今日は、僕自身が大きく感動した事が多くあった。もう一つの感動は、新人職員についてである。金曜日のデイサービスは流石に利用者が多い一日である。週のうち一番多い日と言っても過言ではない。職員にしてみれば多忙を極める一日であろう。その中で、私は事務所のパソコンに向かって仕事をしていた(・・・・・本当!ですよ・・・・?)。その時に聞きなれない女性の声で、利用者の人々に音頭をとっている声が聞こえてきた。それ程沢山の職員が在籍しているわけもない弱小の施設ではあるが、正直、その時の声の主を想像できなかった。とても気になって、席を立ってデイルームに出て聞いてみたら、先日採用した新人職員が音頭をとっていたことがわかった。この職員、採用してまだ日は浅いものの、僕の目には不安を感じさせる人物であった。慣れないこともあって、職場にいても「一傍観者」であった。後ろ手に組んで、黙って利用者の後ろに立っている。特に声がけするでもなく、何もしない。先輩職員から指示された事は、しっかりと出来るくせに自分から、輪の中に飛び込んで行こうとする意欲が感じられなかった。実を言えば、つい先日、この職員の処遇についてフロアー長に話をしたことがある。フロアー長には、このまま新人君が変わろうとしなければ、個々の職場で働いてもらう事は出来ないかもしれないとストレートな意見を言った。その時、フロアー長は、僕に少しの時間を求め、自分たちの力で働きかけてみると言ったのである。
その働きがけが功を奏したのか、彼女は変わった。見事に利用者の方々と交流出来ているではないか!それも、大きな声で、リズム的に楽しそうに交流し始めた彼女を見て、僕は嬉しかった。同時に、フロアー長の意見を聞いて、待ったことに感謝した。もう少しで、有能な人材を手放すところだったかもしれない!と思った。
うちのグループホームの最大の特徴として、入居者による自治会が存在し、それが定期的に運営されている点である。もちろん、入居者である以上、それなりの認知症は患ってみえる。そして最大の問題は記憶障害であり、過去の記憶がほとんどが消し去られてしまうことである。一般的に言って、認知症高齢者による自治会などナンセンスと言われる方も存在すると思うが、私も職員も含めて、記憶障害と自治会運営とはまったく連結しない理論であると考えている。
今日、私の元に管理者兼計画作成担当者(妙になじめない名称だが・・・要するにグループホームのケアマネであり責任者でもある)から自治会の議事録が届いた。内容を確認して思ったことが、とても活発な意見交換が行われていると言う事実である。参加者が自由な意思決定を行い、自分の主張を行っている。これは、とても重要な事で、太陽の家に生活する入居者の皆様が普段から本当の意味において自由な生活を送っている証ではないかと思うのである。虐待や身体拘束ゼロ運動は実施し、それなりにOJTの機会や施設内研修の実施を行っては来た。そんな機会を通して、個々の職員がそれらの研修を咀嚼し、理解したことの結果、このような温かい介護に視点が向きつつある証拠ではないかと感じるのである。部外者には「自画自賛」と捉えられるかもしれないが、僕は、今日の議事録をみて感動した。次は、この自治会で揚がった要望や意見を如何に取り入れて、改善すべきは改善し、維持すべきは維持できるよう職員全員の協働体制の中で作り上げてほしいと願っている。
太陽の家のグループホームに入所して良かった!と言ってもらえるような介護を目指して!
高齢者施設では、小学校唱歌を皆が歌うという妙な常識(?)がある。我が太陽の家でも時々、小学校唱歌、特に一年生が最初に習って歌う唱歌を歌って頂く事がある。一部の認知症を抱える高齢者には、重い口を開けるための重要で意味のあるツールとして否定はしないが、その使い方を誤っていないのかなア~と感じてしまう。全てを自分に当てはめて考えてみても、この歳になって「雪やこんこん、あられやこんこ・・・」と歌うことに大きな抵抗を感じる。全てはリハビリの一環である事は理解していても、自分自身も嫌、ましてや自分の親が、そのような歌を歌っている姿は辛すぎる。そう感じるのですよ。
どうだろう・・・太陽の家デイサービスでは、今後一切の小学校低学年用の唱歌は取りやめにしたらどうだろうか?何か支障をきたす様な問題はあるのだろうか?自律支援を訴えている中で、脳梗塞の麻痺やパーキンソン症候群で悩む高齢者の気分が高揚して、生きている事を喜べる歌に変えていけないものだろうか?決して、利用者を子供扱いしているわけではない事は承知しているが、高齢者全てが重度の認知症であり、小学校唱歌だけしか歌えないわけでは無いのではないのでは・・・?
