今年は、いつになったら熱くなるんだろうと思いながら、例年なら蒸し暑くって仕方ないころに、まだ長袖でないと肌寒いと思っていたのが、ここにきて急に暑くなってしまいました。毎日新聞をにぎわすのが、猛暑日の話題や熱中症の話題。街中で救急車を見かけると、また熱中症で誰かが倒れたか?と思ってしまう程の猛暑ですね。先日の午後、用あって近くの病院を訪れた時のこと。エレベーターに数名の人達と乗り合わせたのですが、どこからともなく汗の臭いが漂い始め、次にドアが開くまでの数秒間というもの、さすがに「夏」を実感する場面に遭遇したわけです。もちろん、僕自身も汗臭かったことだろうとは思いますが・・・
さて、話は汗臭いエレベーターの話ではなく、寝苦しい夏の夜に重ねてロンドン・オリンピックのテレビ中継の影響で、ついつい夜更かししてしまう毎日なのですが、日本人の多くの人は同じように、ついつい夜更かししてしまってるのでしょうね。眠い目をこすりながら、時折、テレビの実況アナウンスが、す~っと意識の片隅から消えていく瞬間を感じつつ、ハッと我に返り、もう一度テレビ中継を見つめなおす。そんな時間を過ごしています。
あれほど、省エネモードで節電に気配りを!と叫ばれながらも、ハッと気づいた時には、それまで見ていたはずの競技が終わり、番組まで替わっていたってことは無いですか?僕は、そんな状況、何度も経験しています。何にも省エネではない。逆にさっさと寝てしまえば良いものを・・・金メダルを求めて限界の中でもがく日本人選手をみてると、節電も忘れて応援したくなるものなんです。とは言っても、結果的に居眠りしてるだけなら、応援も何もあったもんじゃないのですけどね!
野球を見てても、オリンピックにしてもそうですが、観戦する方は気楽なものです。ビール片手に、さきいかを肴に、ほろ酔い加減に調子づき、言いたい放題。時には大声で怒り、感激に叫び、そして監督でもないのに、ちょっとしたプレーに注文を付ける。まあ、僕も世の中の親父族と言われる年代、スポーツ観戦は、あくまでも他人事、それでいて結果に一喜一憂する気楽な年代なんです。協議してる選手は必死なのに・・・そう考えると、ちょこっと反省して、今後は襟を正してもっと心を込めてオリンピック日本代表選手たちの応援に励みたいと思うのです。明日からは・・・・もっとマジメに!心を込めて!・・・・・ふにゃふにゃ・・・・
普段から、いろいろなお年寄りの介護に精いっぱいの努力を、ありがとう。皆さんの支援によって多くのお年寄りたちが、毎日元気に生活を維持できていると確信しています。さて、精いっぱいの努力を頂きながら、更なる理解を求めるには、それなりの理由があります。まず、今の介護業界の現状を考えると、市内に増え続ける新規デイサービスセンターやグループホームなどの小規模施設の立ち上げです。増え続ける高齢者の受け皿づくりと、今後さらに増加するみこみの認知症高齢者を支える専門施設としての整備が進められているわけです。たくさんの同業施設が増えてくることは、そこには市場原理として「よりサービスの良い事業所に利用者が集中する」という現象が見えてきます。今すでに、その施設のサービスは兎も角、立地によって待機者の数に差が生まれようとしています。お陰様で、この太陽の家は、鈴鹿市内の中心部に立地し、ショッピングや交通の便を考えても、とても有利な立地条件化に位置します。しかし、問題は、これから先の話です。現状に満足し、今の環境に胡坐をかいてしまうことで、いつの間にか気が付いた時には、地域の中の同業事業所に大きく溝をあけられてしまった!と言う失敗は見たくはありません。今、他事業所との格差が微小であり、そのいづれもドングリの背比べ的状況下では、どこの施設を利用しても大差はないのですが、ここで皆さんが先々を見据えて、もう一段階のステップアップを達成してもらえれば、業界でのイニシアティブを獲得することとなると信じています。
我々の求めるものは、立地条件はOK!しかし、提供されるサービスの質によっては利用を遠慮される方もあり得るという点を考えていかなくてはなりません。ただ単に同業各社の中で企業として生き残るだけではなく、この社会福祉事業として地域に貢献し、この地区の社会福祉全般を担うだけの技量と自信を得ることは、ここに働く職員さんのサービス提供者としての自負心にも大きくつながることと信じています。
以前、私はブログの中で書いたことがあります。サービスもへったくれもなく不味いラーメンを販売していて金をとるな!と。まさしく、この理論が必要不可欠な時代なのです。国により、地方行政により、国民の多くの血税を介護保険事業に使わせてもらっているのです。ただ時間さえ満たせば(サービス提供時間だけ滞在するだけの状態)介護保険から同一の報酬が確約されている制度上の問題はあるにせよ、だからと言って、文句言われないから最低レベルの帰順させ満たせばよいという考え方に明日はない!そのような気概で前を見つめてもらえなければ、日本の高齢者福祉は破綻することは目に見えています。そして、この理論が浸透しない介護職の人が要介護者となった時に、今、要介護者が心に秘めている同じ不満感を味わうこととなるのです。
人間の欲求を100%満たすことは不可能です。しかし、100%に近づける気持ちを維持することは可能です。自分の独りよがりではなく、複数の者が同じように満足できる到達点を求めて、ともに学びを進めていかなければいけません。このように、私は考えるのですがいかがでしょうか?
