認知症となった僕は、毎日、毎日、一人で空想の世界にはまっている。今の年号も分からない。今が何月で、何か行動を起こしたいのだけど何をやればよいかわからない。いろいろと思いつくことは多い。あれやこれや、やらなくてはいけない事ばかりの毎日であるが、されとて何処に何があるのかを忘れてしまった。いや、忘れてしまったと言うより、何か全てが暗幕の中に潜んでいるような、思い出すにも思い出せない、とても気持ち悪い状態が続いている。
いつだったか忘れたが、この写真は見たことがある。映像を断片的には思い出すことはできるが、いったい何の映像だったのかが分からない。テレビの画面から流れる音楽も妙に懐かしい。この音楽を耳にすると、ある人を思い出す。とてもまったりとした柔らかい優しさに包まれた感覚だけがよみがえってくる。しかし、それが、どこの誰だったか、人間だったのか、動物だったのかは特定できない。しかし、感触として心落ち着くものはある。
そう言えば、時折、遠くの方から聞こえてくる車の音には聞き覚えがある。昔、今聞こえてくるような音の数倍も大きな騒音の中で仕事をしていた記憶がある。何をやっていたのかは忘れた。しかし、あの音を聞くたびに胸が躍る。遠くから聞こえてくるエンジン音、とても甲高い高音の音。遠くに響き渡る音を確かめたくって、部屋の窓を開けてみたい。でも、部屋の窓は自分では開けることができない。開けようにも、窓の鍵は手の届かない場所にある。
窓に耳を押し当て、一生懸命に音を聞こうとすればするほど、イライラしてきた。なんで、この窓は開けられないのだろう?なんで、自分はこの部屋から出れないのだろう?
俺は日本語だけでなく英語も話せる。アメリカにも多くの友人がいる。ニューヨークにも何度も行ったことがある。テロ事件で破壊された貿易センタービルの最上階の展望台からマンハッタンも見た。あの場所に立って、世界の広さを感じたことは思い出す。そんな俺様を、この周りの連中は分かろうともしない。何を言っても取り合ってくれない。はいはい!そうですね!と返ってくる言葉は、いつも同じである。こんな毎日、やることといえば、三食毎に薬を飲まされ、いつも突然に病院に行く!と告げられ、訳も分からず無抵抗な俺様を連れていく。
毎日が同じことの繰り返し。家族はいない。俺は一人ぼっちだ!
僕の人生の一番最初の思い出。それが、子供のころの自分である。白黒のテレビ放送が始まったころに小学生を迎えている。この時代を経験するという意味は、今、私たちが接している高齢者の時代とは、全く違う時代背景を持ったものと言う意味になる。
次に僕の人生の中で一番華やいでいたころ。それは20代の青春時代。毎日が楽しかった。その楽しい毎日とて、今、振り返るから楽しく感じられるだけで、その当時は、それなりに悩み、苦しみ、悲しんだ時期でもあった。海外生活を送る中で、遠く離れた場所で孤軍奮闘していたことは、人に話してもわかってもらえない苦労もあった。
サンフランシスコの曲がりくねった坂道。ロンバート・ストリート
そして、そのような特殊な環境が今の僕のバックボーンとなっている点。自分自身を形成した時代でもあり、そこの時代の影響がマイナス方向に自分を形成した可能性も含んでいる。
この時代以降、僕の中に残っているものは、現実との戦いばかりで、それ程強烈に思い起こされる部分は少ない。
さて、そんな僕が認知症となってしまった場合、いったいどんな奇怪な行動に出るのだろう?ひょっとすると、いつまでも青春を声高に叫び続けながら、自由を愛するボケ爺さんとなるのかもしれない。そして、その時の体調、薬、障害の度合いによって表出する状況は変わることは、大半の介護職なら理解している。しかし、そこにもう一つの要因として、その時の介護者の態度、接遇によって反応するBPSDもあるのかもしれない。
僕たちは、認知症の爺さん、ばあさんの生活歴、病歴、性格、環境を考慮しながら認知症の人の世界を理解しようと努めている。しかし、結構, 見落としがちな点として、我々の接遇によって出現する症状もあるということ。
私たちの業務は、本当に難しい専門性が求められている業界である。学校で学んできた理念だけでなく、そこに生きた人がいる限り、マニュアルで介護を実践する困難と、不都合を感じてもらえなければ、介護の専門職としての成長は見込めない。
今日は、近所の総合病院で定期健診を受けてきた。朝の9時に入って、採血して主治医の診察を受ける。予約制だから10時から10時半に終わる予定が、やはり、案の定、終わったのは11時半であった。まあ、定期的に受信することと自分の健康維持に不可欠であり、そのことで安心を得ることができるのなら一時間遅れても良いではないか・・・!
