先日、和田さんからメールが届いたことをすっかり忘れていた。(ごめんなさい!) 私たちの仲間・・・と言うより大先輩の和田行男氏が来る11月23日(土曜日)夜のNHK総合テレビに出演する。コメンテイターとして2名の医師、訪問看護師1名と和田行男氏の四人が「NHKスペシャル」で放送される。認知症介護に関してプロフェッショナルな和田さんです。なにかと新しい刺激や気づきを与えてくれるはず。ぜひ、この日はチャンネルをNHK総合テレビジョンにセットしてください。
放送日 : 平成25年11月23日(土曜日) 21:00~22:13(中途半端な時間だけど、メールに記載された時間をそのまま書き込みました)
: NHK総合テレビ 「NHKスペシャル」 :
「母と息子の介護記録3000日、認知症800万人時代への処方箋」(仮テーマ)
NHKスペシャル 収録風景の画像
本日より、当デイサービス利用者の皆様に、機能訓練に関するアンケート用紙をお持ち帰りいただいております。このアンケートは、機能訓練の専門職が加わって以降、6か月が経過したことから、これまでの機能訓練に対する利用者、ごかぞくの評価をお聞かせいただく趣旨と今後の機能訓練に対するご要望を調査する目的を持っております。
アンケートの設問は6項目であり、無記名で返却していただけますので、どしどしと厳しいご意見を含め忌憚ないご要望をお聞かせください。
アンケート回収の締め切りは設けておりませんが、できる限り速やかにご返却いただければ幸いです。
介護施設におけるチームワークは、介護の質を担保するにはとても重要な課題である。職員の個人レベルでは有益な能力を有していても、チームとしてのバランスが確保できないと、全ての支援は単一的支援となり、継続性が保てない。継続性が保てないとなると、何が一番不都合かと言えば、利用者の全ての機能向上にむけて常に初期段階の支援の繰り返しに終わることである。これをリハビリに置き換えてみれば、一度向上した機能が、少し間を置くことで振出しに戻ってしまうことと同じ状態が、日常的にデイサービスの現場で行われていることと等しい。
僕自身も高齢に日に日に近づいてくる中、一日の終わりごろには足腰の痛みが出始めている。激痛があるわけでもないから病院受診する必要性はまだ感じていないが、少しでも動くことを休んでしまうと、次に体を動かす時には、それまで以上の痛みが伴うようになってきた。これも経年的身体の老朽化というものの一つではないかと考えて、内心では僕も年老いてきた!という諦めの境地に達している部分である。
このように歳をとるという事は、体のいろいろな部位に支障をきたすことであり、それによって一日の自分自身の精神的、肉体的、行動力に多少ならずも影響を及ぼしている。また精神的な苦痛として日々のストレスの際し、以前ほど自分自身が力強く払拭できなくなっているのである。精神的な力ってのも、身体と同じように加齢に伴い低下してくるのである。まず根気が減少してくる。最終的な詰めに甘さが見受けられる。人に対して寛大になれる(・・・本当・・・??)
最後の人に対して寛大になれるってのは眉唾としても、以前ほど怒鳴り散らす回数が減少してきていることは確かである。うちのケアマネが常にいうには、「丸くなった!」である。歳と共に身長も縮傾向であり、人間が一回り小ぶりになっていくから丸くなった訳ではないが、確かに他者に対する熱い想いは、年々冷却傾向にあるのかもしれない。
さて、このチームワークに本題を戻すが、如何にしてチームワークを形成するか?!この問題はなかなか難しい問題で、一晩でチームワークが作られる事は稀である。しかし、何かの事柄をきっかけに簡単にチームワークが構築される可能性も持ち合わせている。後者の場合は労働争議が良い例である。経営者の圧力に対し、従業員組合が話し合って一致団結するときがそれである。要するに何か、共通する悪に対して立ち向かう時には、一致団結しやすい特徴がある。しかし、この場合、外圧にすべての者たちが苦痛を与えられている場合は団結しやすいものの、そこに不満が蓄積していない場合には、その限りではない。
人間だれしも、自分に都合の良いように身の回りの環境を整えようとする。すべては過ごしやすいように、安楽な日常を求めて・・・
それでは、特に際立ったコンプレイニング(苦情)を持たない現場職員のチームワークの場合はどうするのか?それは、職員の目標の座標を同じ点に持つこと。つまりは、自分たちの進むべき方向をそろえることから始まり、職員それぞれの喜びの尺度は異なるものの、全員で同じものを求めていく理念を共有する。連携力に関しては、誰一人として知らない者はないくらい、横のつながりと情報の共有化が達成されていることが自分たちの自負心につながる理念である。
