太陽の家では、今、介護職員さんを募集している。そして、それなりに結構、多くの方々に気にしていただいてるようで、ハローワークで求人を知ったとか、友達から聞いたから、と言いながら面接させてもらう事が多い。
そして、面接の方々に聞くと、皆さんがうちのホームページを閲覧して、イメージをつかんでもらっているようである。多くの方が、ホームページのスタッフ紹介のページや僕のブログを読んでもらって、それなりに働きやすい職場という印象を持ってもらえるようである。
そんな言葉を聞いたので、と言うわけではないが。これから介護の業務に就こうとしている人たちにアドバイスをさせてもらえば。
介護の仕事ってのは、誰でも資格なくスタートはできる。しかし、なぜ、資格を求めるか?と言えば、それだけ専門性が高い業務だからである。この業務はロボットではできないのです。心のこもった人間でないと出来ないから、だから仕事しながらでも、いろいろと専門性を学んでいく必要がある。
次に、臭い、キツイ、汚いってのは嘘!今どきの高齢者介護って、言うほど臭くない、汚くない、きつくない!それは、介護保険制度の始まる前の措置の時代の、日本の高齢者介護の暗黒時代のことである。まあ、確かに排せつのお世話などはしなければいけないが、それとて、毎日日課のようにウンチまみれの業務ではない。これこそ、排せつは人間の一番重要な機能であり、これさえも専門性が要求される。つまりは医学の片割れのような次元の話なんだ!
そして、給料の問題。確かに給料は製造業などに比べて少ないかもしれない。しかし、単に金額だけの比較で多い少ないと評価していいものだろうか???僕は、それはそれなりに、資格を取得し、それなりに経験を積んでいくことでベースアップは可能であると考えている。でも、お金が必要と考える人は介護の仕事は、確かに向いてないかもしれない。お給料と仕事(やりがい)をどのように捉えるかによって変わってくるよね。
さて、次に、このホームページを見てもらって「イージー」なイメージを抱く人へ! 太陽の家は、それ程簡単な職場ではないことは言っておきたい。甘くはない!とても厳しいよ! 先日も職員の一人を泣かせている。私たちは人の命を預かっている。その立場をと責任を忘れて、なんでも良い!と、見過ごすことはできない。認知症の人が幸せそうな顔を表現できるように、そこで必死に努めてもらえない職員さんにはカツを入れる。
間違いは指摘する。学んでいただく。改善していただく。そして、良い介護には褒めて、さらにステップアップできるように支援する。この職場は人生道場のようなものである。
運動機能を維持するためリハビリを!と、認知症の人を口説いているリハビリ師。そんなものいらん!と断り続ける利用者。この様子は見てて面白い。リハビリ師は業務として利用者に問いかけ、利用者は必要性を認識できずに断り続ける。マッサージやリハビリやそんな言葉には、ずべて必要ない!と断る。
あの手この手と利用者は、笑顔で断り続け、挙句の果ては「私は、まだ若いもん!」と仰る。90歳にあと少しという年齢でも、まだまだお若いのである。少女とまでは言わないが、そこそこ若いつもりでいる。まだ独身・・・?!(・・・になった!)
それはそれで、とても上手に(上手と言う表現は不適切ではあるが、本当に誰に危害を加えるわけでもなく、そこそこ自立状態を保ちながら、記憶の中抜け状態は、認知症の状態としては理想的な状態といえる。その意味で、「上手に」という表現を使っている)年齢に応じた状態が維持されている。
人によっては、いろいろな問題を引き起こす方もいる中、認知症にも色んなタイプが存在する。今日のこの話題の主は、少しばかりお腹がすいていた。空腹感が虚脱感になり、空腹を強く訴えることはないが、体を動かすことに抵抗したくなる気持ちになったんだろう。
柔らかくリハビリを促すリハビリ師は、肩もみをしましょう!と誘いかけ、結果的にはリハビリを実施することができた。
この婆さん、リハビリから戻るなり、周りの利用者に「な~んも、気持ちよ~うなかったわ!」と笑顔で話していた。
認知症の婆さん、新人職員たちが「かわいい~・・・!」と寄り添うのは、こう言った婆さんの事を云うんだろうね。しかし、可愛い・・・だけでは、介護はできないわけで、なんとか利用者の気持ちを動かさないと、それこそ、体中の関節が固くなって動かせなくなる。ってことを、考えてももらいたいね!新人職員さんたち、お願いしますよ!
