今日は車に関する驚きを二つ経験した。一つは、また、また、ちょっとおしゃれな車に、僕の愛車を煽られた!と言うお話。特にチンタラ標準的スピード(標準的と書いたのは、制限速度を超えて流れに沿ったスピードと言う意味で、そのように表現した)で走行中に、僕の車の真後ろにベタリと鼻先を押し付けるように近寄って運転する車。それは、ヨーロッパの車。コンパクトな車だが、結構機敏な走りに定評のある車である。僕のルームミラーに相手の運転手の顔がはっきりと分かる位べったりと!猫か何かが飛び出してきて急ブレーキでも踏めば、そのまま後部に追突される距離である。そして、その運転する人は若い女性である。驚いた、以上にあきれ果てた。何と無謀な!!
次に紹介するお話は面白い話。片側二車線のバイパスを津の三重県総合文化センター向け走行中。僕は車内温度が上がりすぎるために運転席と助手席の両方の窓を開放して、追い越し車線を走行してたのです。二つ先の信号を右折するつもりで追い越し車線を走行。運悪く(?)手前の信号で赤信号、強制的に停止を命じられてスローダウン。僕の左側には軽トラック。次いで右側の右折ラインにシルバーマークを付けてた軽車両。最初、左の軽トラックから漏れ聞こえるラジオの音。そして、右側の右折車線に入ってくる軽車両が近づくにつれ、聞こえてきたラジオが、ステレオのように両方から聞こえ始めたのです。しっかりと、二台の軽車両に挟まれたように停車したのですが、偶然にも両隣の車両が同じAM放送を聴いてた。ってなわけで、それも両方の車両を運転するのはオジサン。聞いてたラジオ番組も「ラジオショッピング」だった。『通常は〇〇円のところ、本日限りのお得なお値段・・・・』ってな調子である。この偶然に思わず笑えてきた。ってお話。
えっ?面白くなかった?! そりゃ、申し訳ない!
先日のブログでも紹介したように、最近、よく本を読む。前回紹介した本はすべて読み干した。昨日見つけた里中李生という三重県出身の作家の書いた「一流の男、二流の男」を読み終えた。本屋さんで立ち読みしている中で、このタイトルにひかれ、おまけに同じ三重県人が書いた本ということに、とても興味がわいた。
初めて読む作家のエッセイであるが、とても人生に対して厳しい視点を持っている人で、言葉自体も厳しい。それこそ「あほ、ボケ、カス」の言い回しである。軟弱い現代の若者を糞呼ばわりして、ヨワッチイ人間は死ね!と言わんばかりの厳しさ。これまで読んできた高野登氏のホスピタリティーからは、180度、真反対の作風である。
ところでそんな里中氏の理論から判断されると僕は一流の男か?二流の男か?答えは二流の男となってしまう。その理由は、僕の中に彼が言うほどの厳しさが欠けているからである。里中氏の言う一流の男とは、昔、好んで読んでいた大藪晴彦氏のハードボイルド小説の主人公のような人物なんだろう。すべての物にこだわりを持って、自分の成功のためなら愛する女まで犠牲にできる男。それでいて、自分を世界にアピールし、思い描く姿に向けて夢を実現していく男。そして、二流の男は、そのまったく正反対のダメ人間で、マクドナルドやサイゼリアなどのファーストフードで空腹を満たし、肉欲だけに植えているだらしない男を言うらしい。
しかし、本当のところ、スーパーマンのような超できる男を応援し、できない男を拒絶するような文章を書きながらも、どこかで二流の男たちを鼓舞し擁護する優しさが、この本には存在する。高野氏のホスピタリティーを正当方とするならば、里中氏の文章はサディスティックであり暴虐的であるかもしれないが、お互いに求めるところは同じような気がするのである。実際に彼の本を読んでみると、僕の言う面白さは理解いただけることと思う。所々で、僕自身も似たところがあるとも感じる。言葉はきつく、悪いけど、本当に相手を信じ、思う姿が隠されている。ただ、表面的に見る限りでは、とても津もなく横着で横柄な態度に、周りからは理解しがたい人物と映るかもしれない。
