本を読んだり、広く一般的に出回っている雑誌の中に紀行文などを読む時。時として文章表現が素晴らしく、芸術的だと感動する時がある。僕なんぞは、文章を書くと言ってもブログを描く程度だから、単なる独り言に近い文章なんて芸術でも何でもない。でも、そんな僕でも素晴らしい表現を文章の中に見つけた時は、とても表現できないような感動を味わうことになる。例えば、「坊っちゃんは常に「上席」を利用したということで、奮発して3階個室コースを選択。早速、渡された浴衣に着替えて浴槽へ。体を沈めると、湯が肌を滑る感覚が心地よく、体がじわりと解ける」この文章はあるクレジットカード会社の発行する月刊誌の中で愛媛県の松山市を紹介する文章の中からの抜粋であるが、湯が肌を滑る感覚ってどんなだろうと考えてみる。僕のように年齢のいった者からすれば、湯船につかってみてもお湯が肌を滑るどころか、お湯は肌に刻まれた細かな溝を超えて・・・・と言う表現になってしまいそうである。まあ、この文章から想像すれば筆者は若い人。それ女性?と考えてしまうが、ついでお酒が大好きな人のように読み手の僕には伝わってくる。 体がじんわりと解けるのは、暖かなお湯に体全体がほぐれていく様子を美しく表現しているが、お酒の大好きな人なら、それこそ最初の一杯を入れる時の表現に近いのかもしれないと感心した。一日、しっかりと働いて疲れた体を、温かな湯気の立つ湯船に横たえる時、そして、同じように疲れて身体の節々に潤滑油が回りきれてない固まった状態の時に飲むいっぱいの上質の酒。それまで硬直していたからだが解ける。
表現としてつかえるな~と思いませんか?!
先月自室のエアコンが故障して修理をお願いしたばかりで、今回は自宅居間のエアコンが完全に冷えなくなった。エアコンを回し続けても室温はあがるばかり。時間の経過と共に蒸し風呂状態の居間に、ようやく修理依頼の電話をし、今日、メーカーの方から修理に来てもらった。修理結果は完全なガスの漏れによる機能不全。修理代金に部品交換を行って、大雑把な計算ながら6万~7万円程の修理費用がかかるとのこと。築8年目の自宅。エアコンの耐用年数にしては早い故障だと思うが、こればっかりは機械の事。何ともクレームの付けようがない。
この居間に取り付けられているエアコンは、自宅建築時から設置されていたもので、ハウスメーカーの方で機種の選択を行い、インテリアコーディネーターのアドバイスに従って購入したものではあるが、本来のエアコンの持つ容量を遙かに超えた容積を冷やしたり温めたりしてきた無理が祟ってのことなのか・・・・僕にはわからないが。こうなるといっその事新しいエアコンに、それも冷房容量の大きな機種への変更を行った方が無難なのかもしれないと考えた。
さっそく友人の家電量販店店長に電話。事情を説明してなるべく安価に買い替えをお願いしたところである。
この夏の電力需要に対して発電能力の低下から、節電を実施してきたが、ここ数日、残暑も厳しく、エアコンの無い居間で家族の団らんって考えられないほど暑い。居間の窓を全開にしていたものの、室温は期待通りにさがってくれない。蒸し暑いのは同じ。原発反対を声だかに叫び続けていたものの、自分が猛暑の夜をエアコン無くして過ごすことも出来ない軟弱な意識では、世間様から笑われる。本当に無様なほど、暑さに弱いと言うか、自分勝手と言うか、ご都合主義と言うか・・・・福島県の放射能汚染で居住区を追われて避難生活をしている人の事を思えば、エアコンが壊れたくらいで大騒ぎするな!と言いたい。
この世の中、生活が便利になり、生活の質も向上した。その反面、それらのコンビニエントな生活様式が、少しでも崩れてしまうと現代人は生きることに非常に弱腰になると言う現実を見たような気がする。本当にダメだにゃ~猛省!!