ましてや、今日は時間がかかる総合病院の実態ではなく、そこの待合で考えていたことを中心に話をすすめたい。
人は誰しもが、認知症を患うことを嫌う。うちのグループホームの入居者さえ「ボケると困るで、〇〇しよか!」と言う。ボケること=認知症、この言葉は広く社会に浸透した。一昔前は痴ほう症とかぼけ老人と呼ばれていた状態を、人権が重んじられ認知症となった。さて、そのような日本社会。認知症と診断されると、何が何でもアリセプトが投与される現実が、まだまだ存在する。アリセプトは認知症の救世主的脚光を浴びて認知症の人に投与されている。しかし、アリセプトを飲めば認知症は治るのか?と言われれば、どうもそうではないらしい。認知症の進行を遅らせることを主効果としているようである。
僕は、そんな薬を服用することで認知症で長く居たくはない。と考えている。どうせなくなる命なら、長引かせて後悔するよりは、いっそのこと進行早く、とっとと消えていきたいと願うものである。
しかし、よくよく考えてみれば、認知症を患うことが周りの人間に熟知され、それに対するスキルが伴うのであれば、それはそれで記憶障害を抱えるにしても、それなりに人生を謳歌できるならば生き延びてみたい。
要するに、薬を投与され、その後の細かな支援が確保されないまま放置される生活であるならば、薬の力で長生きさせてほしくはない。医療と介護の連携とは、このことを言うのである。医療の発達と同様介護の現場にもスキルアップが伴わなければ、生き地獄を味あわせることとなってしまうことを介護する側は気づいてほしい。
高齢者の介護全般に、人として命をどのように考える、捉えるか?介護する者として、何が何でも長生きと健康老人を目指すのであれば、それなりの自覚と理念をもってスキルアップを望みたい。
Las Vegas
鈴鹿で有名、いや全国レベルでもイワシ料理の専門店として有名なお店がある。鈴鹿に来る著名人も多く集まる店で、僕自身、鈴鹿サーキットに来るレース関係者からも、この店の評判は聞いていた。僕は、まだまだなじみの客と言うほどでもないが、それでも時間を見つけては、新鮮なイワシ料理を楽しませてもらっている。
まずは、冷奴の上にイワシの刺身がのっかている料理。イワシの臭みが一切ない、とても新鮮なイワシを使っていることがよく分かる一品である。
イワシのカルパッチョ。イタリア料理を和風仕立てで提供してくれる。このお店の良いところは、器にも神経を注いでくれる。店の女将が言うには、そこそこ高い器を使っているとのことである、
定番、イワシの甘露煮。僕のオーダーには必ず、この一品を入れる。甘辛く煮たイワシは、骨まで味わって食べることができるほど柔らかく煮込まれている。今回は黒豆を添えて出してもらった。そして、この豆も旨い!美味!
イワシのてんぷらの盛り合わせ。ゴマをまぶしたフライ。アーモンドを衣にして揚げたイワシなど、僕は塩で頂く方が好みである。一番上にイワシの骨の素揚げが乗っかっている。これが、また香ばしくて美味。ビールがすすむくん!だ。
最後の締めくくりにお茶づけ。今回はしぐれを入れてもらった。これだけ食べると多すぎる程、満腹になってしまうが(当たり前か・・・!)まあ、今回も大満足な食事をいただいて帰ってきた。最後に女将と板長の写真をお願いしたが、あっさりと断られてしまった。
ア~そうだ、お店の名前を書き忘れた。(書かなくても分かるだろうが)きらく家さんという屋号のお店であって、鈴鹿市の岡田と三日市の間に存在する。よろしければ一度お尋ねください。店に入って私の名前を出してもらってもOKです。