本を読むということは、楽しい。紙に書かれる活字を読むことは楽しい。i-padなどで読む電子書籍よりも、やはり紙に印刷された文章を読むことの方が何十倍も楽しめる気がする。もしも、このブログに興味をもたれる方がいたら、とりあえず、自分が読みやすい活字の本を買ってきて、または、自分が興味を抱くジャンルの本を読まれることをお勧めする。テレビから仕入れる情報よりも限りはあるが、それらの情報量よりも中身の濃い知識を得ることができるはずだ。
いつものように近所のスーパーへ買い物。僕の買い物は、その場で献立を決める。格好良いみたいだが、これは意外と不経済極まりない行為で、無駄な買い物をしがちである。さて、今日のお話は無駄な買い物ストーリーではない。今日、立ち寄ったスーパーでの出来事。いつものようにブラブラと食材を吟味しながら店の中をうろついている時、5歳か6歳くらいの男の子が、声の限りの大声で叫んでいる。確か、小学低学年程度の女の子が近くにいた。その男の子のお姉さんらしい。男の子は「おねえちゃん!▽□!?×◎・・・」と訳のわからない言葉を発している。それもあらん限りの大声だ。僕を含め、周りにいた客の皆が、その子の方に振り向いたくらいだ。耳に突き刺さるような大声で、何度も叫ぶ男の子を無視するように、母親は平然として買い物を続けている。
その子の母親であることは、その時のそぶりで一目瞭然、他人の僕にも判別できるものである。他人さんの場合は、わめき散らす男の子をいぶかしげに見るものだ。ところが、親は、そんな子供を他人のふりをしているようだが、その不自然さが逆に親ですと!物語っている。事実、レジで並んでいるその子と母親は、僕の想像通り一緒にレジを通って行った。
最近の若い親たちは、子供に圧力をかけずに豊満な気持ちで自由にふるまわせる。そのほうが、大きな人間に成長すると思っているようだ。確かに、今の大物政治家の献金疑惑裁判でも、大物は4億もの大金の出所をうやむやに、闇の中に隠ぺいしてしまうほど大胆で不敵である。小さな事には、構うほどの神経は持ち合わせていない。たかが、スーパーの中。不特定の人たちが集う公園と同じ、どこの誰とも知れない者たちが買い物する場。誰に遠慮する必要もない場所であるらしい。
僕が子供のころは、小学校のある神戸(かんべ)の商店街が地元のお買いものエリアである。そのような場所で、今日の子供のような振る舞いでもしようものなら、その辺に歩いているおっさんに「浩一!静かにせい!」と怒られたものだ。僕が有名な子供というわけではなく、その当時は、その辺の誰もが、何処の、誰それの子供であるとか、親の職業まで知っているような社会であった。ちなみに、うちは豆腐やアゲを製造販売していたので「あげやのこういち」として知られていた。
僕が中学を卒業した頃、夏の暑い盛りに親父のサングラスをかけて、麦わら帽をかぶって神戸の街中を歩いていたことがあった。その夜、家に帰ると母親から、サングラスをかけて歩いていたことを問い詰められ、こっぴどく怒られたことがあった。僕は気づいて無かったが、知り合いの人に目撃され、そのことを家の母親に通報されていたのである。小さな町だからこそ、昔の時代だからこそと言えばそれまで。今は、私自身含めて、公共のルールとマナーを教える通りがかりのオッサンはいなくなった。人間関係が極端に希薄になっている。これも個人情報保護の観点から、他人の事を詮索する風潮にくぎを刺されているからである。
高齢者介護の世界で地域密着を求められ、地元との連携を強要されるものの、社会全体の関係性が希薄化している現代社会。どのように社会貢献できるのか、本に難しい課題となりつつある。
車には必ずクラクションが付いているよね! そして、クラクションの音色はまちまちであり、人によってはオリジナルな音色を嫌って、又は、オリジナリティーや奇天烈を狙い音を変えている人もいる。軽自動車なのに大型トラックのようなエアーホーンを取り付けていたり、ベンツのクラクションを真似たりと様々である。今日、太陽の家の前の幹線道路脇の植え込みの除草を行っていたが、本の一時間程度の草抜き掃除の間に、結構な台数の車がクラクションを鳴り響かせて走り去る現場に遭遇した。