非常に難しい課題ではあるが、事業所で開催される行事を職員全員で作り上げることから始めたい。イベント計画から完了までに職員の持てる力を結集させることで、そこに仲間意識が芽生える。同じ釜の飯を食らう!と言う表現通り、同じ土俵で技能の差こそあれ、同じように難ケースに悩み、高齢者の笑顔に歓喜し、利用者の死亡で涙を流す。そのような繋がりを繰り返すことで、次第次第に職員間の用談的連携力は格段に向上するはずである。
ほぼ毎日、本を読んでいる。テレビを見るより読書の方が多い。もちろんテレビは消した状態で本を読む。僕は、それほど器用な方の人間ではないので(いや、それ程頭が良くないので集中していないと目が活字をなめているだけで、頭の中に入ってこないからテレビなどの音のない環境でないと本が読めない)二重、三重の出来事のある環境では本が読めない。
さて、今、読んでいる本は「退陣援助職のためのスーパービジョン」と言う本を読んでいる最中である。この本の原作は英文で書かれているらしく、日本語に翻訳されているものである。翻訳本ってのは、翻訳家によって内容に開きが生じやすい。この本も御多分にもれず読みにくい本である。翻訳の仕方が理解しにくい箇所がところどころ見受けられる。まあ、偉そうなことを言うようだが、日本語に代えた場合、意味が安易になったり、逆に小難しい表現が、文章を分かりにくくしたりしてしまう危険性がある。
しかし、この中に面白い部分があったので紹介しておこう。それはストレス管理について面白い説明文があった。以下は本文からの抜粋である。
『 あるとき、ストレス管理について話していた講師がコップ一杯の水を持ち上げて聴衆に尋ねました。このコップの水の重さはどれくらいでしょうか?
その答えには20gから500gまでの幅がありました。そこで講演者は答えました。実際の重さはどうでもよいのです。問題はどのくらいながくもっていなけれbならないか、と言うことです。1分間持っているのは何でもないでしょう。1時間持っていたら、たぶん右腕が痛くなります。もし1日中持っていなければならなかったとしたら、救急車を呼ぶことになるでしょう。どの場合も、その重さは同じです。でも長く持てば持つほど、それは重くなってくるのです。』
これはストレスと同じで、常に重荷を負っているとすれば、遅かれ早かれそれはさらに重くなって、続けるじょとができなくなります。コップの水と同じように、一旦どこかで下におろして休み、それからまた取り上げるのです。元気を取り戻したときには、また重荷を運ぶことができるのです。
どうですか?この部分だけは妙に納得しました。旨い表現だと思います。皆さんも日々、ストレスにさらされ重い気持ちで仕事を続けていることと思います。毎日の仕事を家に持ち帰らない。一旦ゆっくりと自宅で静養し、気持ち新たに翌日の仕事に臨みませんか???
今日のお昼は、太陽の家デイサービスセンターの主要なメンバーを招集して作戦会議を開いた。デイサービスの抱える課題や今後の目標を共有することが目的として行った。お昼ご飯を共に食べながらの一時間。簡潔に話をキリだしながら、それぞれの意見を聞いていった。まあ、聞いていったというものの、その大半は僕が話しているだけではあるが、それぞれの担当する専門性に対し、目標を同じくして、どの様な協働体制が取れるのかと言った投げかけである。
専門性ってのは、結構重要な問題で、これを蔑ろにすることは担当領域を侵犯することと同じ意味があり、その担当者のモチベーションを下げるだけでなく、この事業所から離職する危険性さえ抱えている。
この取り組みが功を奏するか否かは、今の時点ではわからない。しかし、太陽の家では、職員との連携に際し、出来る限りの意見交換を行うようにしている。とにかく、僕の意見をはっきり告げることから始まり、皆に考えてもらう。同調してもらえれば、後はただひたすら、その目標に向け突っ走るだけ。そのような運営を行っている。
僕のブログで紹介させてもらっているとおり、鈴鹿サーキットで行われるF-1日本グランプリに係わらせていただいて二十数年。度あるごとに貴重な画像を紹介させていただいている。一般の観戦客では見えない、接することのできない場所などの写真も公開させてもらっている。
人に話をすると、とても羨ましがられることが多いし、僕にとっても自慢の種である。が!しかし・・・である。
