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ブログ-施設長の部屋

2013/4/3
訴訟化への懸念

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名古屋市の市立中学校に通っていた男子生徒(16)が同級生にいじめられ、うつ状態になったとして、当時の同級生(16)とその母親を相手取って損害賠償訴訟を起こし、名古屋地裁(片田信宏裁判長)がいじめを認定して、同級生と母親に対し33万円の支払いを命じる判決を出していたことが3日分かった。判決は母親についても「親として子供の教育や監督を怠った」と指摘し、責任を認めた。(毎日新聞)

日本もアメリカを追従するように訴訟が盛んに行われる社会へと変貌してきているようだ。いじめ問題は、今の時代を象徴する問題であり、このまま野放図に放置できないことは十分に承知の上で、この文章を書いている。ここで問題としたい点は子供の問題を訴訟に発展させてしまう社会構図について考えてみたい。高齢者介護の上においても希薄化する人間関係が、高齢者の社会活動に少なからず影響を与えている点では、本来の自立支援ってのは考えられない時代である。

いじめは排除すべきである。世の中が平和的社会秩序を保てるとすれば、それが一番の理想ではある。しかし、個人の自由、権利、尊厳が大切に扱われる反面、それら大切なものを強く主張しすぎるケースも無きにしも非ず。お互いの主張が真っ向から衝突することを良しとする社会が出来上がりつつある。また、あえて法廷闘争に持ち込む場面すら見受けられる。個人の主張が強く、相手を思いやり理解しようとする努力義務が忘れ去られているようである。もちろん、今回、取り上げた朝日新聞の記事を、僕個人の一方的な理論として、当事者たちを批判するものではない。そこには、少量の情報しかなく、人を批判するには少なすぎる情報であることから、この訴訟に至った行為をどうこう云うつもりはない。

ただ、訴訟への判断の良し悪しではなく、このような事例が増加することで、子供たちの社会が大きく変化する懸念。そして、その影響は子供の教育自体に跳ね返ってくるという点が不安なだけである。高齢者の介護を実践する中で、事故は常に大きなリスクとして介護者にのしかかっている。自立支援を奨励するあまり、何の制約もなく歩いてもらっていると転倒骨折のリスクが伴い、施設だけの生活から脱するための外出を進めることで、インフルエンザやノロウイルスに感染するリスクを背負い込むこととなる。高齢者をお預かりする立場としては、健康で安心な普通の生活を保障することが最重要課題であるにもかかわらず、これらの事故の発生は利用者の身体的活動能力を奪うばかりか、生命まで危機にさらすこととなる。もしもの事故を想定すると何もしない、活動もなく24時間ベッドで寝ててもらえることが一番の安心となってしまう危険性。僕は、この訴訟社会の抱える問題として、同じような無気力な社会を助長するような気がする。

訴えられて損害賠償金を支払うくらいなら、他人との接点を持たなければよい。そう安直に考えることが一番のリスク回避となる社会への変貌。それが、この社会の結末であるならば、こんな寂しいことはない。

2013/4/3
内緒だけどね!

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まあ、こんな発言って誤解されやすいので嫌なんだけど、ぼく、結構、マツコデラックス好きだねえ!いや、いや、ぼくはその筋の人でもなんでもなくいたってノーマルな男なんですが、マツコデラックスだけは嫌じゃないのですよ。最近のテレビ業界、様々なオカマちゃん達が大活躍してるではないですか。まあ、アメリカではベトナム戦争時代にすでにゲイが、社会的地位を確立するほどだったわけで、そう考えると日本でオカマが流行ってもおかしくはない時代なんでしょうね。

