太陽の家

  • ホーム
  • 太陽の家とは
  • 施設のご案内
  • サービスのご案内
  • ブログ-施設長の部屋

ブログ-施設長の部屋

2013/10/3
耄碌・ボケ・痴呆・認知症

20120916_171414.jpg

先週末は認知症キャラバンメイトの養成研修を受講していた。講師として午前中の講義を担当された伊勢市のDrが、ボケの前に使われていた名称はなんだろうね?と質問された。その答えが「もうろく・耄碌」だそうだ。この言葉自体は馴染みがあって知ってはいたが、ボケ老人以前の通称だったとは全く知らなかった。

「認知症」自体も、平成18年に呼び方が変わってから今になると、言葉自体は定着してきたようで、違和感はないように思える。これも、認知症の人の尊厳や人格を守るために、適切な言葉に代えられてきた結果として、それぞれの時代背景によって言葉は変化してきた例である。

もっとも、今の僕が受ける印象は、認知症>地方>ボケ>耄碌。と言った順に受けるイメージの強さが変わる。その当時には、人権無視も甚だしく、何とも言いようのないイメージを抱いていた言葉も、今の時代となると言葉の持つイメージに若干の変化が感じられる。ボケ!と言われて腹が立たないわけではないが、使い方によっては憎めない柔らかな刺激程度しか受けない時もあるのだが・・・さらに、耄碌って言葉には逆に柔らかい優しささえ感じる。ってのは、どうなんだろう・・・??

言葉ってのは、その時代の先駆けであり、その時々に発生してくるいろいろな事象を言葉と掛け合わせて、人間はイメージとして頭の中に記憶していく。だから、これらの言葉は変化し続けているのではないだろうか?

とすると、今使っている「認知症」ってのも、後10年先には、不適切な言葉として新たな言葉が登場してきているかもしれないですね!!!

2013/10/2
What a Supplies!!!

dsc02910.jpg

日本語に直訳すれば「何という驚き!!!」となるのだろう。昨日10月1日は僕にとっては、一生に一度の日。人間未来と過去しか存在しないという人もいるが、この瞬間から過去に変わっていく中で、昨日の出来事は非常に驚いた。また、驚いた以上に感激した。皆には大きな声では言えないが、本当はこみ上げる涙をこらえるのに苦労した程の出来事だった。

これは組織ぐるみで実施された。まず、事前に、僕が大事にしている職員の一人から「相談したいことがある」と告げられ、業務終了後に話をしたい旨、申し出があった。通常このような申し出があって、職員側から言われる話の内容ってのは大半が退職を言い出すケースが多い。今回も自主退職を切り出されるのか?と不安な気持ちとなりながら、その瞬間まで待たなければならなかった。

夕方の掃除も終わり、翌日の業務の準備に掛かろうとした頃に、彼女から依頼されて喫煙場所に移動した。案の定、彼女の口から出た言葉は、退職の意向を告げられ、おまけにご主人と離婚する!ことを理由に退職するという。この彼女の切り出しに、正直、僕は戸惑った。事業所を退職することは、本人の希望であれば仕方ないと一部では考えているが(もちろん、信頼する職員たちだから、そう簡単には認めることはできない)しかし、そこに離婚が退職理由となると、そうそうあっさりと結論を出した彼女を認めることはできない。何とか考え直すことはできないのか?その糸口を探らなければ・・・とそんな思いでいっぱいで、彼女の話を聞いていた。

涼しくはなったと言え、まだまだ蚊が飛び交う屋外で、蚊に刺されながら話を聞いていたところに相談員が広域連合から電話を告げに来た。業務時間外に電話がかかるはずがないはずなのに・・・と思いながらも相談員の言葉に促されて応対に出るために施設内に戻った途端、職員たちの祝福のクラッカーがさく裂した。そして、お誕生日おめでとう!の言葉と花束、プレゼントを渡されて、ようやく職員たち総出のサプライズであったことに気づいた。

長年、ともに働いてきた職員たちに祝ってもらう還暦。これほど幸せなことはない。と思ったし、僕が涙をこらえるのに必死だったことは想像してもらえると思う。すべてが終わってから職員と一緒に撮影した記念写真の僕の顔には目が無くなるほど細く、垂れている。見っとも無い顔だが、どれほど驚き、感動したか、皆様に見てもらいたいと思って公開した。

(続きを読む…)

2013/10/1
生きる!って辛さについて(誕生日を迎えて考えたこと)