今日は鳥羽に行ってきた。
朝から鳥羽市の企業さんへ、この9月に開催するフォーラムの協賛をお願いしに行ってきた。同時に鳥羽市役所を訪問し、市長さんのフォーラムへのご出席依頼を行ってきた。
徐々に、フォーラムの外枠が形作られてきたが、それと同時に大きな責任が膨らんでいくような気持になった。
来月は、講演をお願いした講師の先生方とのすり合わせもかねて上京する予定である。
何にしろ、学びの場を創造するには、本当に多くの努力を必要とする。準備の量と質によって出来上がりが変わってくる。これは、何をするにも同様。準備に手抜きがあれば、その分の評価が結果として現われる。どれほど熟練したものが、慣れ親しんだ内容を講義するとしても、慣れに甘んじると必ず失敗する。
僕自身もまた7月下旬に、認知症介護における人権と接遇について研修を行うこととなった。あと2か月しか準備期間がない。非常に厳しい時間の猶予しか与えられていないが、これから、しばらくは研修内容について準備していかなければ・・・と考えている。
介護の業界に限らず、今の成人と言われる人たちの知識の泉に変化が見える。
それなりに高学歴、知識豊富、しかし、一般的な生きる術ってのにとんと疎い。
新しい技術革新でいろいろと便利なツールが普及し、ハイテクニック機材など、私たちのようなアナログ人間からすれば、とてつもなく使いこなすに困難なものに対して優れた能力を有している。
しかし、掃除の仕方を知らない。洗濯機の使い方がわからない。濡れタオルを絞れない等。掃除の仕方と言えば、掃除機のスイッチを入れるだけの知識。ヘッドをどのように動かして効率よくゴミを吸引させるかが分からない。洗濯機は、洗剤をどれだけ、何処に入れて、洗えるものの区別を行い、適切な方法で洗濯機を回せない。
濡れ雑巾をしっかりと両手で絞れないから、雑巾がけは床全体に水を塗布する状態。おまけにシッカリ絞り切れていない雑巾を干し、おまけに雑巾は四隅をしっかりと引っ張り、表面のしわを取って干すことができない。だから、いつも洗濯物が乾いている姿は乾燥させた昆布のような状態。
社会人として、どうしてもアナログ的作業が今なお求められること自体が、彼らにとっては理解できないのかもおしれないが、生きていくうえですべてをハイテク機能に頼って生きていくことはできない。
子供のころから、何もお手伝いを体験させずに、勉強一途で育て上げられた子供たちは、そのまま勉強以外の何もできない成人を作り上げてしまったようだ。
このような世代に介護の基本を教えることは難しい。
まずは、一人で生きる術を教えないと。
勤務表は僕が組んでいる。にも拘わらず自分自身の休日を間違える。
休みの日を忘れ、出勤してしまう。要するにケアレスミスである。こんな施設長が職員のケアレス・ミスを云々出来るのか・・・?!と叱られそう。元々、しっかりと仕事しない者だから、出勤してようがしてまいが関係ないのかもしれない。
それ程、重要視されてない。そんな存在の自分ではあるわけで、特段、普通のように職員には見られているようである。さて、この状況が、何処で発覚するかと言うと、昼食の時に真実は判明する。・・・・・僕の分の昼食がない! それでようやく事態を呑み込めるという不甲斐なさ。まあ、僕の場合、休日出勤も残業も関係ない立場だから。
先日、とある場所で雑談をしている中で、経営トップってのは孤独なんですよ!という話が出ていた。僕は、自分で言うのもなんだが、決して孤独ではない。周りの職員たちとは、よく会話するしフランクな意見交換も行えている。今度は、希望者をつのり御在所岳の登山に挑戦する。とても良好な関係を維持している・・・つもりだが・・・まだまだ欲を言えばきりがない程、僕の中での職員との関係性の改善事項は山積みである。
管理者の役割、経営者の役割ってのは、現場を管理することではないと考えている。ここで言う「管理」とは、全てにおいてトップダウンで、物事を決定し、指示、指導し、采配をふるという意味ではない。管理者とは、現場で行われているサービスの質を確認し、不足する部分について共に考え、成長を促す役割を行い、職員には決定できない点を決定し、事業の運営を継続する。それだけの役割である。
職員の人材育成、銀行や行政との折衝、コンプライアンスの順守に躍起になり、走り回ることを管理者が担ってしまうことは、管理者の能力不足と言われても仕方ないのではないかと思っている。
僕自身、それ程自慢できる人格の持ち主でもなんでもない。いたって普通のオッサンである。車を運転しながら鼻毛を抜いている自分がいたり、食後のお茶でウガウガと口を漱いでしまったり、爪楊枝を使ってシーハーしてみたり・・・と、本当に一般のクソおやじと同じレベルのオッサンである。しかし、それだからこそ、僕はうちの職員さんとは、普通のお付き合いをしたいと願っている。彼女たちのお仕事の成長だけを目的に、いろいろな角度からアドバイスする。それだけが、僕のお仕事だと思っている。