昨日の男女二つのサッカーの試合をみて思ったこと。それは、タイトルのごとく完全なチームワーク(チーム プレー)の重要性である。男子サッカーのザック・ジャパンは、一点を獲得する事の出来ない惜敗と評価され、女子サッカーのなでしこジャパンは、先制された一点を逆転して勝利へと結び付けた。僕は、それ程のサッカー大好きなファンではないが、時々、世界戦などをテレビでみる時がある。戦略は僕には理解できないが、男子と女子の試合を見比べてみると、男子サッカーよりも女子サッカーの方が、チームプレーが出来ていたように感じる。ボールのすすむ先を予測しながら、個人個人が同じ絵を頭に描きながら、その理想的なパターンを目指して、各選手がフィールドを駆け巡っていたように見えた。当然、得点圏でのシュートチャンスを確実にものにした女子サッカー。それに反して男子サッカーには、世界で活躍する超有名スター選手ばかりのチーム構成の中、見た感じ、それぞれのプレーヤーの頭の中では、バラバラで統一性の無い絵が描かれていたような、チャンスに対応できていない。そんな感じを受けた。
介護の業務の中でもチームプレーが要求される。その理由に、数居る職員によって異なる支援の量と質、方向性では要介護者に混乱が生じるし、また、単発のケアでは、効果も薄く改善に期待が持てないからである。どんなに優れた技術を持っていようが、卓越した知識を持っていたとしても、しっかりと周りの支援者との連携がとれなければ、この男子サッカーと同様、得点につながらない、哀れな介護の実践となってしまう。
今年のアカデミー賞でオスカーを、83年ぶりに無声映画が5部門をとった。以前より、僕が言い続けてきた、昔の白黒ハリウッド映画が面白い!僕流の映画評価は、ある意味、社会的な現象なんだと。CGや3D映像が市民権を得たような、今の映画界は、あまりにも人為的すぎて面白くない。そんな評価をするのは、懐メロ好きなおっさん風批評では無いと言う事が証明されたワケだ。(と、勝手に決めつけている(^-^)/)
先のブログでも、我が社名の命名の由来を説明したが、世の中、あまりにもバーチャル社会に進み過ぎて、人生を味わって生きる事や、痛みや苦しみに涙を流す事を、非現実社会として感情の起伏を抑え込む事によって苦痛から逃れようとする現代社会。そんな中途半端な現実逃避社会に警鐘を鳴らさんばかりの快挙だ。
とは言うものの、僕はまだ、今回のオスカー受賞作「アーティスト」をみてはいないので、はっきりと評価はできないが。(みてはない映画をニュース報道の情報だけで判断するな!って)
確かに、最近の3D映画も良かった。見れない事は無い。でも、通常の神経ではストーリーを理解できにくい点では、オッさんの一番苦手とする世界。歳と共に、最新式ってのに付いて行けなくなるもので、できれば単純明快な方が分かりやすくなってくるものなんだ。
としはとりたくは無い!とブーたれてたのが、今回のオスカーを白黒画像、無声映画と言うノスタルジックな映画(要するに、古臭い懐メロチックな)が、年寄りに成りつつある我々アナログじじいを正当化したと言う点で評価できる。
バーチャル反対! 人間の感情を大切にした人間社会の復権にエールを贈りたい。
バンザーイ\(^o^)(^-^)/
うちの会社は、「アルファルファ アンド カンパニー」と言うことは、知ってる人も多いが、このへんちくりんな名称。高齢者介護の業務にはむかない、また、言いにくい(舌を噛みそうな・・・)名称のいわれについて話をしましょう。
僕が子供の頃、日本に初めてテレビなる物が一般家庭に普及し始めた頃で、白黒テレビでり、今のようなリモコン操作も出来ない。全てがアナログの機械式テレビ装置だった時代。テレビ番組も、白黒の動画程度、画質は荒れて、美しくも無く、音が良いわけでもない。それでも、食い入るように大相撲や漫画などをみて喜んだものだった。そのような時代だから、日本国内で製作する番組もあったが、結構多くの輸入番組も多く放送されていたわけです。
特に「奥さまは魔女」「ビーバーくん」や「グリーンホーネット」や「スーパーマン」は面白いうえに、自分の住む世界からは別世界のようなアメリカの近代的な生活様式が満ち溢れて、それこそ異次元の世界を見ているようだったのです。漫画で言えば「ポパイ」や「ミッキーマウス」「トムとジェリー」などでも、厚くスライスされたステーキやハンバーガーなどの欧米の食文化が垣間見え、見るたびに アメリカ人の全てが大金持ちの人種のように思っていたものです。
そして、僕が一番愛して、憧れた番組として、アメリカの子供たちの作るドタバタ喜劇のような番組「ちびっこギャング」という番組がありました。この番組だけは、それまでの超高級でハイカラな富める国アメリカではなく、アメリカの中でも貧民街で暮らす子供たちの日常をみせていました。僕んちも貧乏、こいつらも貧乏。なんだが相通じるものを感じながら、何もない街に自分たちのアイデアを駆使した手作りのおもちゃや道具を使って遊ぶ姿に憧れたものでした。廃材を寄せ集めて作った隠れ家、犬と猫を動力源にした自動車もどき、石や水を巧みに利用しては、子供にとって悪となる大人たちを懲らしめる・・・等、想像力を膨らませ、楽しさを倍増させる英知に驚き、そして共感していたのです。 僕は、その子供たちにトムソーヤの冒険やハックルベリーの悪戯などを重ね合わせて、その世界を通じて見果てぬ夢を描いていたように思います。