さて、マツコデラックスの体系や顔立ち、それこそ本物の女性よりも女性らしく美しい東南アジアのニューハーフからすれば、異様な程並外れた感じで、どこがいいのさ!?って聞かれても、それをシッカリと説明できるわけでもない。しかし、彼女(・・・?)のトークが面白い。なんだか、人のいい太っちょのおばちゃんって感じで、一緒にいたら話がはずむような気がするのです。感情の表現方法が感性豊か!って思うのですね。結構きつい言葉で相手を傷つけそうな場面でも、言葉が突き刺さらない。すごく上手な配分で話を進めるところに、妙に納得してしまうのです。

オカマちゃんと言えば、昔、面白い体験をした。学生時代にバイト中、髯もじゃのオッサンから電話しておいでと電話番号を紙マッチの裏蓋に書いて渡されたことがある。相手は白人のオッサン。若い日本人の男の子に興味があったんだろうね。次に、タイのバンコクのとある路地裏の怪しげなゴーゴーバー。無茶苦茶別嬪のプロポーションもきれいな女性(ではなかったんだけどね、あとで分かった)、お店に入ってカクテル飲んで、その子の踊りを眺めていた。まあ、本当にきれい! 日本でも、こんな別嬪みたことない!ってな感じ。まあ、運よく夜を共にする前にニューハーフってことが分かって、それで終わったけど。まあ、面白い国だバンコクって。

マツコデラックスの話が、オカマちゃんの話になってしまったけど、何にしてもテレビで売れている人は、それなりに輝くものを持っているんでしょうね。

2013/4/2
グループホーム太陽の家 さくらの会

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桜の会とは、うちのグループホームに組織された入居者による「自治会」の事である。この自治会は名称を変えながらも、このグループホームが設立された当初から継続されているが、ここ数年の自治会活動はかなり活発になってきている。その一つの理由に、職員のスキル向上が大きな要因と考えられる。それまでの自治会は、お仕着せの自治会的な集まりであり、そこで自由な発想や意見の抽出ができていなかったことが大きな原因ではなかったか。それが、今では定期的(月一回)な開催に合わせて、入居者の方々にも自治会の意見を普段の生活に反映されている点を含め、少なからず「やりがい」に結びついているのではないかと判断される。

さて、そんな自治会。僕は今では直接的に参加することはないが、毎回の議事録を確認している中で、その時の情景が目に浮かぶようだ。議事録に記される発言なども、読んでいて面白い。それぞれ皆さんの生活歴が如実に表れている点、その人を感じることができる貴重な時間であろう。今、新たに入居された方を含め、昔取った杵柄、それぞれに得意な分野を大いに活用させてもらえそうな面白さがある。

今回は、コーヒーが好きだという入居者さんの加入で、今までコーヒーを飲みたいといったことのない人たちが、口々にコーヒーを飲みに喫茶店に行きたいと言い始めたのである。これは、グループホームにとって画期的な出来事である。そして、職員にとっては思いもかけない方向性に、嬉しい状況であろう。前のブログでも書いたように認知症の人は、無感情、無表情、無関心な人ではない。そうしているのは、そこで働く職員の介護力の問題であり、なんら利用者の皆さんの責任ではないわけである。だから、利用者の方々が自発的にこうしたい、ああしたい!と言い始めることはうれしい事であり、生活自体が活発になってきている証である。

喫茶店に行く!喫茶店ごっこをやってみる。家族さんを呼んで、地域の皆さんを招いてウエイトレスも喫茶店のママさん役も決めてコーヒーを提供する場を作る。そのまま、オレンジプランで求められている認知症サロン、そのままである。

認知症の人との生活って、このような面白い、楽しい部分が多い。もちろん、生活支援ってのはシンドイ。しかし、毎日、こんな面白い発想や夢が見れる場になってくると、ここで働くことが楽しくなってくるのではないか・・・?!と思っている。

