昨日のブログにも書いたように、職員の昼の休憩に通用口近辺で井戸端会議が始まる!と。
梅雨明け以降、厳しい日差しを受け、日傘や雨傘で紫外線を遮断しながらの井戸端会議は暑いし、お肌に良くない。そこで、職員への約束どおりシェードを作った。ヨシズとパイプで、材料費15000円。安上がりだが、このために僕は、三回もシャツを取り替えた。汗をかいて、ずっくりと塗れたシャツは、この蒸し暑さとともに不快そのものだったので、其の都度、乾いたシャツに替え、なんとか今日中に完成させることができた。途中で何人もの職員さんたちが援助を申し出てくれたが、なんとか終わらせることができた。
明日からは、少しは日差しの和らぐ環境で井戸端会議に花が咲くのかも・・・・(ちょっとは、みんなの役に立てた???)(笑)
計画したとおりの物は完成して、後片付けも終えて、結構消耗した体を引きずって家に帰ったが、さすがにシャツ三枚とパンツを汗で濡らしたまま洗濯籠に入れっぱなしではと考えて、それから洗濯をした。まあ、今日は、本当にいろいろなことを行いました。朝から珍しく大忙し。普段から、あんまり仕事をしない施設長ですから、たまには良いかも!と言う声が聞こえてきそう・・・・
僕の部屋は、かなり入り乱れています。足の踏み場のない状況とは、このことを言うのでしょうか?わずか6畳程度の洋間にクローゼットがついている部屋ですが、ドアを開け、デスクまでの一本の道以外は物が積まれて山となしているのです。B型血液の特徴でしょうか、それとも単なるぐ~たらな性格からでしょうか、たまに綺麗さっぱりと片付けて整頓されるのですが、それも長続きせず日増しに部屋の中は、モノでいっぱいになってしまうのです。もちろん、この整頓下手な性分は、そのまま事務所のデスクにも現れているのですが、僕の机だけは、書類の山。とにかく物が多いのです。捨てれない。何でも残してしまいがちで、何の変哲もない空き缶でも、デザインが面白ければ綺麗に洗って仕舞込むのです。
また、僕はファッションというのが好きで、洋服をたくさん買う。見てるだけでも楽しくなる女のような性格かもしれないのですが、いろいろな新しいファッションを買い求め、それらの洋服でクロゼットはいっぱいで、外にまで溢れている事が、更なる部屋の混雑を招いている。いつも着なくなった洋服はできる限り整理して捨てるようにしてるのですが、いざとなると捨てれない。また着る機会はあるだろうから・・・・と仕舞い込んでしまう。こんな事をしてると、次第に寝る場所もなくなるような雰囲気なのです。
僕が年取って、もっと不活発となれば、僕の家はどないなるのでしょうね? ヘルパーさんに頼んで、不用品の塊を無理やりにでも処分してもらわないといけないかもしれません。もう、今のうちにに宣言しておきます。もしも、僕が認知症になったら、僕の知らない間に部屋の片付けをやってください!と・・・・そうでもしないと、シラミのわく部屋になりそうです。整理整頓の下手な人間にインターネットと言うのは、非常にあこぎな玩具なんですよ!外に買い物に出なくても、次から次へと好きなものをインターネットで注文し、自宅まで配達してくれるのです。今日も、四文字熟語辞典やことわざ辞典の二冊が届きました。先週末、ネット注文して今日、物が届いたのですが、非常に便利なシステムです。おかげで、また自宅の僕のデスクがいっぱいになってしまいました。その内に書籍に埋もれてインターネットのブログに書き込みを入れているのかもしれません。
僕のブログは付け足し、付け足しで継接ぎだらけですが、そこのところは許してもらって、今回のブログは職員の井戸端会議と称して写真入りで紹介します。
デイサービス職員が一連の仕事を終えると、なんとなく事務所の近辺に集まって井戸端会議を行います。特に何という新着情報などなく、そこに吉田や妻鹿がいるということで集まっては色々な話で盛り上がっています。事務所からは高木も混じって色々な細かな情報交換の場となっているようですが、なんだか楽しそうです。誰かれなく話を持ち出しては、笑いの渦。職員同士の関係がうまく出来ていないと、このような輪は作れません。そう考えると、今、非常に良い関係が作られてきたのかな・・・と安心し安堵し満足しているのです。(笑)
以前から課題として問題視されてきた職員のベクトルですが、あの当時の看護師が必死になって職員に発破をかけいろいろな介護技術の習得や対人援助の方法論が今になって実ってきた。または、今、ようやく熟してきたという事もあると思います。職員の働く意欲やモチベーション、または向う方向は、短期間には構築は出来ないようです。まだまだ未完ではあるのですが、昨年に比較しても、随分と職員の意識改革は進んでいるようです。
見方によっては甘い!と言われるかもしれませんが、私は、こんな太陽の家の職員さん達を誇りに思います。もちろん、今の現状でストップしてしまうのではなく、これからもドンドン向上し、スキルを磨いてもらいたいと思います。
太陽の家の職員用通用口界隈が、職員の井戸端会議の場所である。私はこの場所で多くの意見やアイデアを吸収する、とても重要な場所の一つでもあるわけだが、今日の昼食後の会議で、職員の一人が自分の世界を広げたいと言う話が出た。自分の世界と言っても、世界中をグローバルに活躍するキャリア的活動ではなく、この年齢となり家庭も家族もいる生活の輪を広げると言う意味の世界である。
