本当に残暑厳しい日々が続いております。ナンナンダ?今夜の気温。またエアコンのお世話にならなければ夜も安眠できないではないか!
私の部屋は二階にあるのですが、一階から階段を上がって二階の踊り場に立つと、オーブンの中のような熱気を感じ、思わず「たまらん・・・!」と叫んでしまうほどである。 今年の太平洋高気圧の勢力がいまだに強く、温かな湿った空気を日本全土に送っているからだそうだが、もうすぐ10月ですよ!と言う時期になっても、真夏日の毎日。例年だと、日が翳った夕刻からは、長袖のジャンパーでもないと過ごせないほど、それ程肌寒くなっていたのですが・・・・どうでしょう、この天気。
ちょうど10月の第一週の週末は、例のフォーミュラーワン 日本 グランプリの開催される時期なんです。例年、F1の夜は、ダウンジャケットでもほしくなるほど肌寒く、各チームが24時間体制でガードマンを置いて自分のピットを見張っているのですが、そんなヨーロッパ人ガードマンたちも、あまりの寒さに綿入れジャケットに身を包み、温かなコーヒーやスープで段を取るほどなんですぞ!それが、今年はどうなるのでしょうか?これだけ熱いと、短パンにT-シャツで冷たいコーラでしょうか?
こんな熱気に、15年間使い続けてきた、うちの冷蔵庫がとうとうねを上げた。おかしな異音をたててプッスン!と其の活動を停止したのです。この熱い毎日に冷蔵庫のない生活は考えられないですよね。冷凍庫のモノは腐る、お茶を冷やすことが出来ない。生物を買い置く事ができない。つまりは、毎食の材料を、其の都度スーパーに買いに行かなければいけない。偶然、我が家のまん前には大きな冷蔵庫が存在するのですが、そこに行くには中央道路を渡ってレジを通らなければいけない。近くて便利ではあるものの、やはり自宅にある冷蔵庫には、少し及ばない。まあ、そんなわけで、今日、やっと新品の冷蔵庫が届いた。10月には新型が店頭に並ぶ時期とあって、量販家電店では、昨年モデルと言われる機種を安く販売しなじめる好機。まあ、値切りに値切り、結構お値打ちに買うことは出来たものの、やっはりまとまった金額の支払いを余儀なくされるのは、家計に響く。15年間も使い続ければ、それもまた元を取っていると言えそうですが・・・・
今日は中秋の名月。暦の上では明日から秋となるらしい。冬物の衣類も、まだまだたんすの置くに眠ってもらわなければいけないのでしょう。こんな異常なほどの気象。地球温暖化の影響が、じわじわと我々庶民の生活にも影響を及ぼし始めているのでしょうか?こりゃ、車もハアイブッリットに変えてガソリンのばら蒔きに終止符を打つときがきたかもしれません。または、太陽の家の車両を送迎車両以外は、全て自転車にするとか・・・・ダイエットにも有効で、余分な死亡を腹回りに蓄積した軟弱モノの私には健康と省エネの両得かもしれない。
ひょっとすると、来月の陽だまりで、太陽の家8号車と9号車として写真入で紹介できるのかもしれないですね・・・・・・はははは
このブログをはじめ、太陽の家の発行する『ひだまり』にせよ、沢山の写真が使用されている。もちろん、使用にあたっては、予め利用者家族の承諾を取っているのではあるが、この点で、家族サイドにも微妙な感情の動きがあるようである。つまり、利用者の顔写真はある点で、家庭内における話題性の観点から大いに写真などの掲載を求める反面、そのモノが社会の不特定多数の目にさらされることへの危惧感が存在するという点で、どうしても抵抗があるようだ。自分の家族が太陽の家を利用していると言う事実は、家族側からすれば出来る限り秘密にしておきたい。出来る限り、個人の中だけに封じ込んでおきたい。と言う感情の表れなのであろう。問題は、先にも書いたように、インターネットという媒体が取り持つ情報伝達スピードとカバーする範囲の大きさに恐怖するのである。『 ひだまり 』という新聞発行に関しては、それ程大きな影響力は持っていない。しかし、この新聞ですら、形として文章や写真が残る点で、扱いには厳重な注意が必要であろう。人は、ややもすれば「他人の不幸は 蜜の味・・・」なんて言うほど、他人の不幸を喜ぶ風潮が存在することも確かである。人間、すべからず100%の幸福感を得ることは難しい。すくなからず何かしらの不幸や問題を背負って生きている。他人の不幸を見つけては、自分自身の持つ不幸を同調することで、自分の心の痛手を緩和しようとする自己防衛的な態度として、人の不幸をことさら喜ぶ輩も多い。
