日本の冠婚葬祭は、年々大きく変化してきているようである。これも少子高齢社会のせいかな・・・?昨日、私の叔母が亡くなった。その葬儀のために一日を親族とともに過ごした。普段会うこともない親戚と顔を合わせ、その変貌ぶりに、このような場でなければ親戚と認識できない変化に驚くやら、成長した子供たちの姿に驚くやら・・・当日の葬儀会場は驚愕の声と笑い声が響く、ちょっと場の雰囲気もあったものではない。そのような状況であった。これも、年齢若く人が亡くなった場合の葬儀ではなく、世代交代の一部と言える別れの儀式との違いと言えるかもしれない。 そして、もう一つの大きな違いとして、葬儀に参列する人達である。年配者の葬儀の場合、参列者の方々は概ね後期高齢者と言われる人々が多く、歩くのもおぼつか無い年寄りばかり。あっちにヨロヨロ、こっちにヨロヨロ、いたるところにぶつかり、すべての動作が緩慢で、交わす会話の声がやたらと大きい。そして、その会話に耳を傾ければ、会話がかみ合っていないにもかかわらず、お互いが理解しあったような素振り。まったくもってデイサービスのような様相である。
一人の男性が我が父のそばに歩み寄り「こんにちは、ご無沙汰です!」。すると、うちの父は「はあ?どちらさんでした?」ときた。同じ地区に住む古くからの知り合いに向かってである。その会話を聞きながら、僕でも知ってるのに・・・と思いつつも何も口出しせずに見ていた。 第二に、火葬場の控室での話である。鈴鹿の火葬場の待機場所は和室である。おまけに上り框の段差付。皆が杖を頼りに歩きかねている爺さん婆さんたちが、和室に上がるのに一苦労。次に和室の床に座るにも一苦労。足を投げ出し、お茶や茶菓子の接待もままならない状態で、丸太が横たわるように、そこかしこに年寄りが座り込んでいる。まあ、活動的ではない、なんという無様な恰好!と一人の親戚が言う。
私の身内の世代交代が今始まりかけている。遅がけの世代交代は、老人ばかりが目立つ。ちょこっと元気な爺さん婆さんがヨイヨイの爺さん婆さんを労わって持成す。老々介護ではないが、老々接待の現場であった。今週初めは叔母の葬式、そして今週末は実の妹の娘の結婚披露宴に出席。まあ、今の時代の冠婚葬祭の様変わりに、変な興味がわいてきた。
今日はいつになくセンチメンタルな気分なのか・・・先のブログで思い出のカーメルの画像を張り付けていたら、どうも古臭い昔が懐かしく思い出されてネットサーフィンを繰り返しながら、昔、学生時分に働いていたナーセリーの写真を発見した。あの場所のにおいや空気までよみがえってくるような気がした。
僕はこの園芸屋さんで、お客さんの購入した花や肥料などを、お客さんの車まで運ぶ仕事をしてた。時々もらえるチップがうれしかったことを覚えてる。でも、アメリカの園芸用肥料は大容量で、日本のものよりも遥かに大きく、重く、そして臭かった。一日中働くと、頭から足先、全身に牛のウンコの匂いと埃にまみれ、力仕事の疲労と匂いで辛かったことを覚えている。しかし、慣れてくるにつれ、接客もさせてもらえるようになり、自分のセールスで花や肥料や消毒薬などを販売できるようになったときは、仕事が面白くて仕方なかった。
そんなちょっとした思い出のかけらを、皆さんにも感じてもらいたくって紹介します。
Los Altos Nurseryです。
毎晩、11時55分になると観る番組がある。タイトルに書いたように、その番組を数字で2355と言う。まさしく、文字どおりと言うか、23時55分のたった5分間の番組を放送しているEテレのことである。たった5分だが、この5分が面白い。そこに展開されるアートワークって言うか、発想が面白い。皆さんも一度、ご覧になると良い。クスッ!と笑えるかもしれない。
今日、紹介している画像は、アメリカ合衆国のカリフォルニア・モントレー郡カーメルのビーチに生えている糸杉の画像である。僕が滞在していたころから存在する木で、まだまだ若かりし頃、当時の彼女とともにこの木の下で写真を撮ったことを思い出した。今から思えばずいぶん昔の話である。
まだ気持ちは、その当時のままではあるが、写真を見ながら当時を思い起こすと、そこにすでに40年近い歳月が経過している。自分にとって一番輝いていたころの話だ。2355の終わりがけに必ず、明日につなげるナレーションが入る。「にいさんごーごーが、土曜日を告げます!」と。過去は今の過ぎ去った跡。今の自分は、すでに過去のものになっていく。この番組を観ながら、いつも一日の終わりに感謝する自分が居る。波乱にとんだ一日でも同じように感謝してる。明日に向かって、気持ちを入れ替え、新たなるスタートを切る、とても良いきっかけとして番組を観ている。
サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズを望む