その職員は、私の保有する社会を、広くてうらやましいと言うが、それにはそれ相応の自分なりの努力も必要となるし、ある面、家族や知人等に犠牲を強いることもでてくるし、また、それらの人々の理解と協力がなければ出来ない事であるが、その為に、まず家族に自分の考えを話す事から始める。そして、自分の主張を通す限り、その分相手の主張も聞き入れるようにする必要性がある。私の場合、多分にGive and Take の生き方をしている分、お互いの人権を尊重しようとするが、これが、日本的封建社会を踏襲する御仁がパートナーだとすれば、話は多少複雑になる事は否めない。しかし、それでもと言う強い信念があれば、そんな壁などなんとか乗り越えることは可能である。要するに、良質な家族関係を壊してまで主張する必要性の是非が一番重要になってくるのである。
さて、その壁を越えたとして、それ以降何をするか?については自分次第である。趣味の輪を広げながら人的ネットワークの構築に精進するのか? ネットワークの構築までいかずとも、見聞を広めることに終始するのか?によって、行動範囲は変わってくる。ある人は、自分の人生を振り返りたくなって中近東へ旅をしたり、ある人は社会を広めるためにボランティア活動に精力的に加担したり、と色々である。その人が、そこに自分自身の意味を見出し、自分の存在を感じれる事が一番優先されるべきであり、社会を広めるためだけに外へ嫌々でることは、その社会から何も学ばず、何も得るものも無いと思う。
高齢者の人たちを介護する中で、介護される現場に、その要介護者が自分自身を見出せる介護が最高の介護であるのは、この点からも理解できると思う。私達は人に言われて行動するのではなく、自分からすすんで行動を見つけ活動する。これが自律ということであり、その自律をうながし、そのような意識のもとで生活できる事を自立と言う。(何だか、オッサンジョークのような言い回しではあるが・・・)
仕事をもち、家庭を守りながら自律するためには、自分でやりたい事をしっかりと見つめ、確実に目標を立てて、それに向かって継続的に働き掛ける。そんな努力が必要となるのです。何事も、他人をうらやましがるのではなく、自分で行動する。そのために自分の言動には責任をもつこと。同時に自分に与えられた義務を果たす事を最低限守らなければいけませんな!
月日の経過するのは早いものです。何もしないまま7月も18日となり、子供たちの夏休みがスタートしたのか、やたらと子供たちが日中に街中に多い。歳も中年を越えようとする年齢になると、一週間の過ぎるのが早い。一週間が早いから一ヶ月の過ぎ去るのも早い。春の桜から、露、梅雨明けしてセミが騒々しく騒ぎ立てる。スイカが美味しいと騒いでいるうちに、海にはクラゲが多く繁殖する時期となり、泳ぎに行くにもクラゲが恐ろしくてウエットスーツでも着ていないと、刺されて体中腫れるのもいやだし・・・!と言っているうちに台風がやってくるようになって、台風一過と言いながら一瞬吹く風が冷たく感じるようになって、木々の緑がだんだんと黄色や赤色に染まり、街中の人々は長袖から、コートへと次第に厚着するようになって冬を迎える。 こうやって思い始めると一年ってあっという間に過ぎ去るのですね。
若い者たちも、爺さん、婆さんたちも、金持ちも、権力者も、すべてが平等に歳はとる。生まれた当初はか弱い筋肉や骨格も、年齢とともにたくましく育ち、ある日突然、ピークを超えて骨格も筋肉も衰え始め、生まれた頃のかよわさに戻っていくようである。生まれたての赤ん坊がオムツをあてられるように、歳をとって活動が低下すると、またオムツをあてられる。でも、歳をとったから自分でトイレまで行けないからオムツでは、あまりにも安易な対処ではないか?歳を重ねるにつれ、言葉を失う場合はあるが、必ずしも全員が言葉を失い、自分の排便の意思表示ができなくなるかといえば、そうではない。できれば、排便のリズムをつかんで、トイレで排便したい。オムツの中にではなく・・・・
道路沿いの木々は、今を盛りのピークとして濃い緑色をしている。強烈な太陽の光を枝いっぱいに広げた葉っぱで受け止められるだけ受け止めて呼吸している。海からの風が、次第に山から吹きつけるように変わると、この木々の葉っぱも茶色に衣替えをする。若い育ち盛りの時には、葉も厚く、艶があって光り輝いている。でも、秋になって、風にあおられて枝を離れる頃には、それまで元気で勢いのあった緑の葉っぱも、色が変わり、葉脈が浮きあがるようにやせ衰えてしまう。しかし、自然のサイクルの中で、冬の訪れにあわせて木々も衣替えをするように、人間社会も世代交代を行う。そして、それまで第一線で輝いていた人々は、社会の役目を負え華麗なる思い出と履歴をのこしていく。決して派手ではなく、地味と言えるかもしれないが、悠久のやすらぎに向かって自然に流れていく。
人間も、自然界で生きる生物である以上、道路わきの木々のように自然に、じんわりと、華麗に移り変わっていければいいと思う。痛みも苦痛もなく・・・・