そう今日は思ってしまった。
ついでに、もう一言、帰宅準備に向けてホワイトボードにお送り順を書くのですが、これについても検討してみたいと考えている。ホワイトボードに書いて、帰りを待ちわびることよりも、一日を目いっぱい楽しんで頂いて、変える準備も利用者の個人に任せてしまいたい。説明の仕方が悪いかもしれないが、要するに、帰る支度を職員がグループ単位で交わりながら、会話して、それぞれの利用者の帰宅時間の口頭による発表を兼ねて、色々な情報交換の場とする。メリットとして、個別に話をする事によって、沢山の前で言いだせなかった問題についても、利用者から引き出すことが可能になるのではないか?と考えるのです。要するに利用者がお帰りに暗ル前の30分程度の時間を、職員が手分けして直接お話しする時間に充てたい。と思うのです。どうだろう・・・・?これらの点について職員さんの意見を聞きたいと思っている。
先日、太陽の家デイサービスセンターを利用する、ある方の問題について家族と担当ケアマネと話し合った。お年寄りを取り巻く問題は千も万も幾重にも重なり、非常に難しい問題を抱えている。単に風呂に入りたくない!布団から出たくない!という単純な問題ではない。問題は、その人の性格、環境、生活暦、現病または障害の程度に加え、家族の感情や思い等が複雑に絡み合っている。大半のお年寄りの抱える問題は、言うなれば「八方塞」である。これと言って明確な解決策が見えてこないのである。〉今日も、そのような複雑な問題に如何に対処すべきかを話し合った。前述の通り、このような四面楚歌な状況は、いたって当たり前な問題と言えばそれまでではあるが、僕は、このような問題を抱えた利用者を見つめることで、今のデイサービスが提供しているサービスを考えてしまう。
またこれらの状況を自分に置き換えてみれば当然のごとく、デイサービスなどに行きたくもない気持ちは十分に理解できる。特に自宅で自由に気の向くままの生活をしているお年寄りにとって「管理」される事を嫌うのは当然である。しかし、管理されない生活は管理を必要とする状況を生みだす。例えば薬の過剰摂取や服薬忘れ、血糖値や血圧のコントロールに不可欠な食事制限などがそれである。人によっては管理される事を嫌うあまり、慣れてきた職員に八つ当たりする利用者も存在する。職員が口をそろえるように訴えていたが、最近一人の男性利用者の口調が荒くなってきた。と言うのである。理由はいくつか存在するかもしれないが、その中の一つに先ほども言ったような「慣れ」が関係しているのではないかとも思える。今までは職員との関係も他人的で社交辞令も交わしながらのお付き合いも、次第しだいと旧知の友となり、素直に感情を表にだしてしまう。もちろん、これも、その利用者の錯覚ではあるが、そこは少なからずも認知症を抱える高齢者でもある。良く理解してあげたい。そして、同時に、ここでもう一度、対利用者への接し方について見直す必要性もあるのかもしれない。
なぜこのように考えるかと言うと、また、これも今日、一人の職員が提出してくれた自己評価を読んでからである。彼女は利用者が多い日に限って、何でもかんでも職員の方が率先して仕事として介助してしまう事を反省していたからである。僕は、彼女の自己評価にアドバイスとして、このように書いて返した。「利用者の介護をするという意識を変える必要があるのではないのでしょうか?困っているからお手伝いするのは、一般的な介護職員が行うのであって、私達は、もう一段上の支援を行ってみる。つまり、困っている原因を探し、その原因を排除するように支援する。例えば、認知症の利用者には一日の個別スケジュールを話し合って決め、それに従い自己管理をお願いする。脳梗塞で麻痺のある利用者には、その一番の原因である麻痺を改善できるようリハビリを集中的に組み込んだ介護を実践するなどである。もちろん、そう簡単には進まないのが現実であり、そこが現場にいない施設長の机上の空論と言われるかもしれないが、しかし、考えてみれば、利用者の方々が、なぜデイサービスに拒否をするかと言えば、そこに自分の意思が関与していないからである。自分の意思でこうしよう!こうなりたい!と思えれば必然的に利用者は率先して参加する事となる。私達は専門職として、このお手伝いをするべきであり、決して「排便排尿支援、食事介助、入浴介助」だけが重点項目では無いという事を認識しなければいけないと思う。
この考え方を皆が持ってもらえれば、それだけ介護の資質は向上すると言えるのです。机上の空論。結構!太陽の家を利用して良かったと思ってもらえる為には、ここまでのことを推進したい。と願っています。そして、最終的には、この太陽の家に来てもらえる人々は、勝手に自分を管理でき、勝手に一日を楽しんでいってもらえ、私達のすべきことは、全てにおいて見守りだけの生活にしたい。そう願っているのです。その道は遠く険しいかもしれませんが、いつかきっと!