うちの居宅のケアマネが昼食時に帰ってくるなり、「ブログネタ!獲ってきました!」と嬉しそうに言う。彼女のことだから、きっとうちの年配の看護師のおふざけ写真と思いきや、掲載した信号機の写真だった。彼女の話によると、今朝がたの雷鳴とどろく雨空の中、居宅の業務で出かける際中の出来事だったそうで、幹線道路を走行中に赤信号で止まった途端に、写真の通り、交差点のすべての信号が消失したそうだ。幹線道路だから、その時の車両走行量も多いはずが、信号が消えても、しっかりと全社停止し、交差する側の道路から、適当な時間だけ往来があり、また車両が自発的に停止し、幹線道の方の車列が動き出したそうだ。誰が支持するでもなく、その場に居合わせたドライバーが、指示なく規則正しく走行していた。と言う点でびっくりしたとコメントしていた。
普段は黄色信号はすすめ!のドライバーマナーを嘆きながらも、いざと言うときには秩序を持って運転できるんだ!という驚きがブログのネタだそうだ。
この看板は知る人ぞ知るガソリンスタンドの看板です。下の76は、カリフォルニアを中心にシェアーを伸ばしてきたユニオン ガソリン。上の78の看板は、三重県内の国道沿いに見つけた看板です。残念ながら、このスタンドはすでに廃業となっていました。コピー大国の中国みたいな雰囲気がかわいらしく、思わず手持ちのカメラで撮影してしまいました。こんなユーモアたっぷりのガソリンスタンドが近くにあったら、僕なんか一辺にファンになりそう。次いで、こんな恐ろしい前ふり看板は見たことなく、昼の日中ではあったのですが、用を足しながらも、その無防備な間中、体が構えていました。恐ろしい看板ですが、不審者がでます!って断言されてもなあ~って感じですね。
前回に引き続き、今話題の学校の問題について書いてみたい。
イジメに関して、社会全体が大きな関心を示している今、あらゆるテレビ局のワイドショーにまで取り上げられるいじめ問題。全体的に教育者や教育現場である学校と言う組織が標的となっているように思うが、これって、どうなの~???
日本の社会の典型的のような事象が、今のいじめ問題への社会の視点ではないか?何を改善すれば良い理論ではなく、誰をターゲットにして改善を求めるのか?と、社会の視点に偏りが出ているように思えて仕方ない。確かに、今回の大津市の教育現場で発生した、生徒の自殺に絡んだ諸問題は教育委員会や学校側の対応のまずさが標的とされ、今ではマスメディアのすべてが、学校長や教育委員会バッシングに傾倒している。イジメの根本に隠されている本質も、イジメの捉え方も議論されず、ただ単に子供を守ることができなかった学校組織を敵視する方法は、中世ヨーロッパの魔女狩りのように思えるのは、日和見的な僕だけの感情かしら・・・?
以前、うちの施設で働いてくれてたスタッフが、このようなイジメが起きやすい社会の中で成長してきた子だった。就労期間はそれほど長くはないが、それでも一生懸命に働いてくれた。ただ少しだけ、自分中心のものの考え方が介護の世界では通用しないものがあった。高齢者は、自分の余生が限られている分、ある意味我儘な存在である。また、重複する持病による苛立ちや不安感情が若者よりも多く、その分生きる希望を失いがちである。そのような現場にいて、若者視点で現代の流行を押し付けても、高齢者はなじんではもらえない。逆に介護する者として、周りからも浮き上がってしまうようになってしまった。前回のブログにも書いたように、話さなくても分かり合える時代から話してもわからない時代の子なのである。高齢者どころか我々、管理者側からも理解できにくい状況に悩んだものであった。この子は、この子なりに一生懸命、社会福祉を学び、自分なりに努力してなじもうとしていたはずである。しかし、この子と周囲との壁は厚く、高くなる一方でった。そして、最終的に事業所を去って行った。
小学生でも中学生でも、学校に来ている以上は、その子たちの命を守る義務が学校にはある。義務と言うより、学校の教育者として、きょうしとして自らの倫理観から自分の教え子たちを守ろうとするはずである。しかし、ここには、教師と生徒と言う普段からの主従関係の構築があって初めて成り立つ観念ではないのだろうか?今の学校には、親と同じだけの思いやりを持った教育者が少ない。その理由に、親族が他人である教育者による躾や教育を望んでいないのではないか?!少子化社会となり、親が四六時中、我が子をかまい、躾けることが可能となった今、自分以外の大人に左右される子供には育てたくない感情が親の方にも存在する。そのくせ、一つことが起これば、すべての責任は教育現場の教師に押し付けられる。これは、完全に不公平な状況ではないか? 親が教育者に自分の子供の教育を託すことができない社会となりつつあるのであれば、そこに生徒同士のイジメが発生しても、それは親の責任ではないのか?ましてや、そんな現場に警察が介入することは、古来からの信頼関係の厚い日本社会の崩壊ではないか?
このイジメの問題で揺れる学校で教育を受けている子供たちが、次の社会福祉を担う人々となるわけだが、学校で無難なく時間を過ごさせてもらい、家庭では、父親よりも尊重され大事に、自由に、そして家庭の中心的存在として育て上げられた子供たちである。高齢者介護なんて、面倒くさい、臭い、キツイ仕事について、自分の我を捨てて専門性に徹することって可能なのだろうか?大きな疑問である。
イジメをイジメとして理解するのではなく、一つの厳しい社会勉強であり、そんな社会にも順応できるたくましさを教える機関が求められる。別の組織ではない、文部科学省直轄でも何でもない、昔のように単なる近所のおっさんやおばちゃんたちの輪や、世話焼き婆の存在こそが、社会的な苛めの撲滅や、ヤンキー撲滅につながるソサエティーの姿ではないのだろうか?
世の中の定年退職を求められた60歳以上の中年オッサンやオバやんこそ、子供達の目の上のコブの存在になるべきであろう。そして、こんな機関を作って、定年後の第2の人生に行政が支援を行えば、それこそ一挙両得ではないのか?