エアコンの室外機の後ろに作られた蜂の巣。働き蜂の多くだけでなく幼虫も死んでしまった。連日40度を超える猛暑のこの頃、人間さんだけではなく、自然界に生息する生き物にとっても、この熱波は厳しいものなんであろう・・・
これほど暑い毎日が始まる前までは、日中の日の光りの下、大型の蜂が飛び交い、うちのお犬様たちもお散歩が危ぶまれる状態が続いていた。そろそろ巣の始末を考えていた矢先の出来事で、ベランダのデッキの上に一匹の蜂の死骸を発見。恐る恐る室外機の後ろ側を覗き込んでみれば、蜂の幼虫まで床に転がり落ちて死んでいる。
今日は、炎天下に温度計を持ち出して変化を見てみたが、炎天下に10分ほど放置した結果の写真がこれである。46度C。車のドアを開けて運転席に座った途端、その熱気に阿藤されてしまい、ハンドルだけではなくシフトレバーまでも暑くて触れない状態。日本の夏!なんて悠長なことを言っていられない時代に突入したようです。
自転車を趣味とするようになって、この界隈の道路に対し別の視点で見ることができるようになった。今まで車で通りすぎだけで、細かな道路の構造ってものに、まったく目が向かなかったが、自分の脚力で移動することが増加するにつれ、これほど歩行者、車いす利用者や自転車利用者にとって酷な道はない!と初めて感じることとなった。
まず第一に、歩道がしっかりと余裕をもって設けられていない点である。狭い日本。車道さえも余裕なく、歩道までも・・・と致し方ない問題かもしれないが、これが国道に付随する側道としての歩道も、完全に設置されていない箇所が多い。歩道が途中で途切れていたり、橋に歩道部分が確保されていなかったり・・・おまけに今の時期、歩道を覆い尽くすように生い茂る草で、歩道の大半が隠れていたり・・・
そして道路と道路の継ぎ目が大きい。特に車道によって分断される歩道。日本の歩道ってのは、車道より一段高く設定されている都合上、歩道が切れる部分にスロープこそ設けられているものの、そこには数センチの段差が存在する。
写真では分かりにくいかもしれないが、この段差。車いすの自走には乗り越えることはできない。まず、完全に前輪を持ち上げない限り、この段差が障害となり前に進むことができない。これは、車いすに限らずベビーカーにしても、オンバと呼ばれる歩行補助具も同様である。
もっとひどい箇所が稲生の方にある。歩道のど真ん中に歩道橋の柱が邪魔して、歩道を進むには、柱の脇の数センチのスペースを使って越えなければいけない箇所があった。
ユニバーサルデザインより、シームレスなデザインを優先し、歩行者や車いす利用者にとって移動しやすい道路整備が期待される。
この暑い時期に厄落としって時期はずれな気がするのですが、昨日の日曜日に滋賀県の田村神社まで一人で厄落としに行ってきた。テレビで報道されるような渋滞もなく、(国道一号線、鈴鹿峠を使う車もめっぽう少ない)普段の日以上にスムーズに田村神社に到着。ただ、社務所に着いた時間がお昼時。想像もしていなかったお昼休憩で社務所はモヌケノ殻。仕方なく、参道を歩いて近所の道の駅にて昼食を食べることにした。
道の駅のセルフサービスのお店でうどんを食べ、土産物を眺めながら時間つぶしを。午後の1時となったので、そろそろ休憩も終わるのか・・・と期待しながら社務所に戻る。
ここ数日、40度を超える酷暑の連続。この日も車の室外温度計は40度を示していたほどの快晴。鈴鹿峠を越えた滋賀県でも暑い!杉木立を歩いているだけでも暑い。背中はもちろん、ボンレスハム状態の腰回りには、帯状の汗のシミが・・・・
ハンカチで汗を拭き拭き社務所に着いたが、まだ休憩中の札。厄払いを求めるものとして、神さまのいらっしゃる社で文句を言うのもはばかる。この暑い時期だから、いつも以上に昼休憩も長いのかもしれない・・・と自分アンリに納得しながら待つこと30分。女の子とデートの待ち合わせでも30分以上待ったことのない自分が・・・・
