今日のYahooニュースに長崎県の県立高校の入学式前のオリエンテーションの場で新入生200人の服装や髪型を検査。校則違反のあった生徒23人のうち足を痛めていた生徒を除く21人に反省文を書かせ、全員が書き終わるまで約3時間正座をさせた。この件に関して、入学式後に学校側は正座させた生徒と保護者に「教育を逸脱した長時間の正座をさせてしまい、不適切な発言もあった」と謝罪したそうである。
高校に進学する意思決定をし(自発的か否かはこの問題には関係が無いと考える)、その学校の一員となる以上、その学校の決めたルールに従うことは、生徒として当然だと考える。ましてや、学校に教えを請う者の立場として、先生の指導は絶対であるべきである。仮にその指導が自分の考え方と違っていたとしても、それなりに受け入れて、自分にとって何が正しいか仕分けできる技量を養うことも高等教育の目的ではないのだろうか? 自己主張することも重要であり、前回のブログでも書いたように今の若者のファッションである「ずり落ちパンツ」と同様、今の若者のオリジナリティーに対する考え方に疑問を感じてしまう。
校則を守らない若者流のアウトロー的格好良さをオリジナリティーと考えている生徒は、まったく自分達の姿が客観的に見えていない。暴走族にしても同じで、そこには個性と呼ばれるスタイルは存在しない。タダ単に一般の生徒とは違った考え方の小集団(マイノリティー)でしかない。マイノリティーで居るだけでは、自己主張しているとは言えないと思う。
どうにもこうにも、日本の若い世代は世界の国から見ても軟弱である。そのくせすぐに切れる。自由思想だけが勝手に先行し、責任と義務が置いてきぼりと成っている。そして、同時にこのニュースには、悲しい今の日本のもう一つの姿として、学校が正座させた生徒と保護者に謝罪していることである。学校として適切と考え、議論して創ったであろう校則。その校則を守れない生徒を、なぜ熱く指導せず弱腰の指導しかできないのか呆れてしまう。確かに生徒の人権は重要であり、将来のある若者である。だからこそ、現状を見て見ぬ振りをしてしまう。自分の人生、道間違った方向へすすんだとしても先生は知らん!と言わんばかりの事なかれ主義。この体制こそ反省すべきではないのだろうか?こんな逃げ腰の教育をしているからモンスターペアレンツなどと言われるアホな保護者がはびこり、ごねた者勝ちという風潮を作り出してしまったのではないのだろうか?
私たちの子供の頃、学生時代と共に、先生のえこひいき、利不順な叱責、暴言や体罰は日常的に行われていた。このことは自由社会であり人間の尊厳、個人を尊重する観点からも決して正当とは言えない。しかし、そんな学生社会の中に悩み、憤りながらも自分自身で泳ぎきる術を学び、そこから生じる反発エネルギーを糧に別の意味のリベンジに燃えた時代であった。また、先生は先生で、もっと熱のこもった熱い気持ちの師が多かった。もちろん、それにも関わらず、そんな学生生活に馴染めずにドロップアウトする生徒も存在した。しかし、生徒任せの自由気ままな教育指導を行っている現代においても同じようにドロップアウトは存在する。いや、ドロップアウトに関しては昔の数にも勝る大量の生徒が去っていくのが今の時代である。僕は学校の指導姿勢が厳しすぎることは、人間形成を阻害するとは思えない。
この6月から高速道路の料金体系が変更になる。平日の時間帯によっての割引制度は廃止。土日祝日の高速道路料金の上限金額が1000円から2000円へアップ。名阪鈴鹿から名古屋西までの高速料金は通常、普通車で1250円。今までのシステムだと土日の場合は半額の750円で走れた。しかし、この6月からは上限が2000円だから、割引は無し。通常の1250円の支払いが必要となる。また、通勤時間帯の半額割引が廃止されることで、夕方の5時以降の高速料金半額も無くなる。結果的に鈴鹿~名古屋西は通常の料金の支払いが必要となってしまう。その反面、伊勢自動車道と紀勢道は社会実験区間として完全無料となる。
現在の割引制度と相まって、新名神が名阪と合流した以降、関、亀山、鈴鹿、四日市の区間の高速道路が常に渋滞を繰り返していた。伊勢道の無料化、名阪の料金高騰の反作用によって、今後は伊勢から名古屋方面に帰るサンデードライバー達は津インター近辺で一般国道へ降りる事と成るのではないだろうか?すると、これから先、津近辺の国道が渋滞し、高速道路は関より先はスムーズに流れ始めることと成るのだろうか?まったく先が読めない高速道路の状況だが、もう少し、一般道も高速も含めて偏りの無い交通システムは考えられないものか?