一台は、対向車の右折に伴い、自らの進路妨害をたしなめるクラクションだった。もう一台は、施設前のショッピングセンター駐車場から幹線道路に出るときに、信号待ちで並ぶ停止車両に道を譲ってもらった礼としてクラクションを鳴らした。それもエアーホーンである。そして、もう一台は、猛スピードで走り去る車が、前方の障害物にあたる車両に向け発したクラクションである。
いずれのクラクションも冷静に考えても不必要な行為であると感じる。僕から見ると、最初の一台は、少し減速してやり過ごせば支障はない場面であり、そこのけそこのけ俺様が通る!とばかりに、相手を威嚇する行為はとっても失礼極まりない行為である。良く言われる事であるが、自分の占有道ではない。公共の道路で俺様が通る式の運転手って意外と多いものだ。次に、系車両を運転する女性は、礼のつもりでエアーホーンを鳴らして走り去ったが、彼女は片手にたばこを持って、片手でハンドル切手、クラクションを鳴らして行った。女だてらに!と言うと男女平等の時代に叱られそうだが、手を挙げて軽く会釈すれば済むことではないのかなア・・・うちの近所でも深夜にも関わらず、知り合い同士か何かか隣の集合店舗の駐車場から出る際にクラクションの挨拶を交わす連中がいる。同じようなタイプに思える。いずれにせよ、車のクラクションって、いまどき使う頻度は減少傾向にあると思われるが如何かな? 車のクラクションは対向車や歩行者を威嚇する為のモノでは無いと思うし、知り合いに挨拶を交えるための道具でもないと思う。クラクションをやたらめったら鳴らしたがる連中を見ると、田舎臭く、オシャレでない気がするよ。
時と場所、状況を考えてスマートについでに言えば知的にクラクションを使うことは出来ないものか・・・・・???
まったく介護とは無関係なプロ野球の話題。早速だが、昨夜の巨人 Vs DeNAの6回戦。8回表まで巨人は杉内の好投で相手陣営を0点に押さえ込んでいた。結果、杉内の自滅で8回の表、DeNAに一点を与えることとなってしまい、試合は引き分け。
さて、問題はここにある。杉内という投手。今年、実業団野球からパリーグに入り活躍してきた選手だが(巨人はヘッドハンティングがお上手なようだ)、今一持久力と言うか、集中力にかける点で信頼度が若干低いと僕は思っている。そんな杉内をどの時点で替えるか?!という点を考えてみたい。実際昨日の試合で、1対0に押さえ込んでいた7回裏の巨人の攻撃の中で、1アウト(加治前がライトフライでアウト)出塁なしの時点で、ピッチャーの杉内に打順が回ってきた。次に控えるのが一番打者の長野。運よく杉内は四球連続してボールの四球となり出塁。この日の巨人軍の打撃陣は低レベル。出塁を得点に結びつけることができない。原監督は、それまで無失点に押さえ込んでいた杉内を継投させる方をチョイスしたわけだが、結果は、次の回に杉内は自滅する。
野球は団体戦と言いつつ、個人の技量がチームに大きく影響するスポーツ。一人が崩れるとチームに与える影響も大きい。それだけに、個々の選手の使い方によって勝敗は大きく変わってしまう。要するに原監督の采配の問題が、今の巨人軍のリーグ順位に関係しているということである。プロ野球を社会に例えると、個々の球団はさしずめ企業。監督は、企業のトップの立場である。事業として成功を収めるためには、DeNAの中畑監督のように、選手にげきを飛ばし精神力を叩き込みながら、アンパイアヤーにも執拗に食って掛かるほどの粘りが必要なのか?それとも選手である職員を信頼して、例え負けたとしても選手の成長を促す采配を目指すのか・・・?!
野球を見ながら、僕は自分の事業所を考える。さて、僕はどちらを選ぶだろう・・・?と・・・勝利あるのみ!と形振り構わずに職員を使うのか?勝利だけでなく、将来に有望な選手を育てることを目指すのか?・・・・・・・・
野球、特に巨人のファンとしては、どうしても勝ってもらいたい。リーグでトップになってほしい。そんな気持ちが働き、あの7回の杉内の打席で代打という選択をしなかった采配を悔やむところだが、シーズンは長い。まだまだ前半戦の今シーズン。選手を育てる、同時に完封勝利と言う自信をつけさせてやりたい親心も理解できる。企業理念とプロ野球は一緒に考えてはいけないが、僕は原監督の考えに妙に納得してしまうのだが・・・・(だから、儲からんわ!って声が聞こえてきそうであるが)