最近の僕のブログは、非常に能天気な自転車紀行文ばかりで、社会福祉をやってる施設長のブログから、ずいぶんとかけ離れている。これは、一つに自分自身が今一番はまっている余暇について書きながら、人間生きるためには精神的な糧がないと心の余裕が生まれてこない。と言うことを分かってもらいたいという願いがあること。そして、もう一つは、昼も夜も、プライベートと仕事しているときの区別をつけなければ(夜も昼も仕事のことばかりではダメだってこと)いけないこと。この理由で、堅い話だけでなく、高齢者介護から離れた全く無関係な話から、撲自身を理解してもらいたいと、ある種の期待をもって書いている。

さて、人間が生きていくことの辛さについて今日は書いてみたい。

先日読んだ本に稲盛和夫氏の「生き方」と同じく稲盛氏と瀬戸内寂聴氏の対談集「利他」の二冊がある。著者の説明は別にして、お二人については、知らない人はいないくらい有名な方であり、いずれの本もとても興味深く読ませていただけたし、もしも良ければ、このブログを読まれる方々にお勧めしたい一冊である。

特に僕が大きく影響を受けたのは「生き方」の一説、「考え方のベクトルが、人生すべての方向を決める」である。それは、人の人生の方程式は、その人の持つ能力ではなく、その人のかける熱意と努力の積で決まるという説に納得するものがあった。つまり、いくら能力が高くても、その持てる能力に胡坐をかいて努力を怠れば、そこに生まれる成果は期待できない程度で終わるのである。

逆に持てる能力が人並であっても、そのことをシッカリと受け止め、その不足する分以上の努力を行うことで、生まれてくる成果は能力を持ちながら発揮しない者よりも大きな成果を得ることができるという理論である。

まさしく誰しもわかっている通りの理論であるが、これは「言うは難し」なのである。その理由は、熱意だけではなく、そこに「考え方」が必要だと説いているのです。

私たちの住む社会は複雑に入り組んでいる。情に掉させば流される!と言うように、人間関係に良かれと思った支援を行ったとすると、そこに軋轢が生じる。自分は良かれと思っても、そこにいろいろな考え方が絡んでくることから、ことが余計に複雑になってしまう。

この複雑さは、そのまま我々の受けることとなるストレスに変わり、自分自身も同じだけのストレスに置かされてしまうこととなる。時に過敏すぎることでストレスに負けてしまいパニックを起こしてしまう。また、時にストレスに対する鈍感さから、別のストレスを他者に負わせてしまう。

とにかく、人間ってのは厄介な生き物で、良かれと思って行っているにもかかわらず、それをそのように素直に理解してもらえないことが多い。当然、そこに生きることの辛さを感じ、それらの分厚い壁を越えなければ生きることを継続できなくなるわけで、今の社会から逃れようとする自殺者が増加している原因がここにあるような気がする。

そのような現状を考えると、我々が生き続ける意味は?これはある意味、永遠の課題なのかもしれないが、撲自身の人生には限りがある。それ程の悠長なことも言っていられない。だから、とても横着なやり方かもしれないが、自分なりの結論を見出さなければいけないと考えている。そして、その答えが、先にも書いた「人生の方程式」を如何に描き、それにしたがって自己実現を求めていくかであると考えている。

人生、死ぬ間際まで自己を求めて悪戦苦闘していくようだが、この僕も御多分にもれずに同じことで悩み続けている。いくら考えてもスッキリと納得できる方程式が見つからない。それは当然のことで、僕の頭脳は超一般的な頭脳の持ち主で、特に秀でているところは何も持ち合わせていない。只、単にブログを使って、自分自身の気持ちをや考え方を表すことができるだけである。

まだまだ発展途上。いつまでたっても(何歳になっても)成長途中ではあるが、何はともあれ前に向かっていく努力とそれに対する熱意と正しいと考えられる方向へ向かっている点が、この僕の一番の力ではないかと考えている。

今日はちょっと理屈っぽい話となってしまったが、僕は、今、自分自身を見失っている人たちに大きな声でお伝えしたい。みんなも同じように迷い、不安を抱きながら手探りで毎日を生きているんだよ!って伝えたい。


2024年 4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930          
月別表示
最近の記事

  • 太陽の家 お気軽にお問い合わせください
    〒513-0808 三重県鈴鹿市西條町495-1
    TEL:059-383-8383 FAX:059-383-7938
  • インターネットからお問い合わせ
  • お電話でのお問い合わせ
059-383-8383
受付時間/9:00~18:00
閉じる  印刷する