高額の税金を投入して、道路が道路として機能しないインフラ整備に首を傾げてしまう。三重県は縦に長く、尾鷲や熊野から三重県の中心部に出てくるには高速道路網が完成していない今、まだまだ陸の孤島的な孤立した感がある。尾鷲まで距離が離れていなくても、津から鈴鹿間の20数キロに1時間もかかる事態、日本の交通システムの不備と言われても仕方が無い。車社会と言われるアメリカ合衆国においてもロサンゼルス市内のフリーウエイは日本の道路と同様、通勤時間帯の渋滞がひどい。特に海岸沿いを走るフリーウエイであるベンチューラからサンタバーバラなどへの道は片側5斜線もあっても車でいっぱいとなってノロノロ運転が続く。基本的には車の絶対数が多すぎるわけだが、その中でも一台の車に運転手だけという、一人を運ぶために車一台が動く状況が交通渋滞の原因となっていることは事実である。
1970年代のオイルショックの時代に。この渋滞で有名なロスのフリーウエイですら、一台も車が走らない時があった。ガソリンが手に入らない時代であり、自家用車に乗って移動するなんてことは考えられない時代であった。この頃、アメリカでは、乗り合わせて移動を呼びかける運動が始まった。同じ方向へ向かう赤の他人同士が寄り合って一台の車両に乗り移動する方法である。(生憎、ガソリン不足が緩和されるにつれ、このシステムは忘れ始め、一部のエコロジストが守り続けている程度と成った。)また、ガソリンスタンドの販売にも規制がかかった。車両ナンバーの末尾、偶数・奇数によって給油しても良い曜日を決めたりして、ある一定の制限を設けていた。この規制はある程度のガソリン需要にブレーキをかける役にはたった。 その頃の日本では、一般市民がこぞってトイレットペーパーを買い占めていた頃の話である。 高度成長期の日本の締めくくりに大阪万博が開催され、万博終了とともにオイルショックの到来を経験し、何のすべも無く、トイレットペーパーが無くなる噂や、市場から粉石けんのな消滅する噂に翻弄されていただけの日本であった。
この時代から30数年。今の日本も同じような究極の選択が今行われようとしている。行財政の無駄をそぎ落とすべく必殺仕分け人が社会機構の隅々まで重箱の隅をつつくように整理整頓を目指している。人間が生きていくうえで無駄の無い生き方は存続できるのだろうか?世の中の全てがガラス張りで見通し良く公平な世界となって、本当にこの世界の過激な競争社会で生き残れるのだろうか?政治家が打ち出す打開策が効力を発揮するでもなく今の日本は混沌とした泥沼の中でもがき苦しんでいるようだ。政権交代が成されてから、僕には尚更、日本の政治が国民から遠ざかっているような気がしてならない。
ここ最近、鼻や咽に違和感を感じ頭もいつもより重く感じる日が続いているので、前の薬屋さんへ薬を買いに行った。薬剤師さんに「花粉症かもしれないので、薬ください!」と相談したが、その薬剤師さんは薬に頼り始めると症状が悪化しますよ!と言われるので、もう少し薬に頼らず様子を見ることとした。そのまま、薬屋さんから直行で帰れば良いものの、ついでだからと併設のスーパーマーケットに足が向いてしまった。
スーパーマーケットってのは、野菜や果物を眺めているだけで食欲がわいてくるように陳列され、物を良く見せるための照明にも配慮が行きとどいた場所なのですが、陳列されたイチゴにしても赤く色づいた美味しそうなイチゴのパックを見てるだけで涎が出そうな・・・本当、美味しそうなのです。イチゴはかろうじて買わずに、鮮魚売り場へ。流石に生魚を見て買いたいと言う衝動こそ涌かなかったのですが、その後にお菓子売り場へ自然と向かってしまった。
