 お気軽にお問い合わせください
    〒513-0808 三重県鈴鹿市西條町495-1
    TEL:059-383-8383 FAX:059-383-7938
  • インターネットからお問い合わせ
  • お電話でのお問い合わせ
059-383-8383
受付時間/9:00~18:00
閉じる  印刷する