炎天下で、本当に少しの日かげの下、さらに待つこと30分。のべ1時間待って、仕方なく社務所の界隈を歩き回り。人の姿を捜し歩いた。やっと別の建物のガラス越しに人影を見つけて手を振って合図を送る。
マア、何だかんだあったものの無事に祈祷していただき、厄払いも済ませて帰るころにはお昼も2時を過ぎてしまった。カッターシャツもずぶ濡れになるほどの汗をかきながら、厄落としってのは苦労が伴うものなんだ!と悟った一日だった。
最近目立ってニュースとなる一般人による悪ふざけ行為について、日本人の一般常識の変化に驚かされることが多い。コンビニスタッフのアイスクリームストッカーに寝そべり、その写真をツイッターに投稿、同じように若者のグループ客の一人が、コンビニスタッフの目を盗んで同じ行為を行ったり、最近では全国チェーン展開中のレストランでも、似たような悪ふざけ写真をツイッターに投稿等。
共に現代人の目立ちたがり行為の一環のように報道されているが、さらに少し時期をさかのぼれば、関西の大学生がテーマパークのアトラクションでの常識外の行動を行い、それらのアトラクションを運休させる結果となったり・・・と、その行為は底知らずで、まったく常識の範疇を越えて、あきれてものが言えない状況である。
以前、認知症指導者研修において「倫理と道徳」について自分なりの定義を書いたことがある。僕の考える倫理とは社会的道徳の規範となるものが倫理であり、倫理は同時に自らが律することで維持されていることから、人の目に触れないところにおいては倫理は簡単に犯される可能性も秘めている。と書いたことがある。要するに他人が見ていないところでは、タバコやゴミのポイ捨てを行うことが、それに相当すると考えている。
この定義を今の若い者の倫理観に当てはめてみると、ツイッターと言うある意味、公然と不特定多数の人の目に触れることを前提としてなされる行為は、倫理観の問題ではないことは明白である。倫理観の欠如というより、もとより倫理観すら持ち合わせていない人々の数の方が大多数を占める時代となったのかもしれない。
我々の介護の業界においても、サービス利用者を笑いのネタにし、ツイッターや動画サイトに投稿し、自分と同じ笑いを他者に求めて、(言うなれば「共犯者」)を作ることで、自分の行為を正当化させよううとするケースが明るみに出たことがある。赤信号、みんなで渡れば怖くない的感覚が、全てにおいてまかり通り、そこに人間の尊厳や人としての不可侵の権利を踏みにじる行為が、いとも簡単に行われてしまう現代。
教育が悪いのか、家庭環境が悪いのか?それは分からないが、この時勢、介護職員となっていく若者たちには、古臭いかもしれないが人とつぃての一般常識をもう一度考える機会を与えていかなければいけない。と思う。
僕のパソコンのホームは Yahooに設定されているのだが、このブラウザーには、その日の星座の運勢が表示されている。同じように別のプロバイダーのブラウザーを見ると、そこにも星座の運勢が表示されている。
この二つの示す運勢が、まったく異なる運勢を示していることに、いつも惑わされる。惑わされるくらいなら見なけりゃいいのに・・・と思うが、ついつい興味があってみてしまう。そして、結果として「アホくさ!」と言う気分になって、あてにもしないわけだが。しかし、占いなんて、昔から「当たるもハッケ、当たらないもハッケ!」と言われるくらい、いい加減なものである。
しかし、この運勢を信じる人にとっては、その日の人生の指針となり得る「運勢判断」。占い師の技量の問題と言うより、それらに縋らなければいけない自分自身の精神状況を考慮して、そんなものを笑って一喝できる鈍感力を養いたいものだ!