このスーパーの計算された陳列方法が強烈に僕をお菓子売り場へ足を運ばせたようで、チョコレートからクッキー、ポテトチップスなどの商品を眺め、誘惑の魔の手を振りほどきながら出口へと急いだつもり。
本当に急いで帰るつもりが、とうとう捕まってしまった。あられコーナー。美味しそうなピーナッツ揚げの袋入りに目がとまり、一つくらい・・・いいさ!と勝手な言いわけをしながらレジへ。お金を払ってウキウキ気分で自宅に戻ったのでした。今、その時のお買い上げ商品の袋から一粒づつピーナツ揚げを口に放り込みながらブログを書いている。最近また太り始めた自分を戒める気持ちと、食べ物の誘惑に簡単に負けてしまう自分と二人の自分の葛藤の毎日を過ごしています。
楽しい時の過ぎ去るのが早く感じられるのは誰にも共通の感覚である。逆に苦しいときや辛いときは時間の過ぎ去るスピードは非常に遅く、その辛い時間が永遠に続くようにも感じてしまう。時計の針は同じスピードで、同じように、時を刻むのにもかかわらず、我々の感情がそのような感覚に差異をもたらす。僕にとって時間を早く感じる時とは「勉強している時」・・・・と言いたいところだが、その逆で遊んでいる時が一番早く過ぎ去ってしまう。特に旅行などは最たるもので、出発までの時間の経過は、本当に亀ほどのろい!目的地に着くまでの道中も、最近の交通機関のスピードアップしているにもかかわらず「遅い!」 以前のブログにも書いたように新幹線のぞみによって時間が短縮されるにつれ移動中の味わいが少なくなって、ただ快適な席に座って到着を待つだけになったことから移動の道中がつまらない。これは高速道路を自家用車で走っていても同じで、日本全国、どこを走っても高速道路は同じような顔をしていて面白みは無い。 そこにおまけに事故が重なり交通機関が途中でストップしてしまうようなアクシデントでもあろうものなら最悪のシナリオとなってしまう。新幹線はまだしも自家用車で移動中の渋滞、通行止めなどに遭遇すると最悪である。運が悪かったと諦めようとするが、生体の摂理には勝てない。こんな時の一分一秒は、さらに長く、次第に苦痛に変わっていく。
まぁ、そんな訳で目的地に着くまでの時間は、本当に首を長くして待ちこがれ、逆に旅先では時間が超特急で過ぎ去っていく。目的地についてやれやれ!と安堵するやいなや、帰る仕度をしなければならないほどだ。(・・・少し誇大表現ですが・・・)特にめったにこれないような地を訪れている時などは時間の経過が早い。このように、自分の思いによって時間のスピードは違ってくる。
楽しみの中の時間の経過スピードも早いが、自分にとっては避けたい苦痛が先に見える場合も時間は早く過ぎていく。例えば、数日後に監査が予定され、監査に向けての資料作成の場面では時間が不足気味となる。また試験勉強中の日々は意外と早くやってくる。いずれにしても、時を止めることは出来ないうえに、更なる時間的猶予を求める気持ちが逆に速く時を進めるような感覚としてしまう。理屈は分かっていてもこの感覚に翻弄され、結果的に遣り残したような妙な気持ちとなってしまいがちである。
人間には寿命と言うものが存在する。若いときには感じなかった自分の持つ時間の尺の長さ。歳を重ねるにつれ尺の長さが減少していくことを痛切に感じる。私たちが普段から接している高齢者の方々は、この私の感じている残り時間感覚の数十倍の意味を持って感じているのだろう。一年の重み。いや!一日の重みが若者のそれとは比較に成らないほど重みを持って高齢者達に圧し掛かっているのであろう。時間をいかに受け止め、生きるのか・・・若い介護職員の方々はもう一度考えてほしい。