


何が焦るのか?と言えば、夢の中で追われる瞬間。足は動かない、声も出ない・・・・しかし敵は猛スピードで追ってくる。万事休すというタイミングで目覚めてしまう経験はありませんか? あまり普段の事業運営の中で焦りを感じない。と言うより、無視してしまう鈍感な私でも、時として追いつめられる夢をみることがあるのです。今日は、夢の話ではなく、『 焦り 』について面白おかしく書いてみたいと考えています。
次に最近体験した、何ともしようのない焦り又は苛立ちとして、トイレへの本能に急いでドアを開け用をたそうとした瞬間、かなりきつめに結んだジャージパンツの紐が解けない時。これは焦ります。想像して頂ければ理解できるはずですが、ジャージっていうはき物。股間に所謂「平和の窓」なるものもなく、パンツその物を下まで下げないと、用を足せないというモノなんです。なのに、腰に止めた紐が解けないとき・・・・地団太を踏むとは、こう言う時の事を言うのでしょうね!
第二に、これまたトイレにまつわる話で恐縮ですが、以前、僕の住んでいたボロボロのおんぼろアパートのトイレが詰った時の話です。紙の使い過ぎか?急にトイレに流れが悪くなったので、しばらく様子を見てもう一度、水洗を流したのですが、全く流れる様子は無かったのです。高い水圧をかければ、その威力で詰りを押し流すか?という賭けをしてみることに。便器いっぱいまで水を入れるべく何度もトイレの水を流したのです。期待を裏切るように、詰りは解消せず、水位だけが加速され、便器の淵に到達、それでも詰りはとれず、見る見るうちに水洗の水は便器を乗り越え、床一面に流れ出す始末。これは焦りました。何ともしようのない、ただ茫然と自分のした事を後悔しながら見つめるだけの時間。
第三に自分の人生の中でも重要かつ重大な運命を分ける試験の答案。非常に難しく、時間いっぱいに近くまでかかって、ようやく回答用紙に書き入れを終えて、提出間際に答案の順番を間違えている事に気付いた時。これは焦ります。制限時間まで5分という段階で、全ての回答が一問づつ、ずれていると気付いたとしたら書き直しますか?ここで諦めるか、火事場の馬鹿力をだして努力するか?人生の本当の分かれ道ですね。
第四に、先日、大変な経験をしました。大型の荷物を運ぶ時にフォークリフトを使いますが、この時は大型の業務用冷凍冷蔵庫を地点Aから地点Bに移動したときの事です。冷蔵庫にはキャスターという小さいですが車輪が4個ついているタイプです。おまけに、地点Bはなだからな傾斜地。地点Aでは、普通に置かれていたのですが、それをリフトですくい、地点Bまで運ぶ事は全く問題は無かったのですが、地点Bに下ろし、フォークを抜いたと同時に、その冷凍冷蔵庫は勝手に動き始めたのです。フォークリフトはバックしている最中。冷蔵庫は加速されて移動スピードは速くなりつつあります。その先には新品の乗用車が。慌てました。フォークリフトを急いで停車、ロックして、飛び降りて、走り寄って冷蔵庫を受け止めてセーフ! その瞬間大きなため息と共に、それらの一連の様子を見ていた人に冷やかされ・・・結構びっくり、ドッキリの瞬間でした。
まあ、言いだしたら限のない話ですが、余裕を持って行動すると言う事が、これらの焦りを未然に防ぐ手立てとして有効なのは分かっていますが、『 慣れ 』が、人間の行動を少なからず横着にしてしまうようです。これからも事故の無いよう、気分を引き締めることとします。
これが日本の総合病院の入院施設か・・・?!と改めて日本の急性期医療の現場を再認識してしまった。近年では高齢者施設が個室ユニット形態だけしか、介護保険の指定をとれないとあって新たに設立される特養は、全てが個室ユニットであるが、医療の最先端施設である急性期病棟では、いまだに多くの病室が多床室として4人部屋、または6人部屋の施設が多く存在している。この地域の一番新しい病院にしても、大半は多床室であり、個室は数えるばかりの部屋数しか確保されていない。