僕はこの仕事をさせてもらうようになってから、一度も生でマシンが走る姿を見たことが無い。全てテレビモニターを通してしか見れないのである。この理由は、僕に与えられているクレデンシャルは、F-1走行時にピット側に出れないパスだからだ。ご存じのようにF-1グランプリは、厳格なルールで縛られており、このルールに対しては国家元首であっても曲げることができない。それはそれは厳しいセキュリティによって守られている。そのルールに従えば、僕らのようなチームサポートを主体とする業務は、レースの運営には絡む必要が無いという理由から、一線を越えることができない。もちろん、観戦券を購入して指定席に座れば、生の走行と音を楽しむことはできる。
実際、古い昔、この業務にあたる前には、観戦券を買って観たことがある。一観客としてね。アイルトン・セナやプロストが戦っている時代の話である。日本中がF-1の熱気で包まれ、園内で購入するお土産のF-1グッズが、レース終了後には売り切れる程、熱狂的なF-1ファンで埋め尽くされた時代である。
そんな時代から、時は経過し、今ではBS放送以外でF-1の放送を見ることもない。そんな不遇の時代となった今、それででも僕はF-1の走行をモニターテレビを眺め、決勝レースが開始され10周が過ぎた時点で、表彰台でのセレモニーの準備で、表彰台(ポーディウム)裏で、ゴソゴソと選手のためのタオルと水、シャンパン、トロフィーの準備に走り回る。表彰台に上がる選手の確認のために、最終結果はモニターテレビの計時チャンネルでドライバー名を確認し、その時に備える。そして、プレゼンターの方々への式典の流れの説明を通訳する。
業務として接するF-1グランプリ。とても寂しい、悲しい仕事と言えば仕事である。でも、誰もが許されない場所での仕事を託されている。ある意味、贅沢な悩みでもある。
ここが作業場でもある、ポーディウム裏のユニラテラルと言われる場所。プレゼンターや表彰対象のドライバーが集まる控室である。スポンサーのロゴで飾られた壁は、国際映像に映し出される関係上、F-1以外の業者のロゴは一切排除される。
F-1グランプリ用の表彰台(夜間に撮影)最近では、この表彰台ごと海外から持ち込んでくる。
太陽の家の隣にあった店舗が解体工事に入った。大型の重機をもってすれば、鉄骨構造体なんて紙切れのごとく、簡単に解体されていく。真横にあった店舗だから、営業中には、数回はお世話に成ったお店である。当グループホームの利用者の皆さんと一緒に、食事に伺ったこともあって、今更ながら解体される姿に一連の寂しさもある。
世の中の物に「不変」の文字はない。鉄で作られた構造物にしろ時の経過とともに古びていく。人間だって同じである。今、私の母が近所の総合病院に入院をしている。心臓の痛みを訴えて主治医の勧めで総合病院に入院した。今年で85歳である。寄る年波には勝てない現状。歳と共にいろいろな箇所に痛みや不具合が生じてくる。
その反面、孫が子供を産む。次の世代の誕生が行われている。世の中のサイクルが、自然の営みとして確実に回っている。我々の介護の業務も、このサイクルの中に存在し、そこで必要な支援を模索しながら実践している。時には余計なお世話であったり、時には配慮不足であったり、いろいろな形で密度を変化させながら(と言うより、学びながら改善や方向転換を行いながら)絡んでいる。
破壊に伴う喪失感は、そのまま新たな構築につながることを信じ、そのような支援を行えることが我々に託された使命ではないかと思う。失っていくものに囚われ過ぎず、次のステップにどのようにつなげていくのか?そこが問われているような気がする。
人間の記憶は、殊更いい加減にできているらしい。いくら記憶力抜群の人間でも、一晩寝れば半分の事柄は、記憶から離れていく。そして、そのまま放置すること数日もすれば、ほぼ100%にちかい内容が望郷のかなたへとなり果てる。僕なんか、それ程記憶力のいい方ではない者だから、尚のこと物事を忘れ去るスピードが劣化している。
そんな僕の唯一の継続していることに、自分の中で大切と感じる事柄、出来事、理論などに遭遇した時に記録する、言ってみれば「漫才師のネタ帳」みたいなものがある。
何の変哲もないA4ノートを使って、自分の思う大切な事項を書き残している。これが、研修用の資料を作る時に結構役立つ。また、職員会議の中で、反すべきこと等を整理するのに活用されている。