今年は僕にとって休養期間と自分の中で認識づけている。珍しく東都にも昨年末以降訪れていない。特に東都に対する憧れは、この歳になってしまえば若いころに比べて、それ程強くは無い。でも、この鈴鹿では簡単に手に入らない食材や雑貨品が、ちょっと電車に乗って移動すれば入手できる便利さにはうらやましさを感じる時がある。そして、ファッションにしても文化にしても、都会だけあって、とても身近な存在である点が素晴らしい。ミュージカルの好きな友人が、東京は素晴らしい。しかし、それよりももっとニューヨークは素晴らしいと言っていた事を思い出す。芸術や音楽、文化に関しては、やはり日本中のどこよりも早く、沢山の作品が紹介される機会に満ち溢れている。仕事で上京しても、仕事を終えたひと時に、お気に入りのミュージシャンのライブでも・・・なんてことが軽業師のごとくできてしまう。そんな街が東京である。 林立する高層ビルや密集する住宅など、田舎育ちの僕には多少の息苦しさは苦手ではあるとしても、こうやってjホテルの高層階からの景色を見てると、様々な人生の縮図を見降ろす神のごとく、日々の喜びや苦しみなどの感情の変化のちっぽけさを感じてしまう。
でも、この鈴鹿でも東都に引けを摂らない素晴らしい場面も多い。それを忘れてはいけないと思っている。例えば、昨日のブログで紹介した遊歩道。そして、世界の鈴鹿サーキットの存在、そして緑豊かな田園風景。決して全てにおいて東京が全国にぬきんでて素晴らしい街とは思わない。地方には地方なりの素晴らしさがあり、何よりも自分の生まれ故郷である事は、東京には無い重要な意義を持っていると思う。そして、一番重要なのは、私達田舎人にとって東都は訪れる先。要するに訪問先であること。東都のよい場面だけを見て帰る先を持っていることが大きなメリットである。
僕は海外での生活も長く体験している中で、やはり自分の国を持っていた。アメリカ合衆国は自由で希望に満ち溢れた国である。特にカリフォルニアは気候も温暖で湿度も少なく、そこそこの大きな都市でもあり住む事に不自由は感じないし景色も最高のロケーションを自負している地域である。しかし、そんな素晴らしい街でも、僕にとっては異国の地、仮の住まいであって、母国の存在を忘れることは出来なかった。生まれ故郷は、何よりも重く、素晴らしい思い出と共に深く心の隅に残るのである。古くは明治、大正、昭和の初期に移民した日本人一世たちの気持ちは、日本から遠く離れたサンフランシスコの街に日本人街をつくり、日本庭園に癒しを求め、異教徒の国に仏教会を構成し、遙か日本への郷愁の想いを忘れないよう努力したほどである。
さて、話がとてもワールドワイドになってしまったが、つまりは人間の故郷を思う気持ちについて書いてみた。ちょこっとセンチメンタルで、ちょこっと冒険的である都会と田舎の生活の差は、そのまま人間の感情の起伏の強弱に影響を及ぼすと言うこと。そして、そのセンチメンタルな気持ちこそ、年老いて生活する者にとって、とても重要なファクターである点。高齢者介護を行う者として忘れてはいけない課題であるように思う。
太陽の家の近所に写真のような遊歩道がある。ちょうど太陽の家から北に歩いて数分のところから、先は神戸城跡までの920メートルの長さ。遊歩道には色々な種類の木々や草花が植樹され、季節に応じて花が彩りを添えるように作られている。最近、この散歩道をウオーキングを兼ねて散策することを日課としている。今日もこの遊歩道を二往復。トータル4キロ弱を45分ほどかけて歩いた。遊歩道の沿線には、三重県の庁舎や民家、公園等が立ち並び、遊歩道から見える家々の様子は、結構都会の高級住宅地の中を連想させるような雰囲気。写真だけを見て、東京の吉祥寺界隈といっても通用するような景観である。
