僕の好きな音楽。
誰でもお気に入りの一曲をもっている事と思う。それはJpopであったり、レゲーであったり、ロックであったり、様々なジャンルの音楽から自分自身に合った音楽を好んで聴く。音楽も人との出会いと同じで、偶然を切っ掛けとして耳にして、その旋律または詩が心に残るとき。街ですれ違った名も知らない女性に恋心を抱く時のようなときめきをもたらすものである。
僕も何の気も無く、テレビやラジオの挿入曲としてメインの番組の裏にうっすらと流れる、要するにBGMとして流された曲に恋する事が多い。随分と昔の話であるが、僕が中学の頃のラジオの深夜放送にお気に入りの番組があった。前田武彦と榊原ルミコって言っても知らない人が多い時代となってしまったが、兎に角、その番組のある放送の中でBGMとして流れた『The Look Of Love』という曲を耳にして以来、今でもこの曲が大好きである。作曲はバート・バカラックだと思うが確かではない。探せば結構沢山のアーティストが歌ったり演奏している。
次に出会ったの曲は邦名「風のささやき」 原曲をスティーブ・マックイーン主演の映画、華麗なる賭けからThe windmills of your mindである。映画の中で、絶体絶命のピンチと言われる場面の中でマックイーン演じる大富豪であり詐欺師でもある男が一人静かにグライダーを大空に滑らせる場面で使われていた曲である。優雅で、それでいて物悲しい曲調が良く、この時のマックイーンが恰好良く素敵に見えた。この曲はインストロメンタルより歌詞のはいった曲の方が好きだ。
次に出会った曲はカッチーニのアヴェ・マリアである。アヴェ・マリアという曲は沢山の作曲家が色々な曲を作っている。シューベルト、バッハ、ブラームス、ブルックナー、ジョスカン・デ・プレ、エルガー、ドニゼッティと有名どころを上げてもきりがない程沢山のアヴェ・マリアが存在する。そして、その全てにおいて旋律の美しさは言うまでも無く、聴いていて心洗われる気持ちとなるのであるが、特にカッチーニの作曲したアヴェ・マリアは更に悲しく、美しく、清らかな旋律で何時聴いても涙があふれる曲の一つである。
そして、これらの好きな曲に共通して言える点として、物悲しい曲である事。人によっては「暗い」と一喝されそうなイメージであり、悲しい気分にさせる曲として嫌われるのかもしれない。しかし、前のブログでも紹介させてもらった動画メッセージの中の文言。 Asire to Inspire…….Before you expire. Sorrows keep you human. 要するに乾ききる前に感激を求め常に情熱を注ぎ続けること。悲しみは人間性を保ち続けるためにも必要不可欠である。等の文言に表わされるように、僕の好きな曲は、そのまま僕の大切な人間性をキープするためにも重要な要素でもあるようだ・・・・
今日のように雨がしとしとと降る一日は、部屋の中で一人まどろむ、至福の時かもしれない。寒くも暑くも無い、ただ窓の外は降り続く雨を風の悪戯か、道行く人の傘も天をささず、真横にむかって開いている。アジサイの花のカタツムリも、風に揺られて船酔い気分だ。アメリカの知人から送られてきたメールに添付されていた動画カード。音楽と美しい映像だけでも十分に心おだやかになる。こんなまどろんだ雨の一日、このブログを読まれる方に味わっていただきたい。
ちなみに、文章を簡単に紹介しておこう。 ある所に住む男に4人の息子がいた。四人の息子は社会経験が少なく、物事の判断が早すぎると言う欠点をもっていた。男は、その問題を解決するために四人の息子を度に出すことを決めた。長男は冬に旅だった。二男は春に旅だった。三男は夏に旅だった。一番の末っ子は秋に旅だった。それぞれが旅を終え家に戻り、男は子供たちを一堂に集め、旅の感想を聞いた。長男は、木は葉っぱも無く、雪と氷に閉ざされた寂しい場所だったと言う。二男は長男の言葉を打ち消すように、木には緑の葉っぱが生い茂りみずみずしく、花が咲き甘い香りが漂っていたと言う。三男は、そんな二男の言葉を同様に否定しながら、花は無かった。でも木には沢山の実がなり、甘くておいしいフルーツがいっぱい育っていた。また、末っ子は、そんな兄の言葉を、また同じように否定しながら、木々の葉っぱは茶色や黄色に染まり、風に吹かれて地面に舞っていた。とても物悲しい光景だった。と。
四人の子供のそれぞれの感想を聞きながら男は子供達に言った。お前達の見た状況は、一生のうちの一部にしか過ぎない。そのものを理解しようとするなら全てを見てからでないと、本当の姿は見えてこないんだよ!と
男は、季節の移り変わりを息子達に断片的に見せ、それらの断片的な状況だけで半田することの愚かさを教えたのである。皆さんが、この動画をセンチメンタルと感じるかシニカルと感じるかは判断できませんが、少なからず何かを感じて頂ける事と思います。ぜひ、一度、このメッセージを観てください。下の英語表記をクリックしてください。自動的にページがたちあがります。