僕は、いつも職員に言い続ける事に、提出物の期限を守ること。文章を正確に書く癖をつける。スピーディーな行動がある。これらは、僕が学生時代に学んだことで、あの当時は社会福祉士になるために、すべての行動が重要視される中で、半強制的に身につけられた。社会福祉士の受験資格を取得するには、実習や必須教科の習得、レポートの提出など、いろいろな制限が加えられていた。これらの細かな義務を守れないと、社会福祉士の受験資格を得ることが難しかった。
本来ならずぼらで自分主義の自分であったが、ある意味強制的にでも自分を制限していかないと願望を実現できないと考え、かなりの点で自分自身を強制していたように思う。
そのような中で、一番重要な制限を加えるうえで、この落書き帳がとても有効かつ有益な武器となった。
だから、僕から皆さんへのアドバイスとして、何でもかんでも書き残そうぜ!としたい。頭に思い浮かんだことや、実際にあった出来事を記録することが、のちのち生きてくる。小さなメモでもOK。自分の記憶を過信するなかれ。人間の記憶ってのは、それ程いい加減なものだからだ。
今日、僕の母親から電話が入った。うちの両親はおかげさまで二人とも健在である。父も母も80歳半ばをこえた。父は年齢相応の物忘れが出始め、最近では部分的に社会生活が自立できていない風にみえる。しかし、まだ車を運転している。先日、父の孫娘がフェイスブックを通じてメッセージを送ってきた。彼女は、爺さんが自分の姪と孫を取り違えたことを持ち出して、いつまで爺さんの車の運転を認めるのか?と聞いてきた。経度認知症状といえるようなボーダーに居るような爺さんである。
母は若いころの重労働が祟ってか、両膝の関節がすり減り歩くことが困難な状態にある。ひざの痛みの影響か、最近では円背も進みつつある。立つこともやっとの状態とひざ関節の痛みは、彼女の日常生活に大きな苦労を強いている。
そりゃ息子の僕が還暦ともなれば、その親が年老いていろいろな身体的問題を抱えても無理ない。そんな年齢に達したのである。
そんな母が、この時期、必ず秋祭りの時に作る押し寿司がある。昔から田舎に伝わる食べ物で、木の箱にごはんと具材を乗せたものを何重にも重ねて圧力をかけて作る押し寿司である。何の変哲もなく、いたって普通の田舎料理。その寿司を僕に食べさしたい一心で連絡してきた。おまけに足が悪いくせに、僕の家まで届けると言う。もちろん、歩くことが困難だから、父親に軽トラックを運転させ、助手席に座ってくるつもりだろうが・・・
我が家に届いた寿司を皿に盛り、添えてあった手作りの紅生姜を見つめながら、何だか笑えてきた。この歳になって・・・何でも自由に手に入る時代に・・・この素朴な食べ物が僕の胸の中に熱いものを湧き立たせる・・・幾つになっても親は子を思い続ける。その想いに胸が熱くなる。
さあ、そろそろ、F-1フィーバーから現実の高齢者介護について自分の気持ちを切り替えよう。(もちろん、自分自身に対する言葉ですよ)
高齢者介護を生業とする職員のレベルは、それこそピンキリです。国家資格さえ持っていれば、それ相応のスキルを約束されているかと言えば、そうでもない現実がある。たとえば、僕のように資格だけはたっぷりと保有するものの、高齢者介護なんて一つも分かっていない者(なんちゃって社会福祉士ですから・・・)も居るくらいだから。
さて、保有資格だけの問題ではなく、今、ここにきて悪評高き”ゆとり教育”の時代を育ってきた若者たちの気づきの無さに介護の質の向上が阻まれている減いつが存在する。ゆとり教育世代全体を悪く言うつもりはないが、私たちの世代が育てた子供たちは、相当甘やかされて育てられた感があり、子供たちが人生経験どころか、何の苦労もなく、社会的常識すら刷り込まれていない「無知」な状態で成長させられている。
このような若者に、介護の気づきや配慮を求めても、どだい無理な注文である。幅広い視野を確保しながら利用者を見守る視点なんて、どこ吹く風。自分の前のことすら見えない者達に、180度の視界をもって周りに注意を払うことなどできっこない。
これでよく事故が起きないものだ!と感心するものの、このままではいけない。と奮起一発、職員研修を実施するが、理屈では理解できていても、その理屈を実際の現場に結び付けることができない。
いったい今の介護はどうなっているんだ???!!!!私たち団塊の世代が、あと数年で要介護者となる時期に、自分たちの育てた子供たちが役割を全うできないなんて・・・・これほどの不幸はないが、それもすべて身から出たさびなのか・・・
今、介護を実践している若者たちよ、そろそろ幅広く社会勉強しようぜ!そして、高齢社会の今の時代に、更なる専門性の向上を目指して頑張ろうではないか!!!