2013/4/1
認知症の人

認知症の人ってどんな人? ショッピングセンターで買い物する人の中に「認知症の人」がいても不思議ではない。元来、認知症ってのは病気ではない。認知症っていう症状をもつ人なのである。病気と言われるのは、脳血管障害であったり、レビー小体であったり、アルコールが原因とする脳障害であったり、いろいろな脳に影響を与える疾患が基になって記憶障害を引き起こしたり、人格が変容したりすることを認知症という。だから、癌とか潰瘍等のように疾患に応じて一律の症状をみせる病態ではないのです。認知症の人への対応の難しさの云われは、個別の疾患によって、そこに発生する病態が変化する点に家族や周りの人たちが、面食らうこととなるからなのです。

認知症を抱える人すべてが、単なる記憶の障害だけなら、接し方に苦労することもないのです。記憶を失うことは、生活に即、支障をきたすわけでもない。薬を飲むことを忘れても、お鍋に火を入れていることを忘れてお焦げの大量生産をしてしまうことも、息子の顔を忘れてしまうことも、家に帰る道を忘れてしまったとしても、そんなのは大した問題ではない。忘れていることを思い出させるのではなく、忘れたからできなくなった点を支えてあげることで、その人の生活は成り立つのです。

しかし、そんな細やかな支援に気づかず、行方不明になるといけないから家に閉じ込めておく。お焦げを作らないよう、強いては火事を起こさないようにガスコンロのガスを止める。等の予防的(・・・?)処置をとる。動くことが危険だから、成す行為すべてに責任をとれないから禁止する。今の社会では、まだまだ一般的に認知症の人となる高齢者を無能な人として捉え、すべての行為を封じ込めようとする思考から脱せないでしる。危ないから包丁を持たせない。子供に対すると同じように、けがしてもらっては困る家族や介護者の意向が最優先される社会である。もちろん、認知症の人は包丁で怪我しても良い!というわけではない。怪我も事故もない方がよいに決まっている。しかし、認知症でなくとも人間は(動物は)すべての自由を束縛することで、生きる力を摘んでしまうこととなる。生きる意欲がなくなることは、脳の活動も低下する。活動を止めてしまった脳細胞は死滅し始める。これが、認知症と言われる症状なのです。

認知症サポーター研修等で教えられる、働き蜂の世代が突如として定年を機に、仕事場から退く事により、認知症の症状が出始めるというではありませんか。まさしく活動を休止した脳細胞が死滅し始める瞬間でもあるのです。指先をこまめに使う訓練をする、生涯主体となった余生を過ごす。計算ドリルを行う。昔話に花を咲かせる。色塗りをする。このような能トレーニングと言われる作業を実施しても、認知症の予防にどれほどの影響力を持っているのだろうか?記憶力は、人によって機能の低下するスピードと段階が違う。90歳を超えても記憶力に衰えを見ない人もいる。逆に若くても記憶に障害を抱える人もいる。

要するに、人間が生きていくうえで障害を、どのように捉え、どのように障害をカバーしながら余生を過ごせるか?に関心を持つべきではないかと思うのです。もちろん、認知症からの回復は期待したいし、そうあってほしいのは誰よりも強く望んでいるのです。しかし、無意味な作業を押し付けられ、介護者の思い込みの支援を、受ける者の立場からすれば、そんな一方的な理屈がとおる介護の世界ってのは何なんだ?と反発したくなるのは当然ではないでしょうか!

漢字がわからなければ、辞書を引くことを進め、辞書を引けなければ一緒に文字を検索してあげ、家路が分からなければ案内しまたは方向を示し、もしもの時に他人に聞けるように住所を書いた札を持たせ、火事を起こさないように調理の時は付き添い、薬は管理を自分でできる限り行えるように一緒に区分けして、飲み忘れのないようなシステムを考えることで、いたって普通の生活が可能となるのです。僕は、世間一般の介護の専門職と言われる人々は、この欠ける点に着目して細やかな支援を可能とする介護を目指してもらいたいと願っています。

認知症の人を何もできない人と捉えず、私たちと同じ人間の一人であり、そこに暮らす市民であることを考える。その視点からすべてがスタートするのではないでしょうか。


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