ホームページのお知らせでも紹介したように、今日の太陽の家では、お昼御飯に魚の塩焼きを屋外バーベキューで楽しんでいただいた。この催しは概ね成功したように感じる。第一に利用者の皆さんが喜んでくれた。お天気が良かった。味も良かった。それと、時間通り利用者の方には食事の提供が出来た。ただ、職員の配置に若干の狂いが生じた点、そして、当初の職員配置と短答役割を決めていたはずなのに、実際の場面では役割が全うされなかった点では、反省が必要であった。
企画会議の中で、職員間で話し合って企画書まで丁寧に書いてもらっていたが、そのとおりには進まなかった。ワゴンサービスの予定が、何故かしら二人体制が一人になったり。もちろん、利用者の方々には、しっかりとした説明がなされていなかったことから、職員が急な対応を余儀なくされ、その分人員にショートが生じた事も原因の一つであろう。しかし、それは、想定内の問題であるべきで、そこまでを見越して計画を立てるべきであった。
利用者目線で、介護を行うように皆で勉強を進めていても、やはりどこか心の隅に利用者目線を我々の目線にすり替えてしまう甘さが存在する様である。自分達と同じように移動でき、好みの物を選ぶことが可能であるがごとく錯覚してしまうようだ。職員全員の考え方が違う以上に、利用者の方々の生活のリズムはもっと違っていることと、意思の疎通が不完全であると今回のようなゴタゴタが発生しやすくなる。
嚥下体操も大切ではあるが、やはり食事の配膳前には、少しの余裕をもって、ゆっくりと今日のお昼ご飯について説明すべきであった。と同時に職員の全員にむけて作業の再確認を出来るような説明がほしかった。
まぁ、しかし、それよりも何よりも、12時の時点で食事をスタートさせた事は称賛に値する。これから先の催しには、同じような失敗をしないよう、ぜひ今回の教訓を生かせるよう努力してほしい。
今日は施設内研修。私の担当で高齢者の機能低下が及ぼす老化を説明した。
人間が年を重ね、いつの間にか高齢者の仲間入りをする頃、自分自身をとりまく環境が様変わりする。友人も、仕事も、伴侶も無くし、それまでの勢いに乗っていた人生も最終期を迎える事実を受け入れなければならないことが、高齢者の生きる目的をどんどん萎ませてしまう。そのような説明を行っていた。その説明の中に自分自身を例に、
「毎日、一生懸命、仕事していて・・・・」と言った途端、うちの職員が笑った。それも一人では無い。複数の職員が笑った。
・・・・・そっかァ、俺って仕事してるとは言えないのだ・・・・!
しかしねエ、弁解するわけではないけど、僕の仕事は直接的な介護では無くって・・・・介護施設の運営を行っているわけだからさ・・・・え~っと・・・・その~っ。と弁明も次第とトーンダウンしてしまいそうである。
仕事をしっかりとしてない私から言うのもなんだけど、職員の皆さんには日頃より感謝しています。本当に前向きに一生懸命、頑張って利用者の皆さんのお世話をしてくれて。でも、今日、かなしょうず園の理学療法士の行っている機能訓練を見学して、その専門性に驚き、そして感心してしまった。流石に理学療法士だけあって、上手に利用者を訓練に巻き込んでいる。うちの看護師、リーダーと相談員にも同時に見学につきあってもらったけど、出来れば太陽でもあのような機能訓練を実施したい。その時には、僕も一生懸命、お手伝いをしながら、利用者のADL向上に努力したいと思っている。のですよ・・・・・
午前中の雨も午後にはあがり、うっすらと薄日の差す蒸し暑い午後となった。このところ継続的に取り上げている家族の会話について、そんな蒸し暑い午後のひと時を太陽の家の玄関ポーチにて、しばしの休息をとっていた時の話である。今年は長い間、燕のお宿も埋まらずに空き状況が続いていたが、最近、一対の燕がヒナを返し、今子育てに必死である。 日に日に大きくなるヒナに、親鳥も大忙しな様子で、ひっきりなしに餌を運んでくる。
今日の昼間、僕が玄関ポーチで燕の餌運びを眺めていると、親鳥はヒナに餌を与えるや否や、三回ほど鋭い声で鳴いたのです。すると、面白い事に、巣の中のヒナ鳥の全てが巣の中に身をひそめるように小さく隠れてしまったのです。あの時の親鳥の鳴き声は、危険を教える合図(言葉)だったのでしょうか?!
そして、私がその事に気づき、玄関ドアの内側に入り、ガラス戸越に見ていると、ヒナ鳥達は、恐る恐る巣から上体を起こし、親鳥の飛来を待ち受ける体制に戻っていったのです。
燕でも、子供を思う親の気持ち、子供に対する配慮を感じ、今更ながら大人になり切れていない人間の成人達にクエスチョンマークをつけたくなるのですが、皆様はいかがでしょうか?