私自身が一番悲しく思うのは、社会的な認知症高齢者に対する誤解である。認知症のとなる老人を持つ家族が、なぜに恥ずかしく、社会から背を向けて生活しなければいけないのか?と言う点である。認知症は何度も言うようであるが、遺伝するわけでもなく、病気でもない。年相応の物忘れなどの機能低下がもたらす諸症状のことであって、決して、その人の血が悪いのではない。 もっと言えば、日本にも古くから知的、精神的障碍者に対する特別な阻害感情が存在し、昔の障碍者は、そのまま見世物小屋に売られ、それこそ「さらし者」として生きなければいけない社会であった。東京タワーを倍以上に超えるスカイツリーと言われる建造物を創造するような時代となっても、今の日本にも少なからずこのような邪悪な出来損ない意識が根底に潜んでいるような気がする。。
これは非常に寂しいことであり、このような封建的な思想の元で、認知症高齢者を地域で支えることは不可能である。ましてや公助はともかく、共助や自助なんて理論は成立しなくなる。認知症高齢者の行動や言動は、時として一般人が首をかしげる場面にも遭遇する。しかし、そんな人も、その昔には、一般の市民として働き、考え、活動してきた人である。特に狐に浸かれたわけではない。ましてや、認知症だから知的な障害を受けていることにはつながらない。僕は、今の社会が、あまりにも「転ばぬ先の杖」方式の防御策を張り巡らせ過ぎているような気になってしまうのである。認知症だから徘徊する。認知症だから尿失禁する。認知症だから○○する!と決め付けたようなイメージ先行で、其の障害を理解しようとはしない社会のほうが、最終的な末期状態ではないかとおもうのである。
地域でもって共に助け合う共助がなくては、認知症介護は出来ない。ましてや、これから先の高齢者の増加を見据えても、若年層の減少傾向の中、どうやって高齢者を支えていくのかと考えれば、更なる高齢者心理を市民全体が学び、理解を進めなくてはならない。歳を取れば、頑固になる。人の言うことを聞いてくれない。行動が緩慢になり、若者のスピードからすればあ動くシケインのごとく。邪魔な存在となりかねない。
ある家族が答えてくれた。「自分の老いた父親さえ居なければ、随分と生活も楽になる!しかし、父親の世話をしていて、父の笑顔をみると、もっと笑顔を増やしてあげたい、みていたい・・・と思う」と! この言葉は、家族の抱える負担は並ではなく非常に重いが、そこに人間を感じることで、邪悪な自分の意識を考え直す。非常に人間味溢れる暖かな思いやりを感じた。うちの職員さんも言います。とてもハードな仕事を求められストレスがいっぱいかかる職場で、利用者の方々の「ありがとう!」の笑顔と言葉で、全ての鬱憤が晴れきってしまう! 僕は、社会の中で、ささやかな生活を守ろうとする高齢者の方々を悪意を持って商売に利用するもの画像化してきた今の社会に苛立ちを覚える。一部の悪意に、自分自身の顔写真を伏せなくてはならない状態、すばらしい笑顔を社会に見てもらえない今の状態を決して文化的に成熟した社会とは呼べないと思っている。個人情報だろうが顔写真だろうが、皆に見てもらって、ここに幸せに暮らす高齢者をうらやんでもらえるようなサービスを提供したい。
今の僕は50肩らしく、右肩の関節二痛みが伴う。まっすぐ正面に腕を上げられない状態が昨日、今日と続いている。腕が上がりにくいと言うことは、何かにつけて不便で。(まあ、人間の体の、全ての部分で可動制限を受けると不便極まりないが、こうやってPCに向かってブログを書いているときも、自由に右手を動かせない状態では、キーボード操作に時間がかかり、あまけに重要な操作にミスが連発する。先ほども、別のタイトルでブログを書き連ね、いつもよりも筆の進みはよく、沢山の文章を書いたのだが、右手二痛みが伴うお陰で、マウスが変な箇所に触れてしまい、書いた文章を全て一瞬にして削除してしまった。ブログの書き込みページでは、一つ前の作業に戻ると言うことができないシステムとなっており、消してしまった原稿は元に復元できないのです。お陰で、一生懸命考え、頭をひねりながら書き溜めた文章はゼロに!
