いよいよF-1日本GPも本番近くなって、鈴鹿サーキットのパドックも騒がしくなってきた。昨日までのパドックには、各チームのホスピタリティ テントの設営準備やピットの整備などで忙しく働くチーム関係者でいっぱいだったが、決勝日まで3日となる今、すべての準備は整い、ドライバー、スポンサーなどを迎え、一段と活気が出てきた。
さて、そんなF-1、ここ数年トップを突っ走るチームに、レッドブル レーシングがある。毎回のレースで首位を走るチームで有名であるが、ただ単にエンジン性能が良いとか、ドライバーの腕が良い!と言う理由だけではないようだ。
その理由に、昨日の水曜日、誰しもが準備に奔走している中、レッドブルだけは違った。昼過ぎの3時ころより2時間みっちりと、ピットクルーと呼ばれるスタッフを一堂に集めてミーティングを行っていた。ほかのチームで、クルーたちを集めてミーティングをしている姿を見たことがない中、さすがに首位を独走するチームだけはあると感じた。
我々の実践している高齢者介護、特に認知症ケアにおいても、チームケアや情報の共有化が叫ばれる中。全くの畑違いのF-1業界においても、個々のクルーの情報を共有し、チームとしてマシンを走らせる姿勢が、トップチームとして君臨できている証拠かもしれない。
今日、10月8日火曜日、いよいよF-1フラッグが掲げられた。鈴鹿サーキットのコントロールタワー上、パドックエントランスの二か所、計3か所のフラッグポールにF1旗があげられた。
ここ数年、F-1開催の10月は、台風の影響を受けやすい気候になっており、今日も午後から大雨。至る所で雨水が川となり、F1の準備に追われていたチーム関係者に、辛い雨となった。今日一日で、本来ならばF-1を走らせるための中枢機能をもつピット、スポンサーたちを持て成すホスピタリティ テントなどを仕上げて、明日からの稼働に備えるべき大事な一日だが、この雨の影響で作業が滞ってしまった。
我々の作業も、この雨の影響で作業が一日に集中してしまうことを懸念する。なんせ、今週末にはすべてを終える。作業が一日も無駄にできないときの雨は大きい。
巨額の資金が投入されるF1。単なる趣味の範囲ではなく、個々のチームとしても生き残りを賭けた一戦一戦。成果を残してなんぼの世界。遊びではない、真剣で厳しいビジネスの社会がここに凝縮されている。
七里の渡しだったかな? 桑名まで来ちゃいました。
国道1号線を桑名へ、七里の渡しを見ながら国道23号線をかえってきました。途中、四日市の市内を走行中に偶然出くわした「祭りの山車」何のお祭りか知らないけど、子供たちが山車を引いている姿をスナップ。写真に写っている方々の了解を取ってないので、目隠しをさせてもらいました。
桑名までの往復で60Km程度。いつものツーリングとそれ程大差はないけど、車の量と歩道の整備は行き届いてなく、非常に走りにくい印象が残りました。草が伸び放題、ゴミだらけ、段差と亀裂が多く、ロードサイクルでは走りにくいことこの上ない。また、この写真は別のページで紹介しましょう。
一年の歳月をかけて練り上げた一大イベント「東海地区 認知症フォーラム2013 in 三重」も終わり、その後に控えていたF-1日本GPも来週末で終わろうとする今。全ての事柄が矢継ぎ早に過ぎ去っていく。
瞬時に過去に変化していく時間軸の中、僕ももれなく年老いていく渦中に存在する。過去・現在・未来は、すでに過去・過去・未来と変化していく。若かりし頃の一日、一週間、一年は過ぎ去るスピードが遅かった。しかし、その感覚も、年々とスピードアップしながら、40歳を超えたころから過ぎ去る時の加速度が年々増加していくように自覚し始めた。還暦を迎え、さらにスピードアップした時の進行速度は、さらにスピードアップして、直ぐに一つづつ年齢をやみくもに重ねていくような危機感を抱き始めるのである。
こうなると一年の持つ意味が大きく且つ重くなる。はたして一年で自分がどのように役立つか?どのように成長するのか?そんな思いを巡らせていると、今の太陽の家を利用する爺さん婆さんの気持ちには、察するに余りある。そんな少し侘しさも感じるこの頃である。
先週末は認知症キャラバンメイトの養成研修を受講していた。講師として午前中の講義を担当された伊勢市のDrが、ボケの前に使われていた名称はなんだろうね?と質問された。その答えが「もうろく・耄碌」だそうだ。この言葉自体は馴染みがあって知ってはいたが、ボケ老人以前の通称だったとは全く知らなかった。
「認知症」自体も、平成18年に呼び方が変わってから今になると、言葉自体は定着してきたようで、違和感はないように思える。これも、認知症の人の尊厳や人格を守るために、適切な言葉に代えられてきた結果として、それぞれの時代背景によって言葉は変化してきた例である。
もっとも、今の僕が受ける印象は、認知症>地方>ボケ>耄碌。と言った順に受けるイメージの強さが変わる。その当時には、人権無視も甚だしく、何とも言いようのないイメージを抱いていた言葉も、今の時代となると言葉の持つイメージに若干の変化が感じられる。ボケ!と言われて腹が立たないわけではないが、使い方によっては憎めない柔らかな刺激程度しか受けない時もあるのだが・・・さらに、耄碌って言葉には逆に柔らかい優しささえ感じる。ってのは、どうなんだろう・・・??
言葉ってのは、その時代の先駆けであり、その時々に発生してくるいろいろな事象を言葉と掛け合わせて、人間はイメージとして頭の中に記憶していく。だから、これらの言葉は変化し続けているのではないだろうか?
とすると、今使っている「認知症」ってのも、後10年先には、不適切な言葉として新たな言葉が登場してきているかもしれないですね!!!