今年は新年早々からの「年頭所感」などと気取って書き始めたこのブログですが、案の定、そのれから以降にパッタリ。まあ、僕的には色々な事が起こった年始ゆえ、どうかご理解を・・・
さて、今日はデイサービスの意味を考えてみたいと思っています。太陽の家では、今年の年始は4日からのサービス提供を行っています。今日で5日目ですが、久しぶりに朝から送迎運転手を担当していました。今年初の運転業務。運転する事に別段の苦は無いものの、その中で今日感じたこと。それは、我々デイサービスの事業者が提供できるサービスの限度を感じたのです。
利用者によって生活環境はマチマチです。一人住まいの要介護者もあり、老人夫婦二人で住まいし二人とも認知症であったり、家族は居るもののデイサービス以降は部屋に籠りっきりの要介護者など。本当に沢山のケースで溢れています。まず、この利用者の皆さんの精神状態を考えると、昼間にデイで騒いで楽しく振舞うのは良しとして、その反面、自宅に帰った以降のギャップを思うと、果たして今のままで良いのか?と考えてしまうのです。昼間は気分も高揚して楽しい、しかし、夜、一番高齢者にとって不安な時間帯に一人ぼっち。尚の事、夜の眠りに影響があるのではないか・・・?私達は利用者の皆さんの昼夜逆転現象を防ぐためにも昼間楽しんで頂いているのですが、それだけで夜ぐっすりと休めるのでしょうか?と言う疑問が一つ。
そして第二に、認知症状の進んだ要介護者を介護する家族の苦労を考えると、果たしてこのままで良いのか?と言う疑問が起こってくるのです。この家庭は奥様が気丈な方で、甲斐甲斐しい介護を献身的に実施してみえるのですが、当の要介護者には、意思の疎通はまったく取れない状態で、夜間の介護を奥様一人で負担する事が出来るのだろうか?昼間でもデイサービスの職員数名で更衣を手伝い、トイレ介助を行っていることから考えても、重度認知症高齢者の介護を女性一人で介護するには、少々の厳しさを感じずにはいられないのです。
介護保険の制度の問題ではなく、施設の出来ることが限定される中で、もう少しフレキシブルな支援が出来るようなシステムの構築が必要なのかもしれない。と同時に、職員さんも人間ですから、それぞれ24時間休みなしの労働は不可能です。職員にも負担が少なく、家族支援が出来るシステム。それは殆ど机上の空論のレベルでしょうが・・・
制度が確立されればされるほど、「人間の生き方」に矛盾と言うかねじれが生じてきます。私が今日のブログで書きたいのは、このねじれです。社会福祉援助を専門とする立場としてふさわしい話題ではないかもしれません。しかし、社会の中には「生きる」と言うことを考え悩んでしまう事が多く存在します。僕は、人の生死を審判でませんし、自分の生死に関しても無力です。これが人間の性であれば、その性をより複雑に無闇な苦痛を負わせているのも性なのかもしれません。
新年早々、暗いブログですが、次回は面白い話を書けるようにしますね。