モクレンの花が咲いた。かすかに辺り一面にモクレンの甘いにおいが漂うような気がする。
この花が咲くと、いよいよ春も近い!と感じる。若干、桜より早く咲くが、散るのも早い。
花弁が日増しに黒ずんでしまうところが、少しはかない。
モクレンは英語名をマグノリアという。昔、花屋さんでバイトしてた時に人気だったことを思い出す。
昨年末に東京ドームで、昔、昔の私たちの年代が青春と言われる頃に憧れていたグループサウンズと言われるミュージシャンのコンサートがあったらしい。そのコンサートの録画がNHK・BSで再放送されていた。その当時、日本の若い女性の一番人気を誇っていたのが、このグループではなかろうか・・・。
私がまだ中学生の時代。社会的に問題となった長髪で、サイケデリックな服装やら、分けの解らない 新しい音楽を持ち込んだのが、グループサウンズであり、コンサートの会場では、あまりの興奮に気絶する女性がたくさんいたのが特徴である。
この放送を聴きながら、昔よく聞いた曲だけに、この歳になっても歌詞が出てくるのが不思議で、聴きながら昔の情景が鮮明に浮かんできた。
しかし、テレビの画面に映し出されるバンドメンバーの 変貌はすさまじく、もしも仮に街中ですれ違ったとしても、あの有名なグループメンバーだとは気付かない程、みんなが歳を隠せない年齢に、自分自身の歳を思い知らされるような恐怖をもって見入ってしまっていた。
音楽に合わせて、横へ飛んだり、足を上げたり・・・しかし、その姿はそのままうちのデイサービスに通ってくる爺さんたちそのもの。
一曲歌い終わると同時に息が上がっている。声の広がりが昔のように、大空に抜けていくような透明感がないためにビブラートで補っている。そのビブラートがやたらに多い。
そして、バンドメンバーも老けたが、時折、テレビカメラが観客方向にふられ、聴衆の顔や姿が映し出されると、そこには、人生の甘いも酸っぱいも知り尽くした年代の婆さん、爺さんがいる。そして、その聴衆は、 メインボーカルの指さし歌う姿に、今となっては絶叫のような叫びではなく、年老いた牛がほえるような声で応えていた。おそらく失神する者はひとりもいなかったであろう・・・。
音楽は時代を表し、その時代を象徴しながら、年月の経過とそもに思い出と結びつき、その人それぞれの人生が描かれる。僕も、このグループサウンズを聴きながら、その当時の自分を、そしていろいろな出来事を思い出していた。
しかし、思い出は思い出として、心の隅の置いておく方が良いのかもしれない。今の年齢となり、その当時に無理やり戻そうにも無理があるし、逆に時運の年齢を寂しく再認識してしまうだけで終わるかもしれない。
今日の屋外は意外と肌寒い一日で、風が冷たい! でも、初老のオッサンは風の子、元気いっぱい自転車乗って鈴鹿市の山の手へ向かって、向かい風おまけに上り坂を必死に走っていく。
今まで走ったことのない道を選んで走っている内に、この写真のようなレース場を見つけた。最初は何気なく通り過ぎたが、こんな田舎に、なんと贅沢なラジコン用レース場が作られている情景を写真に収めたくって引き返した。
写真の順番が狂ってしまったけど、ここに紹介する池は、鈴鹿市のインター近くにある竜が池って名称の貯水池で、僕が聞きかじった程度の説明させてもらうと、昔、この池が良く氾濫をおこして近隣の田畑に被害が出ることが多かったらしい。そこで、お竜さんと言う地元の若い女性が人身御供となって堤防に生き埋めにされたとか。それ以降、池の氾濫は収まり近隣住民は安心して暮らすことができた。という伝説が存在する。
でもこの写真からは、そんな凶暴な池には見えないほど、静かでおとなしい池のように思える。その竜が池でのスナップとバイクを撮影した。
『がんの征圧は間近か!? - 鳥取大、悪性度の高い未分化がんを正常細胞に転換』
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140128-00000069-mycomj-sci