私の若かりし頃のアメリカ生活の中で、幾度も入院患者を見舞って大規模総合病院を訪ねた事があるが、そのほとんどが個室病棟であった。多床室は逆に探しても見当たらない。テレビでみる『 ER 』のような廊下にまで溢れる救急患者の列なんて光景は見た事がない。敷地面積の関係で、広く大きな施設建設は難しい現実をもつ日本の国土から考えても、すべての病室を個室化にすることは容易なことではない。また、同時に、入院過料費の個人負担にも、負担可能額の問題も影響を及ぼしていることだろう。
色々な諸般の理由もあって、多床室ユニットにおける入院療養を考えると、非常に患者側の精神的負担も大きい。なんせ23畳ほどの広さの部屋にベッド、小灯台を含め6台を個々のカーテンで仕切るシステム。自分ひとりの占有面積はシングルベッド一つ分が良いところ。また、隣の患者との境は、先にも書いたように薄手の無地のカーテン一枚。話声はもちろん、イビキやクシャミまで、やかましい程耳に届く。急性期病院であるから、様々な声が響く。苦しみや痛みからくるうめき声、お見舞い患者の笑い声、テレビから漏れ聞こえる音楽や話し、病院食では満腹感を得られずお菓子を食べる音など。沢山の音が交差する環境に病が原因で気分のすぐれない時はさぞかし辛かろう・・・
日本が経済的に豊かになって、世界No.2だ!なんだ!とか言っているうちに、とうとう中国に追い抜かれ今では、経済的にも低迷する国力となりはてたが、経済的な成功は、そのまま私達、国民の豊かさには比例しない。その点が日本の理解しにくい社会性と言えるかもしれない。
『自己評価』と言えば、公的な第三者による事業所評価の前に、事業所自らが運営方法や記録などの業務全般と利用者の方への支援内容を自己評価することが毎年課せられているが、太陽の家では、毎月、翌月の自己目標を持ってもらい、それに対する自分なりの評価を書いて提出してもらっている。これは、介護職員処遇改善交付金に係るキャリアパス制度が義務付けられる数年前より、自発的に事業所職員さんに課している。当然、処遇改善に関係してキャリアパスが導入されたことにより、ある意味、半強制的な存在となってしまってはいるが、それでも自主的に書いてもらっている。
人によっては文章を書くことの苦手な職員さんもいて、抵抗ある提出物らしく、おいそれとは筆が進まないようである。書くよりも口で説明して自分の悩みを話したほうが手っ取り早いことも、この提出物が滞る原因となっているようである。僕も、こうやってブログを書いているが、これだって気分によるところが大きい。今月の初旬は、別の副業が忙しく、ゆっくりと机に向かうことも難しいほどの忙しさだった。そういう時は、やはりブログ更新もお休みがちになり、案の定、今月に入って書き上げたブログも8件目という。 職員さんも一日8時間、高齢者の皆さんに若い元気な源を分け与え、疲れ果てて家路について、また家事をこなさなければならない身、さぞや大変なことだろうと思う。
この自己評価を提出してもらうと、必ず私が目を通し、私なりの感想とアドバイスを全員に書いて戻す。もちろんコピーは残し記録するが、完全に私以外のものは読まないように極秘資料として保管している。この職員さんの自己評価を呼んでいると、其の部署や担当者にどのような支援や声掛けが必要なのかが分かる。もちろん、なかなか本心は書いてはもらえないとは思うのだが、それなりに困っている点など伝わってくるものは大きい。僕の自己満足かもしれないが、このシステムを使うようになって、それなりに職員さんの定着が良くなってきているように思う。もちろん、提出してもらえない職員さんも居るが、その人に限って早期退職してしまう人が多いと言うのも面白い結果であろう・・・。
そして、自己評価と言う以上、自分で昨月の課題に対する評価点もつけてもらっている。私は、この自己評価点をキャリアパスの中に導入するつもりで居る。高得点が良いには決まっているが、私が重要視している点は、むしろ達成度である。課題の達成の無いまま次の課題に移るのではなく、継続的に自分自身のスキルアップを求めていく姿勢を評価したいと考えている。昨日も書いたが、対人援助技術の中で一番重要な『自己覚知』、この己を知ることから始め、己の壁を乗り越えていく工夫を評価したいと思っている。
まあ、職員さんにしてみれば、これ以上の負担を掛けないで!と言いたいところだろうが、そこは、少し我慢して月に一回の提出だからと!