ワンクリック詐欺ではないが、ワンクリックで全てが消えてしまう。消滅してしまう恐怖は経験したものでなければ分からないと思う。しかし、考えても見てください。このブログを書く作業というのは、非常にムラがあるのは確かながら、公開するまでに結構な時間を要する場合が多い。それだけ、書く文章に気を使って、出来る限り自分の思いに忠実に読み手に理解してもらいたいと期待して書いているのです。当然、時間も神経もつかいます。そして、ようやく書き上げて、其の苦労の結晶のような文章が一瞬で消え去るのって、がっかりしませんか?
僕は寂しいと言うより、非常に腹が立ちます。そのような気の緩みと言うか失敗と言うか、とにかく、長い文章となればなるほど、消えた部分を書き足す気には、なれないことが多いのです。そんな、僕の腹立たしい気分を無視するように、今なお、僕の右腕は動かすたびに痛みが走ります。歳は取りたくないものです。そう何時も話してくれる、デイサービスの利用者さんの気持ちを少しですが、自らを持って理解したような気分です。
今年の太陽の家 敬老の日の祝賀会では、職員による演劇 「 山下清 画伯 放浪記 」を予定しています。山下清画伯に関しては、テレビや映画にもなったほど有名な方で、その創作される絵は、芸術的にも高く評価されるのですが、そんな山下清画伯の放浪の1ページを職員が演じることとなりました。 介護職員の村上が主体となって、ストーリーのあらすじと劇の練習などを行い、最終的に明日の夕方に最終のリハーサルを行い、本番を水曜日の午後に開演の予定です。この演劇に際して、職員全員が幾度も練習を重ね、セリフの確認と調整を行い、場面に応じた振り付けを行っています。それぞれの役柄に応じて、衣装も工夫を行い、それらしい雰囲気をかもし出すことが出来れば成功かな!と思っています。
この山下清画伯に限らず、演劇とは、普段自分たちが行っていることを、多少大きくデフォルメすることが重要なんです。しかし、デフォルメする際に乗り越えなければいけない事は、恥ずかしさを克服すること。演技すると言うことは、非日常なことで、人前で其の役に成りきらなくてはなりません。セリフ自体、とてもナンセンスで理屈が通らないような言葉が多く、それを人の前で大声で発声するには、普段以上の勇気(?)と言うか、図々しさと言うか、ちょっとした厚かましさが必要となります。職員の真弓くんなんて、普段から客観的に聞いていると、彼の言葉は「あれ?とか 妙だぞ!」と思えるようなことでも平気に言いのけてしまうのに、いざ演劇をするとなると恥ずかしいと言うのです。妙に納得がいかない言葉なのですが、そんな彼にも恥を意識せず、役になりきって演じてもらえれば、見てる側としては非常に面白いキャラクターなのです。
僕が今、かすかに期待しているのは、いつも真面目な看護師の坂口さんが、太陽の家の職員役で搭乗するのです。結構、ボケたセリフもあって、その辺をどのように取り込んでくれるのかが面白いところです。先日のリハでは、それなりに役になりきって楽しんで演技をしてましたので、結構、演劇はすきなんではないかと思っています。 そして、この山下清画伯役にうちのグループホームのマネージャーである上垣外が担当します。彼独特のセリフの言い回しは、見ている観客に大いに笑いを提供してもらえると期待しています。そして、一番のはまり役は、新人職員の渡辺さんです。彼女の天性と言われるようなボケ役に、会場中が笑いの渦と想像しています。妻鹿さんは、前回の演劇でも発揮しましたが、普段の仕事中の彼女と演劇で見せる彼女のギャップが面白い。彼女も、それなりにはまり役かもしれないですね。そして、森さんの役は、そのまま彼女のキャラクターとして、体中から天性の明るさと楽しさがあふれ出る役で、これまた史上最強のメンバーの一人と言えるかもしれません。そして、今回、何の配役もされていませんが、事務長の高木は、裏方に回って音楽や効果音、写真を担当。太陽の家の新聞「ひだまり」の編集記者として、記録活動に終始します。さて、私は、悪徳な国会議員役。言うなれば民主党の小沢さんのような濃い配役でして、一部の職員からは、特に演技の必要も無く、地でいけばOKと言う、妙な褒め方をされています。
まあ、このような演劇を行うのですが、最大の難点は、出演者全員がセリフを暗記していない点が心配です。まあ、まだまだ素人劇団員の寸劇です。ひょとすると別の意味で笑われるかもしれません。しかし、それはご愛嬌! 皆さんに笑いがあれば、それで演劇も成功と言えるのではないかと思っています。みんながそれぞれのプライベートな時間を削って参加してくれたリハ。それだけでもありがたいと思いますね。9月22日、山下清画伯の放浪記。ぜひ お楽しみに!
