


元号が令和に変わってまだまだ馴染みが薄い2019年だけど
明日から10月の第一日目。あと3か月もすれば2020年の新しい年を迎えることとなる。
少し気が早い話題だけど、まあ本当に月日の経つのが早い。
経験をたくさん積むにつれ日々の生活に刺激が薄くなり、特に目新しい目標も無くなりつつある年齢ともなると
興奮も期待で胸を吹くラマ焦ることなく、ただ淡々と時間が過ぎていく。
この淡々と過ぎ去る時間は、待ち遠しいわけでもなく、公平に時を刻んでいく。
この状態が年寄りに、逆に時間の流れを早く感じさせてしまっている。
僕もそのうちの一人で、毎日が淡々と粛々と過ぎ去っていく。
ただ一日が無意味に過ぎ去っていくような気もする。
介護を仕事とする立場の自分が、年寄りに(自分も同じく年寄りだけど・・・笑)むかって
何か目標を持ちましょう!!と格好よく号令をかけるが
実際に自分の人生において、何か目標を抱いているか?と言えば嘘になる。
ただ、まだやりたいこと、行きたい場所をもっている点だけ唯一救われる。
実を言うと、あと数時間で僕の誕生日がやってくる。
自分の人生を振り返ってみて、最後に悔やむことの内容
思いっきり暴れて人生を楽しみたい。
認知症の人の『帰る!』の繰り返しの訴えに対して、どのような支援を行うべきか・・・
まず「帰る!」と言う訴えに対して、本人の立場に立ってみれば当然のことと理解することから始めたい。
認知症でなくったって、初めてのホテルでも旅館でもない、普通の大きめの民家に
突然連れてこられて、ここがあなたの部屋よ!って言われて、ハイ!そうですか!と誰が言えるか・・・!を理解する。
周りにいる人間は、今まで係わったことの無い見ず知らずの者達に、朝昼晩と代わる代わる話しかけられ
あーしろ!こーしろ!と言われて、おまけに風呂に入りたくなくても「お風呂入って!」と言われることは
本人にとって無茶苦茶、不自然極まりない状況だ。
こんなの絶対に納得いくわけない。と本人は思い続け、なんで? どうしよう・・・? って気持ちになるに決まっている。
人は、大の大人が少しでもボケてくると、「何も一人じゃ出来ないんだから、黙って言うことを気いてりゃいいの!」と考える。
そんな思いが介護職の中に存在することは考え方を改めてもらいたい。
なぜ帰りたい?と言う理由は一目瞭然、自分御家ではないから帰りたくなる。
それでは、グループホームの存在意義がなくなる。だから、我々は専門職として
こんな爺さん、婆さんたちには、出来る限り早いうちに「諦め」てもらえるように努力をしなければならない。
何を諦めてもらうのか?と言えば、以前の家より今の生活の方が良いんだよ!と思ってもらうと言うこと。
日中、夜間、そこかしこに自宅では味わえないモノが、グループホームには存在するはず。
ここでしか味わえない生活を作り上げることが、我々専門職の役割であり、専門性なんだと考えている。
『ここでしか味わえないモノ』ってのが、その施設の特色であり、そこに働く職員達の熱意である。
例えばカラオケ、ドライブ、お散歩、おやつ作り、趣味の活動、映画鑑賞や音楽会。
考えれば考えるだけの手法ってのは存在する。
考えることを辞めてしまうから、入居者の爺さんや婆さんは自宅の方が良い!と言う結論で
声を大に訴え始める。
この人たちは、何をしたいのか?何に興味を持ってもらえるのか?
個別に対応する事が望ましいが、全てを個別には無理である。
だから、皆で楽しめること。または、順番に楽しみを分かち合えることを探してみてほしい。
僕は毎年、この10月の初旬に開催されるF-1グランプリの運営の一翼を担わせてもらっている。
僕の担当する部分は、世界グランプリ開催になくてはならないイベントの一つを仕切らせてもらっている。
担当する業務は、F-1決勝レースの直前に開催される「F-1ドライバーズパレード」であり
一日の決勝レースの中の、ほんの30分だけの時間的「尺」が持ち時間である。
この30分のために、朝の6時から準備し、本番を迎える。
この「尺」は、F-1グランプリの世界同時中継の中に割り込まれた時間枠のことで
予定時間を超えてしまうことは、放送事故として罰金ものの、非常に大事な時間枠を握らせてもらっている。
先にも書いたように、この30分のために準備時間は、何十倍もの準備時間を割き
自分なりに本番をシュミレーションし、本番を迎える。
毎年、100%の出来栄えは無い!