そして、その中の登場人物の一人にアルファルファという子が居たのです。髪の毛を真ん中で分けて、頭のてっぺんの毛を数本。それこそお化けのQ太郎のように、頭上にとびださせていた子。彼は、常に黒っぽいパンツとジャケットを着ていました。お坊ちゃんではなく、貧乏な子には違いなかったのですが、気持ちは王子様でした。いつも正しいことを求めて、正直に生きていく真面目な男の子です。そんな彼が好きで、創造性あふれる者があつまり、常識を超えて新しい文化を作る集団として「アルファルファ」と命名しました。
昭和61年に、イベントや広報活動等の業務を行う別事業を開始するに伴い、社名を変更しました。それが、今の社名となったわけです。 僕が28歳の時(1981年)に起業して、今年で31年目を迎えます。30年の節目は大病を患い、それどころでは無かったのですが、今年は、もう一度、初心に帰って、新たなる創造の世界へもう一度大きな一歩を踏み出したいと考えています。
久しぶりにまる子さんの登場だ。ここんとこ、風呂に入る様になったと聞く機会の増加で、何とかうちのグループホームにも慣れてきたのか?!と一安心してたが、ここ数日、時々、グループホームを訪れるたびに以前より孤立してる感の強くなっている様に感じている。
何が気に入らないのか?僕が顔を見せても、その表情は不機嫌で仏頂ずらして、一言も声を聞くことはできない。相変わらず散歩に出ることも無く、一日中、太陽の家のグループホーム内で過ごしている。刺激の減少が、彼女の人生をつまらないものにしてるのか?人生をつまらなく考えるから活動が阻害されるのか?
そう言えば、最近では、前の薬屋に栄養ドリンクを買いに行くと言う要望すら聞けない。
何だか、自分自身の人生を恨んで、周りの誰をも信じることが出来ない対人不信に陥ってる感じだ。昔は長い間、大きな企業の事務職で真面目に働き、同僚達、特に若い女性を可愛がり、いろいろ面倒見良く世話を焼いていたタイプだったようだが、今は人と交わる事を、極端に嫌う生活である。
こんな状態だから、職員もお手上げ状態なことだろう。子供ならお菓子で釣る事は可能だが、一人前の大人の場合、どう言う風に気分を変える事ができるだろうか?
全く何のエビデンスは無いが、一度、彼女と一緒にバスに乗って、市内を移動してみたらどうだろうか?昔とった杵ずか、意外と気分良く、生きる喜びを感じてくれるかもしれない。
先日、当デイサービスを利用中の要介護者を抱える家族から、夕方の6時過ぎに電話をもらった。重度の認知症の夫のトイレ介助が出来なくって困っていると言う内容であった。認知症を持つと言う事は、徘徊や記憶障害だけではなく、重度化すると今まで意思の疎通が出来ていたものが出来なくなる。援助者の言っている事が理解できないのである。以前は、このような状態を介護への抵抗と言って済ましていた介護側の失敗も、先ごろは認知症に対する理解が深まり、その人が言葉を認識できなくなってきている状態と理解が始まっている。 しかし、それでも、援助者の言葉を理解されない認知症高齢者の扱いには苦慮することも多い。今回の家族の訴えも、その点に問題があるようだ。
さて、それでは、その言葉かけであるが、敢て言うなれば援助側からの「指示」が通らない状況について、その時の対応いついて考えてみたい。指示が通らない状況を分析してみると、そこには援助者側の視点を中心軸に据えての指示が存在する。それは、排便、排尿で着衣が汚染されている状況を見るに見かねて着衣の交換を必要とする視点や、長期間の不浴を不衛生と決めつけて入浴を薦める等がそれである。 汚物にまみれた着衣を不潔とか気持ち悪いと意識するのも援助者の意識。長期間の不浴を衛生上良くないと考えるのも援助者の視点。
もちろん、汚物によって汚染された着衣を交換しないこと、長期間の不浴や洗髪、洗身も共に健康に良いわけがないことは十分に承知しているが、問題は、その動作を促すタイミングの問題であると考えられる。
認知症高齢者の全てにも人格は存在する。その人なりに、間違っていたとしても感覚は残っているはずである。そして、何よりも自分の意思で、声がけに素直に従える時も存在する。要するに精神状態の安定した時、身体状況の安定した時、そんな時を援助側は大切に考えて支援する必要性があるのではないかと思う。
認知症介護でよく言われる、「その人を中心に置いた介護」。 その人の想うように、その人の感じるように、出来る限りその人に「沿って」、ねじ伏せるのではなく、その人の考えを尊重した支援。それが、認知症高齢者との接し方として重要であり、同時に安定した生活の維持につながると考えている。