デイサービスも昼の3時を過ぎる頃となると、利用者の方々が、がぜんソワソワしだす。やたらと立ち上がって自分のカバンや持ち物の確認をし始める。ある人は、車いすを自走させて、施設の玄関口まで行ったり来たりを繰り返す動作が出てくる。これらの状態は認知症の特有の症状で、記憶が定かではないなか、『自宅に帰る』という事実だけにとらわれてしまいがちで、通常の我々の場合でも、研修を受けている中で、あと1時間程度で研修も終わると言う頃には、お尻がムズムズしてくるのですが、この状態を想像して頂ければ、良く理解できると思います。そこで、私達と認知症高齢者の違いはと言うと、我々の場合は、時間が来るまでは、ジッとしていよう!と考えることができる。しかし、認知症の高齢者では、それ以外の方法や手段が考えられないので、イライラが始まる。ついつい、職員に向かって『お~い! これなんとかしてくれ・・・!」と叫んでしまうのです。これを、アホな職員は、介護への抵抗と名前を付けて日誌に書き込むのですが、これは、決して介護への抵抗ではありません。いたって自然の行為です。ことが自分の思うように進まなければ助けを求めるのは自然です。
また、別の人は、送迎バスの出発前の一時間の間に頻繁にトイレに行くのです。極端な場合、今、トイレから戻ったばかりなのに、すぐにトイレに行きたくなる。この原因はトイレに行った事を忘れてしまった。と言うのが真実でしょう。しかし、このトイレに行った事を忘れるという状況は、昨日の夕食のメニューを忘れると言う事とは若干の違いがありそうです。つまり、トイレに行って用をたすことには、色々な状況があります。若い人のように前立腺に全く問題も無く、溜め込んだ大容量の尿を出すと言う場面と、高齢となりひん尿状態の人の排尿では、そこに働く意識レベルに自然な違いはあります。かたやドッとでた解放感を味わえる放尿、かたや出たか出てないのか判別できない少量の方に用では、その分、脳に与える刺激も違います。自ずと、記憶にしっかりと残るか否か・・・と言った点で、放尿に際する記憶が影響を受けてしまうのです。そればかりではなく、送迎バスの中で、以前に排尿のトラブルを経験しているトラウマ的記憶が影響をして、何度も何度もトイレに通い、自分で確認をしているともいえるのです。
このように、高齢ともなると口数は少なく、他者に自分自身の現状を説明する事も出来にくくなり、その中で自然な行為を行っていても、年寄りという色眼鏡で見られることで、健常な高齢者も「ボケ老人」扱いされる場面もあるのか・・・?と考えるのですね。敬老の日の今日、太陽の家デイサービスを利用される高齢者のみなさんに声を大にしてお伝えしたい。皆さんはボケた廃人では無いのです。少し、お手伝いすれば、それなりに普通の生活は営めます。記憶力の低下はあるかもしれませんが、それが、どのような問題を持っているのでしょうか?とても重要な約束をしていて、それがないと生きていけない場面には関係してこない立場の人です。それ相応に、周りの人が補ってあげてくれれば、まだまだいけます!ね!