あまり大きな声では言えませんが、近々、顔面のシミをとってこようと思っています。市内のさる皮膚科でレーザーによって皮膚のシミをとってくれるところがあるのですが、この歳でなんで?と言われるかもしれませんが、やはり男でも見た目を気にします。外観というのは、何につけても重要であり、外見が悪いと、中身まで同様に悪く取られがちです。先日、うちの外周に張り巡らせたフェンスが大きく曲がってました。施工当時の姿を維持することは、ほぼ不可能です。なんでも、年数と共に変化していきますが、故意に傷ついたり、つけられたりした変化を放置すると、外から見たときに、中で行われている介護の質まで悪く見られそうでは無いでしょうか? 中身と外見には一切の因果関係は無くとも、荒れ放題に荒れている家屋や車は、其の持ち主の考え方にも影響を受けがちです。
年齢と共に顔に刻まれるシワは、そのまま人生経験の現われのように言われますが、だれでも若く、美しくありたい願望はあります。男の私にだって同様の願望はあります。特に若い女性にモテたい気持ちなどと言うヨコシマな気持ちはありません。・・・・(・・・・・・はずです!・・・・・・・?)しかし、やはり年老いても、若い人のように輝いていようと思えば、出来るものはなんでもやってみたいのです。まあ、どれほどの変化が生じてくるのかは不明ですが、取りえず囁く様に報告しておきます。
太陽の家では、職員の自主的な勉強会やら施設内研修など、スキルアップに向けて色々な『学び』が、誰が始めるでなく自発的に行われ始めた。もちろん、施設内研修は、施設長の依頼で始まったものでは有るが、決して強要したつもりは無い。逆に、私自身が国家資格を取得したことが大きな切っ掛けとなり、職員の中に「負けていられない!」感情が生まれてきたものと非常に歓迎をしているのである。また、職員自体の協働の体制、自覚、協調性などの面においても、非常に良い方向へと進んでいた。
それが、最近、少し息切れしてきたのか、若干の流れに動脈硬化症状が起きはじめている。介護福祉士の資格取得に燃えていた仲間が退職することとなり、同士の欠落は、そのまま残された職員の「やるき」にストレートに影響を及ぼしているように懸念している。それでも、職員は自分でレクリエーションを研究し、少しずつ前に前進しようとする努力が伺えることが、ささやかながらも職員の前に向けて進もうとする意気込みを感じることができ、救われる一面である。
介護の仕事は、井戸の中に雪を詰め込む作業のようだ!とよく言われる。尽しても、尽しても、無にかえり、同じことの繰り返しが、職員を疲弊させる。看護の世界は、患者の完治という点で、ある程度の満足感は達成できる業務である。しかしながら高齢者の介護は、この先が期待できない。日増しに全ての機能が低下して、消滅を待つのみである。これは、考えようによっては、非常に遣り甲斐のない、見返りの無い業務に見える。確かに、今日も太陽の家では、ある利用者の行動を落ち着かせる術も無く、幾度も繰り返し、繰り返し、同じ説明を反復するしかない場面があった。ゆったりと説明をすれば理解できる。ただ、其の数分、いや数秒後には、自分の思い通りにならないジレンマから、同じ行為送り返す姿は、まさしく自分の学んできたスキルと知識を疑いたくなるのである。私自身、バリデーションも高齢者の心理学も学んできた専門職としてのプライドをもち業務に従事しているが、それとてこのような状況下では繰り返し同じ説明を話し、本人に理解を求めることしか出来ないのである。
しかし、ここで一番重要な要として、我々のやるべきことを見失わないことが一番重要である。さて、その我々の遣るべきこととは?何だろうか? それは、この利用者Aさんの物忘れ症を克服し、繰り返し説明しなくとも安定した精神状態を保つこととではなく、其の刹那に、少なくとも話をしている間だけでも、本人が納得し、理解できる説明をはなすことではないかと思うのである。かなりまどろっこしい説明ではあるが、言うなれば、その人の行動をストップさせることではなく、その人が理解不能なために精神的に「迷いや不安」な感情で居る瞬間を、少なくとも繰り返し説明することで、その種運間だけは理由を理解し、本人は納得できるのである。この数秒の瞬間だけでも、その人が安心し、納得してくれているのであれば、それはそれなりに我々の職責を全うしていると考えるべきなんだろう。(詭弁かもしれないが・・・・) 介護職の中には、聞き分けの無い年寄りとして無視するものも居る。または、何度行っても聞き入れることの出来ない認知症高齢者に体罰を加えるものも居るかもしれない。認知症高齢者は、常にそう言った危険性の中で生活をしながらも、少なからず自分の意思と感情を持って行動している。私たちが遣るべき業務は、兎に角、繰り返しにはなるが、認知症高齢者が納得する機会をつくり、其の瞬間を増やしながら、次第に人間関係の中に信頼感を気づきあげていくことではないかと思う。ラポールの形成と呼ばれる信頼関係こそ認知症高齢者の不穏感情の安定におおきく関係してくる。
説明が回りくどいかもしれない、これらの考えかた次第によっては、高齢者介護の現場において、特に新人職員が被りやすい「精神的ストレス」を制御する術なのであろう!あせらず、高望みせず、見返りを期待せず、それでいてその人らしい人生を全うできるよう支援していける専門性を持った職員に育ってくれるものと信じている。私は、職員に対して、『 自己覚知 』をよく唱える。自分自身を知り、自らを律して責任ある介護を実践できるためにも、まずは自分の出来ること、苦手なことを性格に掴み、それに対して素直な自分で居ることがストレスも虐待も拘束もしない介護に直結するものと信じている。決して綺麗ごとではなく、高齢者にとって、一分、一時間、一日は我々異常に貴重な瞬間なはずである。其の大切な時間を理解できれば、何度も繰り返す苦労なんて、大した時間ではない!と思う。
職員の精神的なストレス。そうは言うものの、コントロールは困難である。困ったときには、一歩下がって見つめてみること。そして、自分の気持ちを整理して考えること。ちなみに、夜、仕事を外れて酒を飲むことや、好きな音楽を聴くこともストレスの解消には役立つ。しかし、深酒をしても何も解決には至らないことを思い出してほしい。我々の神経は、そんな酒で誤魔化せるほど単純ではない。