毎年、何かかしらの反省と後悔も感じながら
来年こそはと思い直して20数年やってきた。
僕が常に守っていることは、クライアントの主催者の意向に必ず報いる仕事をすること。
土壇場で親交の段取りを変更されても必ず対応する。
どんな厳しい注文にも応じる。
常に僕は「できない事はない!ベストを尽くす!」と言い続けて今までやってきた。
そのおかげで、この仕事だけは今の年齢になっても、誰にも引けをとらない。
60歳を超える頃から、そろそろ引退するべきか・・・?と迷いながら
今に至って続けている。
今年の決勝日にも、サーキットのメインストレート上に、ドラパレのエンターテイメントが展開される。
たった30分のプロフェッショナルな演出を・・・
https://www.msn.com/ja-jp/lifestyle/lifestyleanimals/絶妙のタイミングで撮られた動物たちのユーモア写真集/ss-AAHOAP5?ocid=spartandhp
ネットから写真を拝借しました。
先のブログに書いたように、僕はグループホームの在り方について自立支援、重度化防止の視点で
撲自身の考え方を書いた。
ついでに、すこし過激で嫌われることを書いてみようと考え「第2章」としてここに別の思いを書かせてもらう。
こんな事を書くから、敵が増えるんだわ!と思われるかもしれないが
これが僕なんで、なんとも救いようがないところでもあるのです。
あるケアマネジャーが、うちの施設に要介護5の認知症高齢者の入居申し込みをしてきた。
要介護5だからというわけではないが、その方は胃瘻を増設していると言う。
グループホームは、この業界の者ならよく知っているはずで
認知症であっても同じ障害を抱えた者が、お互いの力を出し合って
共同で生活をする場として設立されている。
要介護5の重度がいけないわけではない。
この施設で暮らすうちに重度化していくのは納得できるし、支援を継続するのは当たり前と考えている。
僕は、このグループホームを継続する中で目標としていることがある。
それは「在宅復帰」である。
認知症の行動心理症状などの一般家庭では対応のしようの無い症状が改善され
普通の生活ができるようになって、自宅の生活に戻ってもらうこと。
デイサービスなどの利用や簡単な家族支援で生活が出来るようになれば
在宅に戻ることは可能だ!
在宅復帰が目標だから、この施設では看取りを行わないのか?と思われる方もいるかもしれない
この施設で看取りも行うし、看取りを承知で受け入れも行う。
でも僕の言う看取りとは、ここでの生活を充実させた結果の看取りのことであり、
言うなれば、僕たちは「その人」の第二の人生における家族だという認識のもとの看取りである。
だから、他の施設で受け入れできないからと言う理由で
此処の施設を選んでもらっては困る。
ケアマネジャーや家族からすれば、どこが違うの??と訝しく思われるかもしれないが
全く持って趣旨が違う。
僕の施設では、ここが「その人」にとって束の間であっても「安住の地」であってほしいと願っている。
一緒に活動し、同じ釜の飯を食い、共に泣き、共に笑い、共に高めあう場でありたいと願っている。
現に、太陽の家の理念が、苦しみ、悲しみを含め喜びや楽しみを分かち合う。そんな共同体を作りたいからである。
そのような意味で言えば、重度要介護者を対象とした介護医療院の設置が望まれる。
医療が関わる頻度は高くなり、医療職でない限り設立は難しい施設ではあるが。
日本に今欠けているのは、この医療と介護が両立している施設が不足している。
ホスピスでもない、病院でもない、単なる介護施設でもない
安楽に苦痛もなく最後の人生に心を添えてくれる場として
こんな施設があれば、今回のケースのような場合は最高に安心して任せられると思うのです。