名古屋市の市立中学校に通っていた男子生徒(16)が同級生にいじめられ、うつ状態になったとして、当時の同級生(16)とその母親を相手取って損害賠償訴訟を起こし、名古屋地裁(片田信宏裁判長)がいじめを認定して、同級生と母親に対し33万円の支払いを命じる判決を出していたことが3日分かった。判決は母親についても「親として子供の教育や監督を怠った」と指摘し、責任を認めた。(毎日新聞)
日本もアメリカを追従するように訴訟が盛んに行われる社会へと変貌してきているようだ。いじめ問題は、今の時代を象徴する問題であり、このまま野放図に放置できないことは十分に承知の上で、この文章を書いている。ここで問題としたい点は子供の問題を訴訟に発展させてしまう社会構図について考えてみたい。高齢者介護の上においても希薄化する人間関係が、高齢者の社会活動に少なからず影響を与えている点では、本来の自立支援ってのは考えられない時代である。
いじめは排除すべきである。世の中が平和的社会秩序を保てるとすれば、それが一番の理想ではある。しかし、個人の自由、権利、尊厳が大切に扱われる反面、それら大切なものを強く主張しすぎるケースも無きにしも非ず。お互いの主張が真っ向から衝突することを良しとする社会が出来上がりつつある。また、あえて法廷闘争に持ち込む場面すら見受けられる。個人の主張が強く、相手を思いやり理解しようとする努力義務が忘れ去られているようである。もちろん、今回、取り上げた朝日新聞の記事を、僕個人の一方的な理論として、当事者たちを批判するものではない。そこには、少量の情報しかなく、人を批判するには少なすぎる情報であることから、この訴訟に至った行為をどうこう云うつもりはない。
ただ、訴訟への判断の良し悪しではなく、このような事例が増加することで、子供たちの社会が大きく変化する懸念。そして、その影響は子供の教育自体に跳ね返ってくるという点が不安なだけである。高齢者の介護を実践する中で、事故は常に大きなリスクとして介護者にのしかかっている。自立支援を奨励するあまり、何の制約もなく歩いてもらっていると転倒骨折のリスクが伴い、施設だけの生活から脱するための外出を進めることで、インフルエンザやノロウイルスに感染するリスクを背負い込むこととなる。高齢者をお預かりする立場としては、健康で安心な普通の生活を保障することが最重要課題であるにもかかわらず、これらの事故の発生は利用者の身体的活動能力を奪うばかりか、生命まで危機にさらすこととなる。もしもの事故を想定すると何もしない、活動もなく24時間ベッドで寝ててもらえることが一番の安心となってしまう危険性。僕は、この訴訟社会の抱える問題として、同じような無気力な社会を助長するような気がする。
訴えられて損害賠償金を支払うくらいなら、他人との接点を持たなければよい。そう安直に考えることが一番のリスク回避となる社会への変貌。それが、この社会の結末であるならば、こんな寂しいことはない。
まあ、こんな発言って誤解されやすいので嫌なんだけど、ぼく、結構、マツコデラックス好きだねえ!いや、いや、ぼくはその筋の人でもなんでもなくいたってノーマルな男なんですが、マツコデラックスだけは嫌じゃないのですよ。最近のテレビ業界、様々なオカマちゃん達が大活躍してるではないですか。まあ、アメリカではベトナム戦争時代にすでにゲイが、社会的地位を確立するほどだったわけで、そう考えると日本でオカマが流行ってもおかしくはない時代なんでしょうね。
さて、マツコデラックスの体系や顔立ち、それこそ本物の女性よりも女性らしく美しい東南アジアのニューハーフからすれば、異様な程並外れた感じで、どこがいいのさ!?って聞かれても、それをシッカリと説明できるわけでもない。しかし、彼女(・・・?)のトークが面白い。なんだか、人のいい太っちょのおばちゃんって感じで、一緒にいたら話がはずむような気がするのです。感情の表現方法が感性豊か!って思うのですね。結構きつい言葉で相手を傷つけそうな場面でも、言葉が突き刺さらない。すごく上手な配分で話を進めるところに、妙に納得してしまうのです。
オカマちゃんと言えば、昔、面白い体験をした。学生時代にバイト中、髯もじゃのオッサンから電話しておいでと電話番号を紙マッチの裏蓋に書いて渡されたことがある。相手は白人のオッサン。若い日本人の男の子に興味があったんだろうね。次に、タイのバンコクのとある路地裏の怪しげなゴーゴーバー。無茶苦茶別嬪のプロポーションもきれいな女性(ではなかったんだけどね、あとで分かった)、お店に入ってカクテル飲んで、その子の踊りを眺めていた。まあ、本当にきれい! 日本でも、こんな別嬪みたことない!ってな感じ。まあ、運よく夜を共にする前にニューハーフってことが分かって、それで終わったけど。まあ、面白い国だバンコクって。
マツコデラックスの話が、オカマちゃんの話になってしまったけど、何にしてもテレビで売れている人は、それなりに輝くものを持っているんでしょうね。