そんな遊歩道を歩いていると、色々な音が聞こえてくる。家庭のなかの家族の会話。練習中のピアノの音。家の庭先を竹箒で掃除する音。駐車場に入る車のエンジン音。そして、講演で遊ぶ子供たちの声。様々な音が、人の存在と生活を感じさせている。また、個々の家庭から漏れてくる音もそうだが、家庭によって漂ってくる匂いも違う。特に僕の歩き始める時間が夕方の5時頃、ちょうど家庭の中では夕食の準備が始まろうとする時間。歩きながら、その家の今晩のおかずが想像できるようである。玉ねぎを炒める匂い。 この匂いはトウモロコシをゆでている匂いだ!、あれっ?ここはカレーを作ってるぞ!とか、ニンニクと降りブーオイルの匂い。う~ん、美味そうなイタリアンの香り・・・なんて風に色々な匂いが漂ってくる。
匂いと言えば、すれ違う人によっても匂いが違う。洗濯の柔軟剤の臭いが漂う人もいれば、お線香のような匂いを漂わしてすれ違うオバサンや、汗臭いおじさん等。自転車に乗った学生さんは、若い匂いがする。汗臭いのだが、オッサンのそれとは少し香りが違う。こんな匂いの事まで書き始めると、如何にも私は変態です!なんて誤解されそうではあるのが怖いが、これら全ての匂いを総称して、地元の臭いとでも言うのだろうか・・・?
そう言えば、最近めっきり「セミ」の鳴き声が少なくなった。ちょっと前までは、この遊歩道を通る時など、セミの鳴き声が喧しく周りの生活の音なんて聞こえなかった。そんな生活の音まで聞こえるくらいだから、セミの時期も最終に近くなってきてるのだろうね!
最近、デイサービスの提供しているサービス内容、はっきり言ってガタガタです。全然出来てません!なにが出来てないか?それは、全てにおいて職員の緊張感が欠けている。誰かがやるだろう!というより、そこまで頭が回転してないのかもしれない。もしも、職員の頭が回転してないのであれば問題である。ここまでが限度かよ??!!
昨年から月一の施設内研修を行ってきて、社会福祉から高齢者介護まで理念や概論を一緒に学んできたが、その効果は全く生かされていない。理屈ばかりが上滑りして、実際の身になっていないのであれば問題と思わないのか?僕は、職員の自覚が次第しだいに薄らいできているように思える。これに関しては僕にも一縷の責任はある。つまり、今まで職員間の風通し、管理者と職員との融合と言うか、壁の撤去などを目的とした対話路線を尊重してきた姿勢、その結果、あまりに職員と管理者の関係が近似しすぎたのか管理者に対する恐怖観念が無くなり(それはそれで歓迎されるところではあるが・・・)友達感覚になりすぎてるのか?兎に角、今の太陽の家デイサービスでは、レベルアップを目標として、ある程度の目標が達成されたところで更なるステップアップに結び付いていない。どこかで抜けているところが多い。これでは、事故もクレームも起きる。
マンネリ化と言うが、まさしくマンネリ化している状況が太陽の家である。個別機能訓練にしても、食事、トイレ介助にしても、自立支援を強調するあまり、しっかりと見守る事も出来ないくせに、利用者の自立にまかせている状態は、決して自立支援では無い。それは、「放置」と言うんだ! 利用者を放置して、自立支援してるとは言わせない! もう一度、職員全体で自立支援のための援助とは何かを話し合って、皆が同じスキルとスタンスを持って援助して行ってほしい。職員の技量の差と言ってしまえばそれまでだ!職員の技術の格差は何処にでも存在する。それを少なくとも足並みそろえて解除できるように話し合い、お互いが納得できるところまで意見交換をすべきである。
本年度の施設内研修は理論や概論は抜きにして、情報の共有化を目指して職員間のレベル調整を目的に行うことにした。昨年同様、月一のペースで自主的な参加となるが、この太陽の家デイサービスの提供できるサービス向上にむけて、もう一度皆で一緒に学ぼうではないか。このままで終わってしまう事を良しとするな! 頑張れ!みんな!