1月28日のネットニュースに掲げられた見出しは衝撃的なニュースであった。鳥取大学医学部が未分化の癌細胞を正常細胞に転換できる方法を発見したというニュースである。医学的知識の乏しい私には、単純に喜ばしいニュースとして、近い将来に癌患者にとって素晴らしい発見であると同時に、人間の死に至る第一要因ともいえる癌が根絶されたら、人はどのようにして死んでいくのか?を思った。
現在の人の死における第一次の原因疾患が癌であり、それ以外は心臓疾患や脳出血などの疾患が言われている。一部報道では成人の二人に一人は癌を患っていると言われ、生命保険会社もこぞって癌治療をめぐる保険を整備している。
その中で細胞の変化を正常細胞に変えることができ、癌となっても死に直結する病でなくなれば喜ばしいどころか、これほど癌患者の精神的支えになる発見は無いのではないか。しかし、こうやって不幸にも癌で死ぬことが経たれてしまう将来を考えると、逆に不安になってしまうのも事実である。
2025年には団塊の世代が軒並み75歳の後期高齢者の域に達し、ただでさえ認知症の増加が懸念される上に、医療分野の並外れた進歩は(介護の進歩が追い付いていない・・・ともいえるが)さらに、人生の幕引きの原因となる切っ掛けが無くなっていくのである。死の宣告と言われた「癌告知」でさえ恐れることはなくなれば、いったい人類は何をもって人生の締めくくりとするのだろう。もちろん、癌で死ぬことの恐怖は十分すぎる程、自分自身は理解しているが、その癌ですら完治するとなると(癌の場合は「完治」とは呼ばない)、人生はどんどん長生きすることとなり、長寿につれ認知症の発症が増加する。と言うわけである。
何にしても人は死を恐れる。かく言う私自身、死に対する恐怖は人一倍強く抱いている。体力も衰え、自分の姿かたちさえも衰えを見る年齢となって、世間に醜態をさらすことを良しとしない自分さえ、死ねる病が無くなることの方が恐ろしい気がする。ヒトは本当に都合よく作られているものだ。死を恐れ、病を憎み、病が無くなることを切望しながらも、老人として夢も希望もなく、ただダラダラと生きることにも文句を言おうとしている。
毎日、毎日、本当に何のために一生懸命動き回っているのか、時として見失ってしまうときがあります。特に何かして結果に結びつくものばかりではなく、全く何の効果も、結果も得ることにならない場面の方が多いくらいです。それでも、私たちは必死になってもがいているのですが、この「面倒くさい・・・」を全て排除したら・・・いったい自分はどんな風になってしまうのだろう??
面倒くさい事をせずに生活する。たとえば朝起きることが面倒くさい。だから寝続ける。しかし、寝続けると背中や腰が痛くなるよねえ。第一、そんないっぱい眠り続ける事も出来ないし・・・
そういえば、朝起きて歯磨きするのも面倒だ!僕の場合は朝ぶろだから、朝からお風呂に入ることも面倒くさい・・・でも、寝起きに歯磨きしないと、口の中が気持ちよくない。大体からやね、歳とってくると加齢臭なるものがあって、朝起きて服を着るにも加齢臭たっぷりに香水たっぷりは好ましくない。匂いが混ざって、それこそ全部洗い流したいくらいの気分となるだろうね。
僕は食べ物に対して貪欲だから、朝食は面倒くさくない。
しかし、仕事に行くのって面倒くさい。仕事なんてくそくらえ!って呟きながらも、デイサービスやグループホームの爺さん婆さんたちの目を気にしながら、仕事に出ずに裏庭の草むしり!なんてできっこないし。
日中は、色々なところからの電話が入るけど、これだって面倒くさいの一言に尽きる。別に話をしたくはないし。相手の都合で電話に呼び出される。これは何とかせにゃ!おまけに、もう一本ある電話も鳴りたい放題で、ジャンジャンかかってくるけど、俺は電話交換手じゃあないし!って大声で叫びたくなる。
しかし、この面倒くさい毎日が無くなってしまうと?きっと寂しいんだろうね!何もすることがない程、わが身をもてあそぶ。ただ、じっと黙って周りを眺めているだけって耐えられないよね!!
すると、やっぱ、面倒くさい≒遣り甲斐、生きがいに結び付くってわけなんだ。まだ、当分は、この僕も毎日、面倒くさい!と叫びながらも、仕事を続けているのだろうね!